のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年3月6日 白石教会礼拝説教

説教題 「二度目の受難予告」
聖書箇所 マタイの福音書17章22節~23

 

 先週の2日(水)から受難節が始まりました。イースターまでの日曜日を抜かした40日前から始まるので四旬節とも言います。それは、イースターを迎える最後の週である受難週を意識して過ごすことに意味があるからです。
 
 まず40日前という「40」には、聖書では、まさに苦難や試練という意味があります。ノアとその家族が箱舟で過ごした大雨が降り続いた期間は40日40夜。イスラエルの民が荒野を旅した期間は40年。預言者ヨナがニネベの町の人々に預言したのは40日以内に悔い改めないならば滅びるということでした。主イエスも荒野で悪魔の試みを受けるときに、40日40夜断食されました。また使徒パウロが受けた試練のうち、39回の鞭というのがありましたが、それは40回目で死ぬと言われていたからです。死ぬ寸前の苦痛を与える鞭を受けたということです。
 
そのように、聖書で40と言う数字は苦難を表す数字で、キリスト教会にとっては、復活祭の前の40日間をイエス様が十字架に向かわれる期間として特別に覚えて、祈りと断食を通して毎日を信仰をもって歩むように習慣づけられたのです。
 
私は、これは良い習慣だなと思います。本当は、毎日が神の御子が降誕されたことを覚えるクリスマスであるべきですし、毎日が主の十字架の苦しみを覚えるレントであるべきですが、なかなか、一人でそのことを意識して毎日歩むのは難しいでしょう。でも、キリスト教会として、教会のカレンダーの行事として申し合わせることで、一年を通じて主の歩みを覚えていけるのであれば、それは良い習慣を考えてくださったなと感謝します。
 
そして、今日は3月の第一主日で、白石教会にとっては聖餐式を行う日です。そう考えると、今日の聖書箇所は、この22節と23節に絞るべきだと導かれました。当初は27節まで一挙に取り上げるつもりでしたが、それは少し無理があると思わされました。やはり、ここでイエス様が二度目の十字架と復活を予告された、その意味を深く味わってこそ、今日の聖餐式が生かされるなと思うからです。受難節に行われる聖餐式は、まさに主イエス様の十字架で裂かれた御体と流された御血潮を、みことばをもって味わい、パンと杯によって味わう二重の祝福があるのです。
 
それで、あらためて、イエス様はどうしてこのタイミングで二度目の受難予告をされたのか。また、その予告を聞いて、どうして弟子たちは悲しんだのか。そのことをともに聞いてまいりたいと思います。
 
1.イエスが受ける苦難を知る
 前回も言いましたが、イエス様ご自身が殺され、よみがえるという予告はマタイの福音書では三回あります。ですから、一回目はすでに見てきました。それは、16章のペテロの信仰告白直後です。
 16章21節にこう書かれています。
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」
 
 では、今日のところは何て言われているでしょうか。17章22節、23節。
「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。『人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。』すると、彼らは非常に悲しんだ。」
 
 ここで一回目と二回目で、何が同じなのかをまず見てみましょう。大きく二つの点に注目したいのですが、その一つ目は語った相手が弟子であるということです。群衆ではなく、イエス様に従って来た弟子たちに語られている。
 
一回目のときには「弟子たちに示し始められた」とはっきり書いてあります。二回目のときには、19節で「弟子たちはそっとイエスのもとに」とあって、その話の続きとして22節で「彼らがガリラヤに」とあり、この彼らとは弟子達であることがわかります。
 
 そして二つ目の共通していることとして「殺される」ことと「三日目によみがえる」ことがあるのがわかります。
 つまり、イエス様は、この時に、ご自分のメシアとしての使命として、殺され、そのあとよみがえることを弟子達だけに語られたということです。それが、イエス様が弟子たちだけに知ってほしい真のキリストとしての救いの業なのだということでしょう。
 
 実は三回目の受難予告からは、イエス様の殺され方が「十字架刑」だとはっきりと予告しています。でも、このときはまだ「殺される」と言っているだけで、どのようにして殺されるかは伝えていません。また、今日の箇所では「人々の手に渡される」としか言われていませんが、三回目になると、この人々が「異邦人」であることが明らかにされるのです。ですから、内容の詳しさは段階的ではあるけれども、イエス様の味方である弟子だけには、イエス様の真の救い主としての使命を理解してほしかったのではないでしょうか。
 
 これは、私たちへのアプローチでもあります。主イエスは現代を生きる私たちすべてのクリスチャンたちに、ご自分の通られた十字架の道を指し示します。それは、主に従うとはどういうことかを知るということです。決して楽観的になれない、険しい道である。そのことをイエス様は、このときの弟子達にも知ってほしかったのです。しかし、彼らの視点はそこにはなく、18章1節を見てわかるように、イエス様がもたらしてくれる王国における自分の地位、出世が彼らの注目点であり心配事でした。
 
