日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2021年9月5日 礼拝説教

説教題 「主の死を告げ知らせる聖餐式
聖書箇所 コリント人への手紙11章23節~32節

 
 

 私は、礼拝説教は基本的に連続講解説教を心掛けています。連続講解説教というのは、聖書を順番に規則正しく読み、できるだけ丁寧にみことばに聴いていくということです。それは、健康な教会としてみことばに養われて成長するためです。聖書のみことばは、私たちの霊の糧ですから、主食のご飯と同じです。毎日の規則正しい食生活が肉体の健康に欠かせないように、私たちの霊にも規則正しいみことばの養いが不可欠だからです。
 ところが、今日の説教はいつもの連続講解説教ではなくて、テーマを決めてお話する主題説教というかたちをとります。このかたちは、よく修養会で持たれるかたちです。それは、規則正しい食生活をしていても、どうしても栄養が不足する部分が見えてくると、サプリメントや他の食材を使って補うように、霊的な信仰の養いのためにも、テーマをしぼって、みことばを味わうことも、時々必要だからです。
 それで、今日は「聖餐式」についてテーマをしぼってみことばを味わってまいりましょう。今日、ちょうど聖餐式を、このあとすることになっていますので、あらためて、その意味をみことばから学んで、いつも以上に、キリストを味わいたいと思います。
 
 皆さんにとって聖餐式とは何でしょうか。本当に必要なものでしょうか。なくても平気なものでしょうか。私たちの教会は、聖餐式をどのように告白しているでしょうか。

【主の晩餐】
「主の晩餐は、イエス・キリストが贖いの死によって定められた新しい契約を、教会が感謝して思い起こすしるしです。救われた者は、この聖餐において一つのからだとして、共にキリストのいのちにあずかります。」

 白石キリスト教信仰告白では、あえて「主の晩餐」と言っています。それは、聖餐式の出発点が最後の晩餐にあり、いつも、その原点に帰る必要があるからだと、私は思っています。それは、イエス様ご自身が、12人の弟子たちを前に語られた、その場面に私たちも参加する。今も、その主が生きて、この中心におられて、主の晩餐に私たちを招いておられる。そのことをまず思うのです。
 
 この礼拝を含めて、聖餐式も、主催者はイエス様です。だから、この信仰告白でも、「イエス・キリストが」と、イエス様が主語になっています。まさに「主の晩餐」です。イエス様ご自身が、招いておられる食卓。イエス様ご自身が、弟子である私たちを招待してくださっている祝宴です。なんと光栄なことではないでしょうか。その光栄な主の晩餐について、あらためて、私たちの信仰告白を念頭にみことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.主の命令としての聖餐式
 23節前半「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。」
 今日、取り上げたコリント人への手紙は、使徒パウロが、ギリシアのコリントにある教会の信徒たちに宛てて書かれた手紙です。このコリント教会は、パウロの宣教によって建てられたと言って良いでしょう。しかし、この教会は多くの問題を抱えていました。今、それを一つひとつ取り上げるわけにはいきませんが、今日、一つ言えることは、礼拝が混乱していたと言うことです。
 
 当時の教会は、現代の教会のように会堂があるわけではないので、信者の家を開放して、そこに集まっている家の教会スタイルでした。そこには裕福な人も貧しい人も一緒に集まっていて、食事も持ち寄って愛餐を行い、その延長上に礼拝が持たれていました。すると、先に来て食べ始めていたり、ぶどう酒も飲んでいたりして、礼拝する頃には酔っ払っている人がいたり、まだ食事をしている人がいたり混沌とした状態になっていたようです。そこに、「私はペテロ派だ」とか「私はパウロ派だ」という問題もあって、多くの分派に分かれていました。
 
