のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2020年4月5日 白石教会礼拝

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説教題 「花婿が取り去られる時」
聖書箇所 マタイの福音書9章14~17節
 
序論

 皆さんは「断食」をしたことがあるでしょうか。また、現在でも信仰生活の中に取り入れている人はいるでしょうか。おそらくプロテスタントの多くのクリスチャンは、多少の経験があっても、日常的に取り入れている人は少ないと思います。
 聖書にも断食はよく出てきます。旧約聖書で39回、新約聖書で19回です。つまり、祈りや賛美に続いて多く出てくる信仰の表現の一つです。イエス様も宣教を始める前に荒野で40日間断食をしました。旧約聖書ではもっと頻繁に出て来て、ユダヤ人が個人的にも、また集団でも行っている場面が登場します。それは、いつも祈りと共に、単に儀式的ではなく、本質的な神との交わりの中で特別な意味をもっていたのです。
 今日の箇所でも「断食」が出てきます。当時のイスラエルでも日常的に断食を行っていたということです。そこで、イエス様はそれに対してどんな姿勢だったのか。また弟子たちはどう捉えていたのかが見えてきます。
 特に、それが新しい布切れ、新しい皮袋、新しいぶどう酒とどうかかわっているのか。そこに今、この新約時代を生きる私たちとどのように関係しているのか、ともにみことばに聴いてまいりましょう。
 
1.断食の本当の意味
 14節を読みましょう。
「するとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。『私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。』」
 「するとまた」と、福音書記者マタイは、前回からの続きのこととして、今日の断食問題を伝えます。今日、登場するのはヨハネの弟子です。このヨハネとはバプテスマのヨハネのことです。イエス様よりも先に生まれ、先に荒野に出て、罪の悔い改めと神の国が近いことを告げていた預言者です。そのヨハネの弟子たちも、このマタイが開いた食事会に来ていたようです。そこでパリサイ人たちがイエス様の弟子たちに言っていたことを聞いていました。10節のところ。
「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人といっしょに食事をするのですか」
 それを聞いたヨハネの弟子たちも、きっとそう思っていたのでしょう。だから、更に断食のことも、その常識として質問したのです。それが当時のユダヤ人の宗教観であり、信仰状態でした。神に選ばれている人は、罪人と食事をしない。決められた日には断食をするということ。他にも貧しい人に施しをするとか、宗教的行為として行うことが習慣化していました。そもそも、そのことを「なぜ行っているのか」よりも、それを行っていることで良い人になったような、行いで安心する信仰だったということです。
 私たちも、信仰が形式化しやすい弱さを持っています。それは、実は信仰だけでなく、普段の生活も、なぜそれを行っているかということよりも、段々と習慣的になってくることはあると思います。
 たとえば、現代の日本の多くの人は朝ご飯を食べる理由は何かなんて、考えて食べる人はいないと思います。お昼ご飯も、なぜお昼にご飯を食べるのか、その理由をいちいち考えてはいないと思います。
 昔、日本では鎌倉時代末期くらいまでは一日二食(朝と晩)だったそうです。でも、室町時代初期から貨幣経済が進み、都市化が起こってきて、農業だけでなく建設業などの肉体労働者が増えてきたために、昼食が始まったと言われています。つまり、お腹が減るので食べるわけです。お腹が減って体力がもたないから食べるのです。そうすると、それは生きるために食べているということですから、作ってくれる人にも感謝できるようになるし、その食材を買うためのお金を稼いでくれる人にも感謝できるようになります。でも、それが習慣的になってくると、朝だから食べるとか、昼だから食べるとか、当たり前になり感謝がなくなってきます。だからお腹がすいていないのに食べてしまう。するとからだのバランスが崩れてしまい、太ったり、痩せすぎたり、健康状態が悪くなります。
 これは食事の話ですが、物事はすべて本来の意味があって行っているはずです。しかし、私たちはそれが形式化しやすいのです。これが信仰の話になると、かなり深刻です。
先週もお話しましたが、聖書を読むこと、祈りの時間を持つこと、礼拝すること。そのすべてがいつもやっているからやるだけならば、それは信仰的に不健康であると言わざるを得ないでしょう。
 この断食もそうでした。本来、断食というのは、必要なときに、必要なだけ行うものです。
 かつて、ダビデが部下の妻であるバテシェバを妊娠させて生まれた赤ちゃんが死にそうになるということがありました。その時、ダビデは灰をかぶり、一晩中断食をして地にひれ伏して祈ったことが書かれています。それは自らの罪を悔い改め、悲しんで神に祈るというスタイルだったのです。結局、その祈りは聞かれずに赤ちゃんは死にます。でもそれが彼の信仰の姿勢だったわけです。またエステルというユダヤ人の女性はペルシャの王様のお妃になりましたが、同胞のユダヤ人を救うために行動を起こそうとします。そのとき彼女はユダヤ人の仲間とチームになって三日三晩断食をして祈るのです。
 それは習慣的な祈りとは違いました。形式的な断食ではありませんでした。食事をしないで神様への思いに集中することが断食であったということです。でも、その本質がわからないと、立派な信仰者の真似事が始まり、それが段々と、それを行っている自分に満足するようになる。それが誤った信仰に発展し、そうしていない人をさばきの目で見るようになるのです。
 私が救われた教会では女性は被り物をする決まりになっていました。それは聖書にそう書いてあるからです。聖書によるとそれは創造の秩序を表す女性としての権威と謙遜の印という意味がありました。だから、信仰をもって喜んでそうするなら素晴らしいことですが、人を指さして、あの人は被っていないとか、きちんと被っていないなどと、逆に高慢になってさばくならば本末転倒です。
 これは被り物に限らず、他の信仰からくる行為も同じことが起こってくるのです。それは、私たちの古い生き方、古い性質が根っこにあるので、そうなりやすいのです。どうしても、自分がどれだけのことをしているか、その行いに立ちたくなるのです。決して神の律法を守る必要がないということを言っているのではありません。聖書は昔から信仰をもって行うことを教えてきました。でもその教えを骨抜きにしてしまう古い性質が私たちにはあるのです。心あらずともとりあえず、外目を良くしておけば安心。
だから、イエス様は、その古い自分を捨てて新しいものとされる必要を語るのです。そのことを、イエス様は十分にご存じなので、断食をすることを禁じていたというよりも、意味のない断食ならしない方が良いということを弟子たちに教えていたのでしょう。イエス様は断食をするならば、形式的に行うのではなく、もし行うのであれば、それにふさわしい時があると言われました。
 
