"そのためユダヤ人たちは、イエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
イエスは彼らに答えられた。
「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」
そのためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。
イエスが安息日を破っていただけでなく、神をご自分の父と呼び、ご自分を神と等しくされたからである。"
イエスは神か人か。その問いは、古代教会からあったことでした。しかし、聖書が明らかにイエスご自身がご自分を神と等しくされたと言っています。
安息日に人を癒し、それがユダヤ人にとっては律法違反になりました。
そもそも、律法そのものは人の自由を奪うものではなく、神を愛するための指標でしたが、人間にとって、そのようなことは形骸化し、形式的になってしまうものです。
このときのユダヤ社会もそうでした。しかし、それ以上にイエスが安息日に業を行うことには理由があったのです。それは神ご自身であるということです。
神が天地創造のとき、第7日目に休まれたのは、後に人間の生活のためであり、それを神がなさったことで、その愛を知り、形式的にではなく、神を愛してそのとおりに行うこと、その神を覚えて礼拝をささげることが、求められていたことです。
休まなければ罰があるから休むのではなく、神を愛して、神と会うから、その時間を取り分けるのです。恋人とデートの約束をして、会う時間、会う日を決めて、その通りにしようとすることに、私たちは苦痛を覚えるでしょうか。
神と会うことも同じです。それが真の安息になる時間になるのです。
イエスご自身が神であるから安息日でも、私たち人間を愛して、私たちが神と喜んで会見できるように道備えをし、働いておられるのです。
ここに、目くじらを立てて訴える理由なんかないのです。むしろ、私たちのために日々働いてくださっておられる神として、その愛の備えに感謝すべきです。
イエスは父なる神とともに、天地創造のときから、ずっと働いてくださっておられる。その事実を、この安息日における癒しの場面で知らされます。
今日は主イエスが復活された日曜日です。神を礼拝し、真の安息を味わってまいりましょう。