のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年12月4日 白石教会礼拝

説教題 「主が目を留めてくださった恵み」
聖書箇所 創世記36章1節~9節(10~43)
 
 
序論
 アドヴェント第二週を迎えて、ここで一度、創世記を終わりにしようと思います。創世記の区切りとして、ここで終ることで、次回はヤコブの歴史から始められるからです。それで、また新約聖書のマタイの福音書に戻るのですが、クリスマスを挟んでいますので、今年いっぱいは、そのことを意識したメッセージとなります。
 もうすでにアドヴェントですから、先週からイエス様の降誕に備える説教になっています。先週は教理説教で「救い」についてでした。救い主として来られたイエス様を待ち望むのにふさわしかったと思います。そして、今日の箇所もまたふさわしいと思います。それは、これまでイサクの歴史がずっとあって、次こそ「ヤコブの歴史」だと思わせておいて、ここに「エサウの歴史」を挟んでくる聖書の面白さ。
 
聖書は私たちに神様の救いを啓示している書物ですから、その本流はアブラハム、イサク、ヤコブから続くイスラエルの歴史であり、そこからお生まれになるイエス・キリストの歴史であることは、前々回の説教でお話しました。しかし、聖書は本流ではない歴史、ある意味、アウトサイダー的な、その系図もきちんと記録しているのです。それは、神様がそのように意図して、この記録を聖書に残したということです。
それは、道から逸れてしまった人、光の当たらない暗やみを歩く人にこそキリストが来てくださったというクリスマスメッセージがここにあるからです。そういう意味で、エサウの歴史をアドヴェントに読むのはふさわしいと思います。今年一年、説教のスケジュールもきちんと決められなかっただけに、このタイミングでこの箇所からのメッセージとなったことを感謝しています。
 
それで、今日、読んでいただいたのは36章の1節から9節ですが、説教箇所としては43節までとなります。系図も聖書の言葉なので全部読みたいところですが、時間の都合上、読むのは9節までにしました。
ですから、ここに羅列するエサウの歴史全部が射程範囲です。それは、ここに書かれている全てのエサウの子孫に、そしてエサウ自身に神様は目を留めておられるからです。私たちにとっては、つい読み飛ばしたくなる箇所、読みづらいので飛ばすような、そういう人々こそ、主は招いておられるからです。このアドヴェントのとき、そのことを覚えながら、今日もみことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.なかなかうまくいかない人生という旅
 さて聖書は、エサウの歴史をどのように書き始めているでしょうか。1節~3節を読みましょう。
「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわちヘテ人エロンの娘アダと、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ。それにイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテである。」
 エサウの歴史で、最初に取り上げられているのは、「すなわちエドムの歴史」であると、エサウエドムと言い換えられているということです。それは既にエサウが、弟ヤコブが料理していた赤い豆を食べたときに、その語源が示されていました。つまりエドムとは「赤い」(アドム)という意味から来ている名前だということです。そして、この創世記が書かれた時代には、エドムという呼び名の方が一般的であったということがわかります。「エドム」は後に、エサウの祖先とするエドム人という部族名となっていくからです。
 
 そこであらためて、エサウという人を振り返りたいと思います。エサウアブラハムの孫で、アブラハムの子イサクとリベカの間に生まれた双子の兄弟の兄の方です。弟が、これまでの主人公であったヤコブでした。
 エサウという人を端的に言うと、神様の祝福を軽んじる、霊的な価値観を持ち合わせていない人だったと言えます。また、性格的には純朴で大雑把な性格であったという事ができます。せっかく神様からいただいた長男としての祝福をいとも簡単に、弟ヤコブにやってしまいます。聖書では「長子の権利」は、神様からの賜物として扱われています。それは、自分自身では選べない、生まれつき備わっているものだからです。
 
 しかし、エサウはその祝福のしるしを、一杯の豆料理と交換してしまったのです。一時いっときの空腹を満たすため、その一時的な欲求を満たすために、神様の祝福を自ら放棄したということです。そのことを新約聖書のへブル書の記者は、このように言っています。
ヘブル12:16、17「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」
 
 へブル書では「エサウのような俗悪な者」と、かなり厳しい言い方をしています。それは、「一杯の食物」と「長子の権利」を両天秤にかけて、比較にならないほど価値のある方を手放したからです。それは、すなわち神様を軽んじたということなのです。創世記に戻ってエサウについての記事を読み返しても、創世記の記者もエサウについては、このように言っています。
創世記25:34「ヤコブエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」
 それは、つまり「神様を軽蔑した」に等しいということです。また、彼は結婚するときに、軽はずみに現地の女性たちと結婚しました。そのことが「イサクとリベカの悩みの種となった」(創世記26:35)と聖書は言います。
 
