日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

「最も聖い信仰の上に」 聖書箇所 ユダの手紙17節~25節


 教会に忍び込んで来た異端の教えに対して、ユダは信仰のために戦うように手紙を書きました。その中心的なメッセージはイエス・キリストが私たちの唯一の支配者であり主であるお方であるということです。
 そのために、まず「思い出してほしい」と旧約聖書から様々な事例を用いて、主イエスこそさばき主であるということを、先週、ご一緒に聴いてまいりました。
 
 本当は先週までのところだと、やはり「イエス様がさばき主なのだから、目を覚ましなさい」という強いメッセージでした。何か、ちょっと脅しているかのようなメッセージであったなと思います。でも、このユダの手紙が言いたいことは、そこではありません。先週までのところで終わりならば、そうでしょうけれど、この手紙は25節まで通して、ようやくユダが伝えようとしていることを知ることができるからです。
 
 今日でユダの手紙を終えますが、今日はユダが思い出してほしい、もう一つのことから始まります。信仰の戦いを戦うため、イエス・キリストこそ私たちの支配者であり主である方であることを、益々確信し、立ち上がっていくために、もう一つの「思い起こすこと」を、私たちも聞いていきたいと思います。そして、2021年のキリスト教会として、またクリスチャンとして、しっかり信仰に立って行きたいと思うのです。しかも、ユダは、単なる信仰とは言わずに「最も聖い信仰の上に」と言っています。
 
 「最も聖い信仰」それは、いったいどういう信仰なのでしょうか。先週まで聞いて来た「思い出してほしいこと」とどのように違う信仰なのでしょうか。そして、それを私たちはどのように保って行けば良いのでしょうか。
 
 
1.御霊によって
 17節を読みます。
愛する人々よ。私たちの主イエス・キリスト使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。」
 ユダは、ここにこの手紙二度目の「愛する人々」と呼びかけます。これは主イエス・キリストに贖われた主の群れ、教会を表わすのに最もふさわしい表現ではないでしょうか。それは、教会は愛によって結び合わされた共同体だからです。しかも、それは人間的な利己的な愛ではなく、主イエス様の血潮によって買い取られた私たちだからです。だから、私たちもお互いを主がいのちを捨てるほど愛された者同士として尊び、主イエスを通して互いを愛し合う仲間なのです。
 
 ユダはここで、その愛する主に在る教会の兄弟姉妹たちに呼びかけて、もう一つの思い起こしてほしいことを告げます。この17節の「思い起こしてください」と5節の「思い出してほしい」の大きな違いは何でしょうか。
それは、今日取り上げている17節の方があきらかに命令であるということです。5節では「思い出してほしいことがある」と言っているのに対して、17節では「思い起こしてください」と命じている。それは、何を意味しているのでしょうか。
 
 それは、旧約聖書におけるさばきの実例以上に、ここから語られる使徒たちが前もって語ったこと。そして、そこから始まった新約の時代の方が更に信仰の戦いにおいて大切な意味を持っているということではないでしょうか。それはいったいどういうことが大切か。それが18節、19節にあります。
「彼らはあなたがたにこう言いました。『終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現れる。』この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。」
 
 ここには、終わりの時代にどのような人々が現れるかが言われています。このユダの手紙が書かれた頃は、紀元70年から80年ごろで、すでにペテロもパウロも殉教していたと言われています。ですから、ここでユダが語る言葉には、主イエスに直に会ったことがあり、使徒パウロやペテロの教えを聞いてきた生き証人として、その発言には重みがあります。
 
 ユダが言ったように、使徒ペテロは手紙の中でこう言い残しています。
「終りの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」(Ⅱペテロ3:3)
 
 ユダが言っている「あざける者」とはペテロの手紙によれば主イエスの再臨をそしる者ということになります。それは、「そんなことを信じているあなたがたはおめでたい人たちだ」と馬鹿にするということです。なぜなら、この異端の人たちは、聖書の権威を認めず、自分に理解できないことはありえないことだとしてみことばを信じないからです。
 そのことがキリスト教会内で起こることとして、ユダは使徒たちのことばを借りて、思い起こすように命じるのです。それは、その使徒たちの言葉、すなわち新約聖書をきちんと思い起こし味わうならば、どのような信仰が、今大切かがよくわかるからです。
 
 それが「御霊を持っている」ことです。御霊を持つとは、主イエスの霊が住んでいるということです。神である主が、ともにあることです。これが旧約時代の人たちに示された実例にはないことです。
 