 そのような問題をパウロは聞いて、主の教会が、そんなことでは良くないと手紙を書いて、正そうとしたのです。ですから、おそらくパウロから手紙を受け取ったコリント教会では、その礼拝の中で、この手紙が読まれたでしょう。つまり当時の礼拝では、このように使徒からの手紙など、説教原稿を読む代読があったのです。
 その中で、今日の箇所も読まれたでしょう。「パウロ先生のメッセージ」ですと、コリント教会の信徒が読んだことでしょう。それで、この聖餐式のくだりです。
 
 まず、この聖餐式について、パウロが強調していることは何でしょうか。それは、この聖餐式という礼拝は、パウロの教えではなく、イエス様ご自身からの命令だということです。あくまで、その出発点はイエス様であって、人間ではないということです。そのイエス様の命令を、私パウロはそのまま伝えているに過ぎないのだ。
 
 そのことを白石教会の信仰告白でも言っています。それが「主の晩餐」であり、主語が「イエス・キリスト」であるということです。これは当たり前のようで、とても大切なことです。この理解がないと、この聖餐式を私たちの勝手な判断で、やるかやらないか、受けるか受けないか決めたり、軽く扱うことになりかねないからです。
 
 だからキリスト教会は約2000年の歴史の中で、主の晩餐をとても大切にしてきました。それはバプテスマ(洗礼)と合わせて、イエス様から命じられていたからです。だから使徒パウロが「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです」と、その出発点が、まずイエス・キリスト直々の命令であることを教えているのです。しかも「あなたがたに」とあるように、教会に向けて語られている命令として、です。だから、白石教会も、その流れをくむ正統的なキリスト教会として告白し、どんな場合でも最善を尽くして実行しようとしているのです。
 
 
2.キリストを覚える聖餐式
 しかし、単に命令だから従うというのではありません。その意味を理解して従う。ここが大切です。なぜならば、聖餐式は形式を守ることに意味があるのではなく、その意味をわきまえて受けるところに、意味があるからです。信仰というのは、宗教儀式を形式的に守ることではありません。
 
 信仰とは、今日の聖書交読にあるように、「主が私に良くしてくださったことを」受け取り、「何一つ忘れ」ないこと、つまり覚え続け、それに感謝をもって答えていくことです。だから、この「覚える」ことが大切なのです。パウロはコリントの教会の信徒たちに語ります。23節後半~25節。
 
「すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。』夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』」
 
 この言葉は、基本的にはイエス様が最後の晩餐の席で弟子たちに語られた内容です。現代の教会では聖餐式の式文に使われていますが、この当時から、すでに聖餐式では、このイエス様のことばを式文として使っていたようです。このみことばに、どうして聖餐式をしなければならないのか、その意味がはっきり記されています。
 
 それは、パンにおいても、ぶどう酒においても、必ず命じられているのは、「わたしを覚えて、これを行いなさい」ということです。イエス・キリストを覚える。白石教会の信仰告白でも「思い起こすしるし」であると言っています。そういうことです。それは、私たちが、イエス様を信じているとはいえ、忘れっぽい者であるからです。
 
 イエス様が復活されてエマオという村へ向かっている二人の弟子と歩かれるという場面がルカの福音書にあります。しかし、その二人の弟子たちは、目の前にイエス様がいらっしゃるのに、それがイエス様だとは気づきません。それは、イエス様がよみがえったことを信じていなかったし、すっかり霊の目が曇ってしまって、不信仰が目の前のイエス様を隠していたからです。

 私たちも、同じようにイエス様を信じているクリスチャンと公言していますが、いつも主を見失い、目の前に起こることに翻弄され、不信仰に陥る者ではないでしょうか。一週間で起こる様々な出来事に傷つき、失望し、肩を落として日曜日を迎えることの多い者ではないでしょうか。
 
 私はよくありました。日曜日の礼拝が始まっても、礼拝に集中できず、聖書のみことばもチンプンカンプン。説教も眠くて聞いてられない。そういうときでも、いやそういうときだからこそ、イエス様は、そのような私たちを、この主の晩餐に招いているのです。そして、このパンを裂き、ぶどう酒をいただくことによって「わたしを覚えなさい」と、祝福の入口に連れて行ってくださいます。そのとき、私たちは、いくら霊の目が曇っていても、主は私たちの五感すべてに呼びかけて、ご自身をパンとぶどう酒に現れてくださって、味わわせてくださるのです。
 