私たちはどうでしょうか。神様から頂いているものを軽んじていることはないでしょうか。自分が何番目に生まれたか、ということもそうですが、誰が親なのか、誰が子どもなのか、自分では選べないものがあります。性別もそうでしょう。それは自分では選べないし、変えられません。それは神様が与えてくださったギフトだからです。そのことを感謝し尊ぶことは、イコール、神様を尊び、感謝することなのです。「あなたの父母を敬いなさい」ということも、神様からの賜物であるという価値に基づいています。
 
 
2.祝福を与えようと見ておられるお方の眼差しを知る
 ではエサウがすべて悪いのでしょうか。そうではありません。実は、親であるイサクとリベカにも問題がありました。既に読んで来たところですが、創世記25:28にこう書いていました。
「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。」
 
 実はエサウヤコブも、親から等しく愛されていなかったことがわかります。つまり、エサウの俗悪さというのは、彼自身の責任ではあるけれども、決して彼だけの問題ではありませんでした。彼は親の愛をきちんと受けていなかった。この問題は大きいです。現在でも、その生い立ちが、その人の人格形成や、性癖に大きく関わっていることは、多くの事件等の分析などで取り上げられていることです。
 それは、私自身の性格や思考回路を考えても、私の家庭環境や親との関係性が大きく関わっているなと自覚できることが多くあります。そこを考えすぎると、あれもこれも、自分の育った環境が悪かった、親が悪かった、人生のすべてが取り返しのつかない、絶望であるというドツボにはまって、大変苦しくなります。
 
 先ほどの、ヘブル書のみことばに「彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても」と、エサウが涙を流して相続を取り戻したいと求めた姿が言われていましたが、そのエサウの涙を思うと、彼自身にも責任はあるのだけれども、彼が負っていた生い立ちにある悲しみ、苦しさという、どうしようもない重荷に同情せざるを得ません。
 
 しかも、そこに神様のご計画も絡んでいたことを思うと、いたたまれなくなってきます。エサウが生まれるときに母リベカのお腹の中で双子同士がぶつかり合うので、リベカが神様の御心を求めに行く場面がありました。そのとき神様はこう言われました。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
 それは、兄であるエサウが弟ヤコブに仕えるということは、神様の御心だったということです。ここには、神様のご計画として、エサウは兄でありつつ、弟に従うという御心があったのです。そこには代え難い運命があったのか、と読むこともできます。そう思うとエサウが益々、哀れに思えて来るのです。その神様の御心はリベカが聞いたことだったので、エサウはそれを知らなかったかも知れませんが、このみことばを読むときに、そのような思いが湧いてきます。
 
 結果的に、彼はアブラハムの子孫でありながら本流から外れてしまったような存在になってしまいました。約束の地であるヨルダン川を挟む肥沃な土地ではなく、かつてイサクが預言したように塩の海と言われる死海の南東部の砂漠、荒野に住むことになりました。
 では、エサウには希望はないのか。彼は神様に見捨てられてしまったのか。そうではありません。彼は、そのあと、これまで皆さんと一緒に見てきたように、20年の歳月の中で、ヤコブを許していました。ヤコブを受け入れて、抱き合って泣いて、一緒に暮らそうとまで言っていました。そして、自分が長子の権利を譲ったことを認めていたからこそ、そのまま、その砂漠のような土地に戻って行ったのです。そして、その砂漠に住んでも、家族が増やされて、後にエドム人と呼ばれる民族の父祖になっていくのです。そのことを、今日のエサウの歴史、特に9節以降からのエサウ系図は証ししています。
 
 特に31節以降を見ると、何とヤコブの子孫イスラエル民族から王様が出るよりも前に、エサウの子孫から王様が現れたことが記されています。これは、イスラエルよりも先にエサウの王国が建てられたということです。そして、神様によって、このように聖書にその名前が、その一族の系図も一緒に記録されているのです。このことを見る時に、決して神様は、エサウのことを見捨ててはいないことがわかります。むしろ、彼の闇のような人生に関わっていてくださって、エサウが自分の罪だけでなく、その生い立ちを恨んで絶望で終らないように、祝福の道に導いてくださったのです。
 むしろ「兄が弟に仕える」という御心は、決してエサウヤコブを差別するためのものではなく、エサウの祝福のために、そして人類救済のために、神様がお決めになった救いの計画であり、ヤコブにはヤコブの役目を、エサウにはエサウの役目を与えつつ、ここまで導いて来られたということです。そして、悩みの多い人生だったエサウですが、そのような、一見残念そうに思える歴史にも、主はきちんと祝福を与えて、この先も、弟ヤコブ、すなわちイスラエルに仕え、主なる神様を礼拝する民に加わるように、神様が配慮されていたということです。
 