 それでユダは、異端者たちが教会にもたらす特徴を端的に伝えています。それは、御霊を持たない者は、教会に分裂を起こすということです。言い換えると、御霊を持つ者は教会に一致をもたらします。パウロも、「平和の絆で結ばれて、御霊による一致を熱心に保ちなさい」と言っています。
 
 ここはとても分かりやすい目安です。御霊に満たされた人たちの中にはいつも一致がある。でも、もし分裂が起きたならば、その判断、その人の教え、ことば、その人自身は御霊を持っていない、または御霊の導きではないということになります。御霊は自由を与えるお方ですが、必ずその自由には秩序があります。聖霊は教会に一致を与えてくださるお方であり、分裂をもたらしません。ですから、私たちも、自分の判断、選択の中で、その言動が教会に分裂をもたらすならば、それは聖霊の導きではないと判断することができます。
 
 ですから信仰の戦いにとって、まず大切なことは、主イエスが贖いの代価を御自身の血で支払ってくださった今は、そのことを信じる者には聖霊によって証印が押され、異端との明確な区別がされていると言うことです。ですから、私たちもまず、いただいている聖霊の導きを覚え、自分の言動がいつも教会の一致を与えているか、それとも分裂を与えているか吟味することも大切です。もし、分裂を与えているとわかったら、そのときに悔い改めて、聖霊の満たしを求めましょう。
 
 御霊をいただいていることがどれほどの恵みか、その信仰がどれほど優れているのか。そのことをユダは「最も聖い信仰」と前段までの信仰と区別して言っているのです。それは、旧約時代にはなかった、新しい信仰。本当は旧約においても求めていた信仰でしたが、それは律法として命じられていたものでした。しかし、今は信じる私たちは聖霊なる神様が住んでくださって、心の板に記されて、主を怖がる信仰ではなく、また自分を打ちたたいて従わせる奴隷のような信仰ではなく、心から主への感謝と賛美の中から生まれて来るという、これまでの信仰とは区別された最上級の信仰が与えられているのです。
 
 
2.神の愛のうちに聖い信仰を保つ
 20節、21節を読みましょう。
「しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。」
 
 ユダは主イエスによってもたらされた最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げなさいと、建築用語を用いて説明します。この主の福音によってもたらされた信仰は旧約時代の信仰の成就です。完成形です。もう動物の血によらない、ただひとたび神の御子の犠牲によって伝えられた聖なる信仰です。
 
 かつてイエス様は弟子たちに、人々はわたしのことをだれだと言っているかという質問をされたときに、使徒ペテロが答えました。「あなたは生ける神の子キリストです」
エス様はそのペテロの答えを大変喜ばれて、その信仰の上にわたしの教会を建てると言われました。まさに、その延長上に、この「最も聖い信仰の上に築き上げなさい」というみことばはあります。
 
 それで、キリスト教会は異端の教えから教会を守るために使徒信条から始まり、多くの信仰の告白を整えてきました。ですから、教会にとって信仰告白とはあってもなくても良いものではなく、異端の教え、背教から教会を守る防波堤なのです。
 
 今は、昔よりも異端の教えが複雑化して、使徒信条に比べたら、かなり詳しい内容になっているものがほとんどです。白石教会で採択された信仰告白も、作成した理由は、やはり誤った教えから教会を守り、信仰を同じくする諸教会、クリスチャンたちとともに、異端から、誤った教えからキリスト教会を守るためです。その目安です。
 
 また外から来る人たちも、白石教会が異端の教会でないことを明らかにするものになっています。だから、他の教会にはないことを掲げて目立つ必要はありません。聖書で示されている最も聖い信仰を言い表せること。それが、大切です。
 
 しかし、実は信仰告白を整えたからもう安心でもないのです。それは、そのようにせっかく作ったものも、やがて形骸化する危険があるからです。信仰はまずは心の問題ですが、それを告白文によってかたちにするとき、それはそのかたちで満足してしまう弱さを私たちが持っているということです。
 
 ですからユダは、そのようなことにならないように、どのようにその最も聖い信仰を保つのか、そこに三つのことを通して、教えています。
 
 その一つは、やはり聖霊による主への祈りを大切にすることです。聖霊による主への祈りとは、聖霊に満たされて主と交わることです。それは、今、聖書が当たられている時代では、聖書のみことばを通して、主と交わるということです。それは読書の時間とは違います。デボーションというのは、生ける神様との交わりです。
 
