のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年1月23日 白石教会礼拝説教

説教題 「キリストの教会として建てられる」
聖書箇所 マタイの福音書16章13節~20節
 
 

 新型コロナウィルスもどんどん変異して生き残りをかけています。現在はオミクロン株と呼ばれるかたちに変異して、より感染力を強めているということです。一方、毒性に関してはデルタ株よりも弱いとも言われています。きっと、ウイルスとして生き残れるようにそうなって来たのかもしれません。ウィルスがそう考えて変異してきたというよりも、コロナウィルスとして生き残れる遺伝子のものが残っているのでしょう。
 それでより多くの人に感染して生き残り、しかしワクチンなどで抗体を作られても細々とでも存続できるかたちが今のオミクロン株なのでしょう。
 
 先週、「パン種」についてお話をしました。悪いパン種、つまり間違った教えが教会に入って来ると、小さくても必ず教会を変異させる。イースト菌が小麦粉を練った生地を発酵させていくように、教会も誤った教えによって醗酵して、知らないうちにキリスト教会ではなくなっているということがあるというイエス様からの警告でした。まさにコロナウィルスが変異しても生き残ろうとするように、サタンが送り込んでくる間違った教えも、教会の中で生き残ろうとして、強く働いてくるのです。
 
 今日、交読で一緒にお読みしたエペソ人への手紙には「教えの風に吹き回されたり」とありましたが、そんなことが今も現実に起こっている。だから、そうならないためにはどうすべきなのか。だからそのようなパン種に吹き回されることないように、白石教会もそういう中で今年も、今日も生き残りをかけています。
 
 
1.正しい信仰告白によって
 「さて」と今日も場面が変わります。前回はガリラヤ湖の東側に来たと言いましたが、今日はどこでしょうか。それはピリポ・カイザリヤの地方と書かれています。ここは、やはりガリラヤ湖を中心に見るならば、ガリラヤ湖から北に40kmほどのところにある町です。この町はヘロデ大王ローマ皇帝アウグストから与えられたものです。それでそこには皇帝崇拝の神殿が建てられました。それはユダヤ人の王であるヘロデがローマ皇帝アウグストこそキリストつまりメシアであると言っているのと同じです。
 
 ですから、そのようなローマ皇帝こそキリストですという町に、イエス様と弟子たちはわざわざ来ているということです。そこでイエス様が弟子たちに質問されます。13節後半。
「人々は人の子をだれだと言っていますか」
 人の子というのは、イエス様ご自身がご自分のことを言う時に好んでお使いになった言い方です。ダニエル書でメシアを表わす表現として「人の子」が使われているので、暗にご自分をメシアであると仰っているのと同じです。でも、そこをまだはっきりと言わないところが、十字架に向かわれる前の段階として慎重さが伺えます。20節の意味もその十字架のタイミングとしては、ここで公にご自分がキリストであることを現わすのは時期尚早だったからでしょう。
 
 しかし、弟子たちの中でははっきりさせるのです。そのためにこの質問を弟子たちに向けてしているのです。それで、まず他の人びとの声、噂はどうなのかをお尋ねになります。ここは面白いですね。弟子が知っていることは当然イエス様も知っている情報でしょう。でもあえてそのことを尋ねる。すると弟子たちはそれに答えます。14節。
バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
 
 弟子たちはイエス様のお供をしていて、きちんとリサーチをしていたようですね。イエス様はご自分の口では、はっきりとイエス様ご自身がキリストであるとは言われなかった。しかし、御業においてはキリストが来られたときに起こる盲人の癒し、からだの不自由な方々の癒しを示して、そこから、この方はどんな方なのか見分けているか、識別しているか。そのことを弟子たちに言わせたのです。
 
 ここはとても大切な導きをイエス様はなさっています。それはキリストの弟子として、主イエスのことを告白する一般の人々の状況を知っておく。それによって、イエス様はこういう方ですよという自分の告白を整理する。考えさせる。ここが主の弟子として、主の群れとして大切な取り組みです。それは、イエスがどんな方かということをどのように正しく言うべきか。つまり告白するということは、どう信じているのかということを端的に表現することだからです。
 白石教会も検討委員会で信仰告白の案を考える中で、他の教会、教派・教団は何といっているかを調べました。そのことによって、自分たちはどうだろうかと自分に問いかけることになります。それはとても良い時間となりました。
 