 
結び
 エサウ自身は、ヤコブと和解し、あとは真の神様に心から立ち返ることが、これからの彼と彼の子孫の使命であったでしょう。そのためにも、このエサウ系図はよき励ましになっていると思います。聖書に度々出て来る系図の意味の一つは、私たちには馴染みがなくても、主は一人ひとりの名を呼び、一人ひとりに目を留めておられるということです。そして、その事実に気づいて、すべての人々が主を崇めるようになることを待っておられるのです。
 
 今日はアドヴェント第二主日ですが、まさにイエス様の母マリアは、天使ガブリエルから救い主を身ごもるという預言を受けたときに、まだ事が起こる前から、神様に信頼し賛美して、その信仰を告白しました。それが、今週のみことばに選んだ、ルカの福音書1章46節~48節です。
 ここにマリアは、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったから」と、自分が神様を賛美する理由を述べています。マリアの心の高揚をこの言葉から受けとることができます。彼女の喜びの泉が溢れ出ている、その様子が伝わってきます。ここに、主が待ち望んでおられる信仰があります。この卑しい者に主が目を留めてくださった恵み。何よりも代えがたい、主の憐みを受けた者として、最も喜ばしい姿です。
 
 マリアの生い立ちについては、聖書は何も言いません。しかし、この祈りは、自分がどのような者であるか、主の前に、どんな存在であるか。自分の罪深さ、聖なる神に似つかわしくない者であることを認めているという告白になっています。自分の罪穢れを知っているからこそ出て来る信仰者の祈りです。
 主が、アウトサイダーのように見えるエサウにも目を留めてくださって、この歴史、この系図を聖書に記して、イスラエルの神こそ彼の名を呼ぶ、真の神であることを、私たちに示してくださいました。今日の招きの詞のとおりです。
 
 そのために神様の内に秘められていた財宝、ひそかな所の隠された宝である御子イエス様が与えられました。それは、あなたの人生もエサウのように、自分の弱さや性格で失敗しているかも知れない。また、その生い立ちが影響して、悲惨な歩みであったかも知れない。しかし、エサウヤコブが与えられたように、私たちには、イエス・キリストが与えられているのです。
 エサウヤコブを、涙を流して受け入れました。それは主がエサウに目を留めて下さっていたからです。聖書にその名前が記され覚えられているように、あなたにも神様は目を留めてくださっています。あとは、そのことを恵みであると受け取るだけです。マリアのように、主はこの卑しいはしために目を留めてくださっている事実に、今度は、あなたが目を留める番です。
 
証しと勧め
私は3人兄弟の真ん中でした。上に姉がいて、下に弟がいます。一応、私は長男ですが、姉が上にいるので弟でもあります。そして、姉と下の弟がいつも仲良しだったので、私は自分のポジションが嫌でした。また、父親が嫌いでした。父は借金癖があって、いつも色々なものを買って来て、私たちを喜ばそうとするのですが、必ずあとから請求書が束で来たり、借金取りが来りと、その後始末が大変でした。
 その借金を母が昼間の仕事をしながら、夜はレストランで働いて返しているのを見て、自分の父親が嫌いでした。そして、その影響で貧しい生活をしていることがわかるようになると、毎日喉が痛くなるような思いで過ごしていました。遠足の日に水筒がなくて、その朝に母が何とか近所の商店から買って来たことがありました。今思うと、母は大変だったと感謝していますが、そのときは、毎日緊張して過ごしていて、何でこんな家に生まれて来たのだろうと、悲しくなる子ども時代でした。
 
 しかし、そんな私のことも神様は目を留めてくださって、小さい頃からイエス様に興味を持つように導いてくださり、中学生のときに、聖書が欲しいという思いを与えてくださって教会に導いてくださり、高校生のときにイエス様を信じることができて救われました。私自身の愚かさ、弱さもあり、生い立ちにも問題があると思っていましたが、今は、かつてはどうだったかではなく、今、神様の子どもにされ、今、このようにクリスチャンとして福音を伝えることができる。今は、本当に幸せです。麗しい妻も与えられ、子どもたちも与えられ、まだまだ色々失敗はあるけれども、こんな私に目を留めてくださった神様の眼差しを覚えるときに、心から感謝できる人生に変えられたと確信します。
 
 皆さんはいかがでしょうか。エサウに目を留めてくださった神様は、あなたにも目を留めてくださって、救い主を与えてくださいました。ぜひ、このアドヴェントのとき、マリアのように心を開きましょう。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」 神様に感謝が溢れる幸せな人生がここにあるからです。