 家族と食事をして毎日お話するように、神様と生きた交わりを持つのです。それは、祈りの時間として取り分けることも大切ですが、普段の仕事中とか、家事をしているときとか、寝ているときとか、お風呂に入っているときとか、散歩しているときに、神様に語り掛けながら、相談しながら過ごすのも大切です。
 
 神様は教会にいるときだけの関係ではなく、どこにいてもです。これが今、主は聖霊によって私たちの中に住んでくださっておられるので、どこでも、いつでも語り合うのです。それは独り言ではありません。そういう聖霊による交わりが、聖い信仰を益々成長させるでしょう。
 
 そして二つ目は、神の愛のうちに自分自身を保つということです。これはとても重要です。神の義とか、神のきよさとは言わず、ユダは「神の愛のうちに」と言っていることが、最も聖い信仰にとって大切な心構えです。というのは、私たちはそもそもが神様から愛されている一人ひとりであるからです。救われるというと、つい罪人の私。汚れている私。愛されるにふさわしくない私と、神様の前における自分を見つめるときに、ダメな自分を置きがちです。
 
 でも、神様に向かう私たちは、本来、もともと神様が神さまの子どもとして愛する存在として造られたのです。お父さんとお母さんが生まれてくる赤ちゃんを愛おしいように、そのためなら死ねるという愛によって、神様のかたちに造られたのです。生まれた赤ちゃんを見て自分に似ていると嬉しいように、神様はあなたをそのように愛しているのです。
 
 だから事実、私たちが神様を無視していたときも、逆らっていたときも、神様は愛し通してくださって、罪というドブに落ちていた私を、あなたをいのちを捨ててまで救ってくださったのです。ここには、愛しかありません。神様と交わるとき、そこから始まり、天のお父さんの愛の背中におぶさって、お尻をポンポンしてもらっているように、そのお話を聞き、私たちも心の中のことを何でもお話する。
 それがイエス様が与えてくださった永遠のいのちがある。ただただ、主のあわれみです。主のあわれみしかありません。さばく、滅ぼす恐ろしいかたではなく、このような私たちを愛して、今も、赦し続けておられる主イエス・キリストの他に類を見ないあわれみを、御国の完成まで待ち望むのです。
 
 そのように、深い主の憐みの中で、私たちは異端に迷い込んでいる人たちを毛嫌いするのではなく、むしろあわれんで、救い出しなさいとユダは命じます。それは、最も聖い信仰を神様の愛のうちに給っている人の姿です。だから、無理する必要はありません。だから、恐れを感じながらで良いのです。でも、その原動力は主からいただいている憐みの心です。23節は新改訳2017の方が良い訳だと思います。
「ほかの人たちは、火の中からつかみ出して救いなさい。また、ほかの人たちは、肉によって汚された下着さえも忌み嫌い、神を恐れつつ憐れみなさい。」
 
 ここは、そういう人たちを恐れることがこの命令の主旨ではなく、あくまで憐れむことが最も聖い信仰が与えられている者の姿だからです。もちろん、下着さえも忌み嫌うくらい、異端には警戒が必要です。でも、神様の愛のうちに、もし私たちがこの信仰を保って歩むならば、そこに育まれるのは主イエス・キリストのあわれみであり、その憐みが誤った教えに囚われている人への憐みへと繋がっていくのです。
 
結び
 ユダは、そのようにして諸教会の愛する人々に対して、最後に、その兄弟姉妹がこのような異端につまづかないように願いつつ、すべての栄光を主にお返しして、頌栄の祈りとして手紙を書き終えます。大変短い手紙ですが、信仰の戦いをするように導きながら、神様の愛のうちに保つ、喜びと憐みに満ちた励ましのメッセージでした。
 
 私たちにも、最も聖い信仰が与えられています。ぜひ、ぶれないで、その上に自分を建て上げてまいりましょう。それを保つには、神様の愛のうちにある自分自身を知ること。知り続けることです。そもそもが、神様はあなたを愛しています。だから御子であるイエス様が身代わりに十字架で罰を受けさばかれた。でも、神様はそのさばかれた御子をよみがえらせて、聖霊によってともにいてくださる神の国を初めてくださった。その神の国に私たちは招かれ、その聖霊なる主に手を引かれて、日々歩んでいるのです。
 
 今週も、最も聖い信仰の上に、神様の愛のうちに建て上げられて、来週のアドヴェントを迎えてまいりましょう。