 聖書朗読と説教は、聴覚だけでなく霊の目が開かれていないと眠くなります。しかし、イエス様はそういう私たちを、残されている四感で良いから、味わいなさいとへりくだって招いてくださっているのです。その視覚、嗅覚、触覚、味覚から目を覚ますように導いておられるのです。だから、エマオ途上の二人の弟子たちも、イエス様がパンを裂いたときに、目の前の人がイエス様であることがようやくわかったのでした。白石教会の礼拝で説教のあとに聖餐式を行うのは、このためです。エマオ途上の弟子たちも実は、霊の目が曇りながらも、イエス様の聖書からの説明によって、心が燃えていたことを証ししています。つまり、聖書のみことばが説き明かされ、そしてパン裂きがある。ここに、私たちの霊の目が開かれ、信仰に燃やされる大切なプロセスがあるのです。
 
 ですから、私たちもパンをいただくときに、ぶどう酒をいただくときに、ここにイエス様がへりくだってご自身をお示しになっておられることを、しっかり覚えたいと思います。まさに主のへりくだりが、このところにも表されているのです。それは、神の御子でありながら、罪人となって十字架を背負いゴルゴタの丘に向かわれた、そのお姿であります。 
 
 これが主の晩餐でイエス様ご自身が命じられた聖餐式の意味です。だから、私たちも、みことばと合わせて、このパンとぶどう酒をいただくときに、ようやく目が開かれ、信仰が燃やされていく者とされるのです。だから大事なのです。
 
 ですから新約時代の礼拝自体が、まず、そのように主イエス様を覚えるべき集会であると言って良いと思います。それは、私たちの礼拝は、実は旧約聖書の時代の礼拝とは内容が異なるからです。それは、ここでも「わたしの血による新しい契約です」とあるように、礼拝そのものが、この新しい血による契約を思い起こすことがその中心であるということだからです。それで私たちも、「イエス・キリストが贖いの死によって定められた新しい契約」であると、新しい意味があることを告白しているのです。
 
 
3.主の死を告げ知らせる聖餐式
 ですから、聖餐式は主の直々の命令であることと、その内容は「イエス様の血による新しい契約」として覚えることが大切であるということですが、このことが、どういう人がこの聖餐に与るのかという基準に繋がっています。
 
 27節と29節にそれぞれ「ふさわしくないままで」…「みからだをわきまえない」とあります。この「ふさわしくない」「みからだをわきまえない」というのは、どういう人か。それは一義的には、これまで見て確認してきたことを理解していない人。イエス様のからだが十字架で裂かれた意味を知らないし信じてもおらず洗礼も受けていない人のことであると考えて良いでしょう。
 このことは、結婚とよく似ています。結婚生活を始めるためには、結婚しなければならないのと同じように、聖餐に与りたい者は、主を愛して信じ従う決心をして洗礼を受けなければなりません。そうでないと聖なるものを汚すことになり、罪を犯すことになります。しかも、そのさばきが教会にもたらされると言うのです。パウロは、そのことを、30節以降では警告しています。とても厳粛なことです。
 
 それから、もう一つ、罪を犯したクリスチャンが聖餐に与ることができないという理解もあります。しかし、聖書は、28節を読んでわかるように、やはり自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさいと言っています。すなわち吟味して、もし罪があることが示されたならば、きちんと悔い改めてから、「その上で」食べなさい。飲みなさいと勧めているということです。あなたはダメとは一言も言っていません。

  だから私が聖餐式の中でも罪の悔い改めの祈りを加えているのは、クリスチャンである皆さん全員がこの聖餐の恵みに与れるようにするためです。もしかしたら、日曜日の朝、急いで教会に行こうとして、それまでの罪の悔い改めの祈りを慌てていて忘れて来ている人がいるかも知れない。
 