 イエス様の弟子たちも一般の人々から聴いた内容は、彼らにとってイエスとはだれかという告白が更に研ぎ澄まされるための準備となりました。そこをイエス様は読み取ってこう質問します。15節。
「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
 いい質問ですね。あなたはどう言うか。ここが一番大切なところです。それは、主の弟子は自分の主がどんなお方なのかをまずイエス様ご自身に告白することが大事だからです。心で信じて義と認められ口で告白して救われるからですとパウロが言いましたが、心で信じていることは告白しなければ意味がありません。信じることと行動することはいつもセットです。
 
 愛し合う男女が結婚することに意味があるように、神を信じる者がそれを告白して洗礼受けることにも意味があります。それは表裏一体のことだからです。イエス様もこの告白を待っておられるのです。そのために、他の人は何て言っているかを考えさせて、その上で自分はどう思うのか。どう信じているのか。そのことを自分で考え、言葉を整理する。礼拝で証しすることも同じです。その証しは信仰告白です。その証しを聞いた人たちも、あらためて信仰が整理されて、更に研ぎ澄まされた信仰へと純化されていくのです。
 
 
2.岩の上に建てられる主の教会①
 それで弟子たちを代表してペテロが答えます。16節。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
 このペテロの信仰告白は100点でした。イエス様は本当にお喜びになってペテロを祝福します。17節。
「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」
 ペテロの本名を挙げて祝福だと宣言されるイエス様。ここのお言葉は、あのマタイ5章の山上の垂訓と同じで、原語の最初の言葉は「幸いだ」です。「なんて幸いだ、祝福だ。ヨナの子シモン」という感嘆文です。それくらいイエス様は正しく告白する者を喜ばれます。でも、私たちが調子に乗らないように、そのように素晴らしい告白をしたとしても神様に栄光を帰すように導かれます。
 「ペテロ、それを正しく告白できたことは素晴らしいことです。でも、その告白すらあなたから出たことではない。すべて神によって与えられているから、そう信じて告白できるのだ。そのことも恵みとして感謝するあなたは幸いです」と言うことです。
 
 神を信じ、主イエスを正しく告白する主の弟子は、どこまでもへりくだった者でなければなりません。褒められて自分の手柄としない。むしろ主よあなたの導きのおかげですと、全ての良いことは神様が与えてくださるからできるのだと、主に栄光を帰すのです。それがあなたは幸いですと言われる弟子の姿です。
 
 そして、そのように主によって幸いな道を歩ませていただいている者には、それだけではない祝福があります。それが教会です。イエス様はその教会を「わたしの教会」と言っておられます。18節。
「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」
 
 ここでイエス様は大喜利のように、洒落を利かせて言われています。
 正しい信仰を告白したペテロのその名前の意味は「岩」です。しかも、本当の名前がシモンなのにあえてイエス様がつけたニックネームです。ガリラヤ湖の漁師に過ぎなかったシモンという人がまず「岩」という意味のニックネームをいただいた。でも、そのときはイエスという方がどんな方かはよく知らなかった。でも、この数年の間に信仰が芽生えて、それを自分の口で明らかにするところまで成長したのです。
 
 それは名実ともにペテロがその名のように「岩」として成長している証しでした。
だから「あなたは生ける神の御子キリストです」とその正しい信仰、そして公に表明するそのところにイエス様が「わたしの教会を建てる」のです。そこに教会が自然にできるのでも、ペテロなどの人間が建てるのではないのです。イエス様ご自身が建てるのです。それが教会です。だから、ここはペテロの上に教会ができるのではなく、ペテロがすべての弟子を代表して答えたその信仰告白の上に「わたしの教会」すなわちキリスト教会がイエス様によって建てられる。
 
 ですからペテロの教会ではありません。ペテロは良い答えをしました。だからペテロ教会としましたというのではないのです。いくらペテロが良いことを言ったとしても、それは神様がそう示して言わせたことが素晴らしいのですから、そこは「わたしの教会」つまりキリストの教会なのです。だから、たとえかたちだけだとしても教会に人の名前がついているのは良いとはいえないでしょう。ルターが教会に自分の名がつくことを拒んだように、私たちだって、自分の名前が教会についたら嫌でしょう。
 
 でも、現在、私たちメノナイトも含めて、ルーテル教会も、その他にも聖○○教会も、きっと名前をつけられた本人たちは嫌でしょうね。また、これが、もう出来上がってしまった伝統があるのだから仕方ないということであれば、イエス様が言われた「わたしの教会」であり続けるためには、より一層中身が問われます。17節でイエス様が言われた言葉を大切にしたいものです。
「このことを…明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です」
 
