のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●出エジプト記31章:「聖別する」

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"「見よ。わたしは、ユダ部族に属する、フルの子ウリの子ベツァルエルを名指して召し、彼に、知恵と英知と知識とあらゆる務めにおいて、神の霊を満たした。"
出エジプト記 31章2~3節

 

神はご自分の力ある業を行うために、人を選び用いられます。それは、神ご自身の素晴らしさ、その栄光が現されるためです。神の栄光現すことが人間の使命だからです。

ときに、何も特別な能力に長けていなかったとしても、むしろ、そのような者を用いられるのです。それは人が誇らず、かえって神の御力に栄光を帰すことになるからです。

 

神は取るに足らない者を選んだのは、誰をも誇らせないためだとパウロも言っています。

 

コリント人への手紙第一1章27節〜29節

"しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。"

何れにしても、神の業に選ばれた者は、その栄光を自分のものとしてはなりません。もともと持っていた能力によって神に仕えたとしても、もともと持ち合わせていなかったにしても、その業を成し遂げさせてくださるのは神だからです。しかも、生まれつき、特別な能力を持っていたにしても、その能力自体が神からの賜物であることを認めなければなりません。

 

それで、この箇所においては幕屋を造るために、フルの子ウリの子ベツァルエルを選ばれました。その仕事について、こう言われています。

"それは、彼が金や銀や青銅の細工に意匠を凝らし、
はめ込みの宝石を彫刻し、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。"
出エジプト記 31章4~5節

神はベツァルエルの手の技を祝福して、それをご自分の栄光のために用いるのです。それは、神のことばの小さなことをも大切にする人であったからということがわかります。

私たちも神のことばのどんな小さなことをも大切にするものでありたいと思います。

 

また神は、ご自分の業を行うために、ベツァルエルだけでなく、もう一人、ともに主の業、礼拝のための器具造りを行う仲間を与えてくださいました。

"見よ。わたしは、ダン部族に属する、アヒサマクの子オホリアブを彼とともにいるようにする。わたしは、すべて心に知恵ある者の心に知恵を授ける。彼らは、わたしがあなたに命じたすべてのものを作る。"
出エジプト記 31章6節

神はともにご自分の業を行う者として、ダン部族のオホリアブを選びました。ここに、主の業のため、特に幕屋という礼拝に関わる業のために、複数の人に行わせることに注目させられます。そこには、神の知恵が与えられ、神の聖なる業における協力を学び、それこそが神の国の構成を予め示すものであることがわかります。

 

初代教会時代に、アンティオキア教会を牧する際、エルサレム教会から遣わされたバルナバは、わざわざタルソまで足を運びサウロ(パウロ)をその同労者として連れて来ました。その後、アンティオキア教会は更に目まぐるしく成長し、海外宣教のための拠点となっていくのです。

 

このように、神はご自分の業を特定の人に独り占めにさせることなく、必ず同労者を選び、仲間として協力させてご自分の聖なる御国を建設されるのです。

 

また、この二人の働きを見るときに、礼拝で使われる物を聖別する大切さも学ぶことができます。神の聖なる業には、この世の物を使わざるを得ませんが、それは単に汚い物を綺麗にして使うと言うよりも、この世の物であった物を、特別に神様専用にすると言うことです。聖なるものとするとは、この世の物と神の物と分離して使うことを意味しています。

神の物は神の物として、はっきりする。これがこのところでも教えられるのです。

"すなわち、会見の天幕、あかしの箱、その上の『宥めの蓋』、天幕のすべての備品、
机とその備品、きよい燭台とそのすべての器具、香の祭壇、
全焼のささげ物の祭壇とそのすべての用具、洗盤とその台、
式服、すなわち、祭司アロンの聖なる装束と、その子らが祭司として仕えるための装束、
注ぎの油、聖所のための香り高い香である。彼らは、すべて、わたしがあなたに命じたとおりに作らなければならない。」"
出エジプト記 31章7~11節

ですから、私たちの生活の中でも、日常のことに使う物と主のために用いるものとは区別することが必要でしょう。あなたは礼拝のためにどんな聖別をしているでしょうか。まず小さなことから始めても良いかも知れません。礼拝のために着る衣服を聖別するとか、礼拝には新しい下着をつけるとか、形式的にならないように注意しながら、そのような小さな取り組みから、私たち自身としての献身、聖別が求められているのではないでしょうか。

 

それは、この聖なる業にあなたも招かれているということです。今日、その事実を神は聖書を通して教えてくださいました。その業はもちろん献身者としての歩みですから、そのために自分自身を聖別して主に献げなければなりません。その生活全て、時間も力も主のものです。しかし、だからと言って働き通しでもありません。

 

必ず安息日を守らせて、しかもそれを守らなければ「殺す」とまで厳しく命じられました。ここに、主の前に休むことの大切さも教えられます。

 

"主はモーセに告げられた。
「あなたはイスラエルの子らに告げよ。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるしである。わたしが主であり、あなたがたを聖別する者であることを、あなたがたが知るためである。
あなたがたは、この安息を守らなければならない。これは、あなたがたにとって聖なるものだからである。これを汚す者は必ず殺されなければならない。この安息中に仕事をする者はだれでも、自分の民の間から断ち切られる。
六日間は仕事をする。しかし、七日目は主の聖なる全き安息である。安息日に仕事をする者は、だれでも必ず殺されなければならない。
イスラエルの子らはこの安息を守り、永遠の契約として、代々にわたり、この安息を守らなければならない。
これは永遠に、わたしとイスラエルの子らとの間のしるしである。それは主が六日間で天と地を造り、七日目にやめて、休息したからである。」
こうして主は、シナイ山モーセと語り終えたとき、さとしの板を二枚、すなわち神の指で書き記された石の板をモーセにお授けになった。"
出エジプト記 31章12~18節

一見厳しそうに見えるこの戒めは、神の私たちに対する愛の表現です。神があなたを愛しているのだから、あなたも命がけで愛してほしい。これが神の私たちに対する愛の御心なのです。今日も主は、そのくらい熱心でとてつもなく強い愛であなたを包み守ろうとしておられます。その愛にあなたはどう答えるでしょうか。

 

神に仕える人も、神のために用いられる道具も共通することは、神専用になること、神専用にすることです。

 

"私は主が言われる声を聞いた。「だれを、わたしは遣わそう。だれが、われわれのために行くだろうか。」私は言った。「ここに私がおります。私を遣わしてください。」"
イザヤ書 6章8節

私たちの今日の歩みが神を愛し神専用になることを願い、お祈りいたしましょう。