 このギャップがある限り、彼らは本当の意味でキリストの弟子として遣わされるのは難しいのです。このままでは、かつていただいた主の権威による悪霊の追い出しも病気の癒しも、いつまでたってもできるようにならないでしょう。しかし私たちは、このときの弟子たちよりも恵まれています。それは、すでに、十字架に架けられ殺され、三日目によみがえられたイエス様を知っているし、その救いの意味も知らされているからです。
 
 そうであるなら、なおさら、私たちは主の十字架の道を味わうことができるはずです。また、私たちには既に聖霊が与えられているので、もしイエスを主として信じ受け入れているならば、イエス様が望んでおられるように、私たちも、その主の道に招かれ、主のお苦しみを我が苦しみとして担う恵みも喜びであると受けとることができるのです。つまり、真の弟子として歩むことが出来るのは、主イエスの十字架と復活が成就され、天に帰られ、聖霊が下ってからです。
 主の弟子たちが、弟子としてまともに宣教に立つのは、イエス様の十字架と復活を経験し、聖霊を受けてからでした。だからこそ、今、私たちは、すでにイエス様の十字架の贖いの死と復活を知り、信じたことによって、この受難節の恵みを味わうことが許されているのです。それは、イエス様があえて先に救われた者に与えてくださった恵みです。この恵みに感謝し、へりくだって主の前にひれ伏すときに、山を動かすような大きな力も御霊の助けの中で与えられるのです。
 
 大事なのは気合の入った信仰ではありません。気力がみなぎる信仰ではありません。そういうのは信仰ではなく念力です。私たちの信仰のいのちはただただ、へりくだって主の前に出られている恵みを知り感謝して生きることです。そういう者にこそ、主の十字架と復活の使命が益々わかるようにされます。その主の救いの使命に生きる者へと変えられていくのです。
 
2.主の弟子として主の苦難を正しく受けとる
 そして、次に、この一回目の受難予告と二回目との違いについて考えてみましょう。その一つは、一回目のときは福音書記者マタイによる要約でしたが、二回目はイエス様ご自身のお話された言葉が書かれているということです。どちらも、今は聖書の中の言葉ですし、優劣はないのですが、どうしてマタイは二回目からはイエス様のお言葉としてそのまま書いたのか。
 
 それは、やはりお話の内容に意味があると思います。そのことも一回目との違いです。つまり一回目の受難予告になくて、二回目の受難予告にあるものとは何か。それが「人々の手に渡される」というところです。この人々の手に渡されるとは、すなわち、イエス様の味方であるだれかによって、「渡される」ということです。
 
 このことが一回目にはなかった言葉で、実は三回目の受難予告もイエス様のお言葉がそのまま記録されていますが、やはり「渡される」とはっきりと言われております。それもまた、異邦人の手に渡されると、更に具体的に明らかにされているのです。ですから、なぜ、この二回目の受難予告からイエス様のそのままのお言葉が書かれているのかというと、味方であるはずの弟子に裏切られる苦しみを、ここを読む今の主の弟子たちである私たちに伝えるためではないかと思います。
 
 マタイが、ここで要約せずにイエス様のお言葉としてそのまま「人々の手に渡される」と伝えたのは、主イエスにとって、弟子に裏切られることが、その他の人々によって殺される以上の苦痛だったからではないでしょうか。
 
 今日の交読で読んだイザヤ53章には、そのような裏切り行為、味方から裏切られる主の苦しみが預言されていました。今週のみことばに選んだ3節には「私たちも彼を尊ばなかった」とあります。これは、救い主を待ち望んでいたはずのユダヤ人たちからの迫害のことも示しつつ、もっと近くにいた主の弟子たちのことでもあると言えると思います。弟子たちも、主イエスを尊ばなかった。
 
 このイザヤ書はイエス様が来られる800年くらい前に預言されたものをまとめたものですが、そんなにも前から、主はご自分の味方である弟子に裏切られることを知っておられた。その痛みをイエス様ご自身の口から聴くことを通して、私たちはどう受けとるでしょうか。主よ。主よと言う者すべてが実は主の弟子ではない。主の弟子と言いながら主を裏切る者とは、実は、私であるということに向き合わされるのではないでしょうか。
 そして、受難予告一回目と二回目の違いのもう一つは、23節最後の言葉です。
「すると、彼らは非常に悲しんだ。」
 一回目の受難予告のときは、どうだったか覚えているでしょうか。それは、ペテロが代表してこう言ったことが記録されています。16章22節、
「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」
 このあとペテロは「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」とイエス様から厳しく叱られるのです。
 