 
3.岩の上に建てられる主の教会②
 その中身とは何か。それが、今日、ペテロが代表して告白したように、正しい信仰告白です。
 
 では、この16節の告白で十分なのでしょうか。そうではありません。このとき、ペテロが答えた時はこれで良かったでしょう。主がまだ十字架刑になる前、復活される前。主イエスご自身が、このことはまだ誰にもいわないようにと戒められたほどの時はこれで良かった。しかし、そのあと21節で十字架に向かって行く宣言をします。21節はマタイの福音書では一番最初の十字架と復活の予告になっています。
 
 そして、やがてエルサレムに入城され最後の晩餐の後に捕らえられ、総督ピラトの前で裁判にかけられ、死刑に定められ贖いの死を通られて、墓に葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり…と使徒信条で告白しているように、このあとに起きた出来事で、これを信じていなければ教会ではないということが、どんどん増えていくのです。なぜならば、このときもパリサイ人やサドカイ人の教えがあったように、私たちイエス様の弟子たちの群れ、すなわち教会を壊そうとするパン種がはびこるからです。
 それを今日の交読のみことばでは「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたり」という表現で言い表しています。
 
 その中で、このエペソ人への手紙を書いたパウロは、教会として大切な一致について説き明かしています。それがエペソ4章13節です。
「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するためです。」
 ここに、「信仰の一致、神の御子に関する知識の一致」が大切であることが言われています。それは今日の箇所でペテロが告白したことを他の弟子たちも告白することの大切さを意味しています。また、私たちも、歴史的なキリストの教会の流れにあるキリストの教会として、使徒信条をもって告白しているのもそうです。
 
 そして、今、現代におかれている白石キリスト教会は使徒信条だけでなく、独自の信仰告白が与えられています。それは、使徒信条がそうであるように、キリスト教会の歴史の中で、誤った教えがどんどんはびこって来ているからです。そのような異端との戦いの中で、最低限、このことは具体的にこのように信じていないとキリスト教会とは言えないでしょう。言い方を変えるならば、これらのことを信じていれば洗礼を授けますというラインを引いているということです。
 
 そのくらい、教会の歴史の中で、多くの悪いパン種が教会を蝕んで来たからなのです。それが今もずっと続いているので、誤ったしるしを求めないように、悪いパン種に冒されないように、その防波堤としての信仰告白をいただいたということです。
 
結び
 今年はちょうど、私が白石教会の牧師に招聘されて5年目を迎えます。5年目というのは任期最後の年という意味です。そういう意味で、これまでの4年間を総括し、次の6年目以降があるのか問われています。これまでの4年間は、新米の欠けばかりの牧師として色々と迷いつつ、皆さんにご迷惑をかけてまいりました。しかし目指してきたことは一つ。それは今日の説教題にあるように、白石キリスト教会が「キリストの教会として建てられる」ことです。そして、これからもこの群れで仕えていくならば、このベクトルは変わりません。
 
 私はまだこの任期で終わりですという主のことばをいただいていません。しかし、もう少ししたら罷免のみことばをいただくかも知れません。また、皆さんにとって、私が牧師としてふさわしくないと判断されるかも知れません。だからこそ、この5年目は、思うことがあれば、ぜひ正直に言っていただきたいと思います。私も更に6年目以降があるのであれば、牧会上気になっていることを正直に皆さんにお話をして、話し合っていきたいと思います。それがこの5年目だと認識しています。
 
 そのためにも、まず一致しておきたいことがあります。それが信仰の一致、神の御子に関する知識の一致です。私たちに必要なのは、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致です。
 
 今日の交読で読んだみことばには、牧師の使命は「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため」と示されています。だから、私も努力して皆さんが整えられ奉仕の働きができるように祈り、ただしく福音を語らねばなりません。それは、聖徒たちが自ら進んで働き人になっていけるように、純粋にみことばという牧草を美味しく調理し、食べていただくことだからです。そして一人ひとり聖徒として自ら進んで自分自身をささげていく。キリストのからだを建て上げる主の弟子として恵みに応えていくのです。
 だから、これからも私が聖書を通してお伝えするのは「キリストの福音」です。神の御子がどんなことを私たちのためにしてくださったか。今もなおどうなさっておられるか。これからどのように来られ、どのように救いを完成するのか。その福音を正しく伝える努力が必要です。
 
 同じように、皆さんも、今、このようなコロナ感染が蔓延している中ですが、キリストのからだを建て上げるために整えられ、奉仕の働きを進んで自分がささげるという目標があることを知り、それを進んでできるように願い求めていくことが大切でしょう。このようなことならばできるのではないか、自分は何ができるのか、思う方はぜひ教えてください。一緒に、同労者として主の教会を建て上げてまいりましょう。そして、その成果を見て、ともにこう告白したいものです。
 
 このことを明らかに示したのは人間ではなく、天にいます父ですと。
 
祈り