 でも、全員で悔い改める祈りをする時間があれば、そこで私たちがそれぞれ自分を吟味して、そこで悔い改めて、その上で、出席している全ての兄弟姉妹が聖餐の恵みに与れるようになると思うからです。聖書は、同じ信仰を告白するすべてのクリスチャンにこの恵みに与ることを勧めているのであって、禁止するためにパウロが語っているのではないことをあらためて覚えたいと思います。神様は、すべての人が救われて真理を知る様になることを望んでおられます。聖書自体も皆さんがイエス様を信じて、洗礼を受けてこの天国のパーティーに参加するように招いているのです。そして、パウロもそうなのです。
  
 そしてパウロが、この聖餐を受けるべき理由の結論として、さらにこう言っています。26節にあります。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
 
 それは、この聖餐式を伴う礼拝を通して「主の死を告げ知らせる」。これは、復活がどうでも良いということではなく、主イエスの十字架の死の意味を考え、それが誰のためだったか。何のためだったのかを、この業を通しても、私たちは伝えているということです。つまり、形式的な儀式をしているのではなく、また単に聖餐の恵みを受けているだけでもなく、私たちが、この聖餐式を通して、福音を伝えているということです。神様が良くしてくださった、もっとも大きな恵みであるキリストが、この世の一人ひとりの罪を背負って死んでくださった、その十字架の死における人間の罪と苦しみ。それが、私たちが救われるための死であったことを伝えることになるなのだ。福音宣教なのだ。その積極的使命があるのだ。そう言っているのです。
 
 
結び
 今、このような疫病がまん延してなかなか伝道ができない。教会の活動が制限されている時代に置かれています。では、福音宣教のため、イエス様の死の意味を告げ知らせるために何の手立てもないのか。または、自分は伝道できない。イエス様を伝えたくても、勇気がない。健康がない。若さがない。お金がない。色々な「ない」を理由に「できない」と思う人がいるかも知れません。
 でも、大丈夫なのだとパウロは言うのです。
「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」
 しかも、「あなたがたは、パンを食べ、この杯を飲むたびに」とあるように、「あなたがた」つまり教会として、主の家族として、これを繰り返すように命じています。しかもイエス様の再臨のときまでです。これはパンと杯によってイエス・キリストの死をわきまえ、味わい、覚えるごとに、その礼拝自体が教会としての福音宣教の業であるということです。
 私たちも信仰告白でこう言っています。
「教会が感謝して思い起こすしるしです。救われた者は、この聖餐において一つのからだとして、共にキリストのいのちにあずかります。」
 「教会が… 救われた者は… 一つのからだとして、共に」と教会としての業であることを告白しています。
 
 ともにキリストに贖われ、ともに罪が赦され、ともに神の子どもとされ、ともにキリストのいのちに生きる私たちが、たとえ、それぞれに多くの違いがあり、人間的に見れば一緒にいられないような性格の不一致がもしあったとしても、また、一見、伝道ができないと思われるような時代であっても、主が命じられた、この聖餐式を通して、一つ家族とされ、共にその主の死を味わい続けるならば、それこそが、主の群れとして、この世に主の死を告げ知らせる証し、それが宣教になり、そのことを通して、主の救いにあずかる方々が起こされていくのです。
 
 今日は、このあと聖餐式があります。どうか、主の死が自分のためであったと信じ、告白し、洗礼を受けているすべてのクリスチャンは、主の家族として、ぜひ今語られた聖書のみことばと合わせて、パンと杯に与ってください。そして、洗礼を受けていない方は、自分を吟味して一日も早く、信仰を告白して洗礼を受けて、その上で、この素晴らしい主の晩餐で一つとされることを切に願います。
 
 どうか今週も聖書のみことばと、この聖餐式を通して、主の死がもたらした罪の赦し、救いをこの世に、まだ救いを知らないで苦しんでいる方々に、宣べ伝えてまいりましょう。