 ところが、今回はどうでしょうか。余計なことを言う人はおらず、叱られている人もいません。では弟子たちは、前回の失敗を生かして、主イエスの苦難と復活の希望を悟っていたでしょうか。
そうではありません。その思いは前回とあまり変わっていなかったと考えられます。きっと、誰も何も言えない状況だったのでしょう。彼らが、ここで非常に悲しかったのはどうしてか。それは、大好きなイエス様が殺されるという意味では悲しいかも知れません。でもイエス様は、毎回きちんと「よみがえる」ことも語っておられるのです。しかし、彼らの心には、よみがえるということは残らず、殺されるイエス様のことしかイメージできず悲しむのです。
 
 これはまさに、前回のペテロの気持ちとさほど変わりがないということです。イエス様に対して、「そんなことが、起こるはずがない」と言わなかったにしても、あってほしくないことだからこそ、非常に悲しかったのです。しかも、そこからよみがえることも全く理解できていないからこそ、そこに希望を持てず悲しくなるのです。現実に起こりそうな目先のことで心が囚われてしまい、その先に約束されている希望が薄れるのです。
 今回、札幌に降った大雪で気付かされたことがあります。毎日毎日、雪かきして疲れ果てましたが、でも、よく考えたら、こんなにたくさんの雪も、春には必ず解けるということです。目の前の雪でがっかりしたり、疲れてしまう私ですが、でも、この雪がいつまでも私の行く手を阻むものではないのです。必ず暖かい春が来て、目の前に積もった雪はなくなるのです。それは、まるで私たちの救いにも言えることです。
 
 私たちの信仰の歩みも、毎日が目の前にある課題で翻弄されます。経済的な問題、病気の問題、仕事の問題、家庭の問題。でも、いつまでもそうではありません。必ず、主が来られて、新しい天の御国が訪れる。そのときには、目の前にある様々な課題はすべてなくなるのです。
 ここまで見通さないと希望は見えてきません。かえって、目に見えることだけで、自分の想像する限定的なイメージだけで、同じ出来事が絶望へと変わり、非常に悲しむことになっていくのです。
 
結び
 イエス様の受難も苦しいだけでは終わらない。だから救いの業なのです。イザヤ53章11節にはこう書いてあります。
「彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」と。
 
 私たちにも、この主の希望が待っています。苦しみが苦しみで終らない、悲しみが悲しみだけで終らない、キリストの救いにある逆転の喜びがそこにあるからです。
 弟子ペテロは、このあとイエス様に死んでもついて行くと断言しながらも、イエス様が逮捕されてから逃げて、3度も主の弟子ではないと否定します。そのときに主イエスがペテロを見つめました。ペテロはユダのように自殺はしませんでしたが、男泣きに激しく泣いて、主に従えない自分の現実を知らされます。
 
 主に従おうとしても従えない自分の罪深さを思い知るのです。そして、そういうペテロを見つめられた主イエスはそのまま裁判にかけられ十字架の上で殺されます。そのとき弟子の誰もが、その時ですら主の復活を信じていなかったのです。彼らは絶望の淵に立たされました。
 
 この受難節には、そのように主の御跡に従おうとしても従うことの難しい弟子の現実を知ることがまず大切です。主の十字架の道はやはり主イエスにしか成し得ないことを知らされます。だから主の十字架は私たちの罪の贖いとなった。神の小羊としての犠牲となったのです。しかし、死んで終わりではなかった。主イエスは、死んで墓に葬られ、隠府に迄くだりましたが、三日目に死人のうちからよみがえられました。
 
 その主は今も生きて、私たちを導きます。聖霊を与え、私たちは聖霊に助けられてようやく救われた者である弟子としての歩みが始まるからです。だから、そのイースターを目指して、この受難節があります。
 
 ですから、今日、その本当の救いを得させるために主が通られたこの十字架の道を私たちも覚えたいのです。その苦しみを知れば知るほど、私たちに対する主の愛の深さが、愛の強さが、愛のきよさが伝わってくるからです。私たちを愛すればこそ、人々からさげすまれ、のけものにされ、悲しまれた主イエス。また、私たちも彼を尊ばなかったのに、こうして今、礼拝者として御前に集まる事が許され、主のからだと血に与ることを良しとしてくださっておられるのです。
 
 あらためて、私たちのために苦難の道を歩まれた主イエスを覚えましょう。そして、その苦痛の頂点であった十字架の苦しみをも味わいましょう。主は罪のないお方であり、神の御子でありながら父なる神から捨てられ、呪われるという苦しみを通ってくださいました。それは、何のためか、誰のためか。今日、もう一度、主の足もとにひれ伏して、愛するキリストと、また世界中の主の民と一つとされてまいりましょう。特に今、戦禍の中にあるウクライナの兄弟姉妹のことを思い、主に祈りましょう。