2.新しいぶどう酒を入れる

 15節を読みましょう。
「イエスは彼らに言われた。『花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。その時には断食します。』」
 その時とは「花婿が取り去られるとき」であると言われました。その時に、花婿の友人たちが断食すると言うのです。つまり花婿の友達が、そのふさわしい時にするので、今はその必要がないとも言われています。それは、形式的にやるならばやらない方がましだという意味よりも、更に前向きな生き方です。
 それは、今はまったく断食をする必要がないからやっていないのだということです。
ここに断食がふさわしくない意味が二つあることに気づかされます。一つは形式的な見せかけの断食行為は信仰ではないということ。もう一つは、本質的な意味で、花婿であるイエス様がともにおられることを喜んでいるのだから悲しみを表す断食はふさわしくないということです。
 だから、そこには形式的なものは一切なく、ただ純粋にイエスへの真実な愛があるだけで、かたちだけの生贄はいらないのです。
 だからお祝いの席で、灰をかぶってぼろ布を着て、断食することはまったく不釣り合いです。お祝いの席では、誰もが晴れ着を着て、お祝いのぶどう酒を飲み交わして花婿の喜びを自分の喜びとして祝うからです。そこには悲しみも苦しみもありません。それはそこに既に神の国が来ていることを言っています。イエスを信じ従っていくときに、そこから天国が始まる。そこに神の国がもう来ている。だから、すでに花婿の祝宴であると。マタイの家での、その罪人たちと取税人たちの食事の場が、それが神の国の祝宴であるということです。
 それは教会の姿であると言えます。世間から見れば、見下されるような存在、価値がない存在だと思われているかも知れません。しかし、イエス様は、そこが神の国だと言ってくださるのです。私たちはただ喜びと感謝をもって、この礼拝をささげ、形式ではなく、心からの主への愛を表すものだからです。
 しかし、この祝宴に古い生き方を持ち込んだらどうなるか。神様への感謝と喜びの表現ではなく、形式的にでも形を守ってきちんとやっていますという意味であるならば、それはどうなると言われているでしょうか。
 ここでイエス様は、二つの喩えを用いて教えてくださいました。16~17節。
「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」
 一つは古い布切れで、もう一つは古い皮袋です。イエス様は花婿の婚宴の席という話と、この二つの品を関連付けて言われています。お祝いの席に来ていくべき新しい布でつくられた晴れ着につぎをすることは、本来はないことかも知れません。でも、もし晴れ着がどこかに引っ掛けて破けてしまったとき、そこを補修するには古い布ではダメですということです。
 それは、布は古いものと新しいものでは縮み方が違うので、破れがもっとひどくなるというのです。
 また、お祝いの場面で出される新しいフレッシュな味わいのぶどう酒も、古い皮袋だとぶどうの発酵の力で破れてしまうだろうと仰います。今の時代は、飲み物は瓶、缶、ペットボトルですが、この頃はそんなものはありませんから、大きなカメにいれてあるか、持ち運ぶときは動物の皮で作った皮袋でした。
 それは、たいてい羊やヤギからきれいにはぎ取った皮で、毛のある方を内側にして、足があった4つの穴を縛って、首の穴のところから飲み物を注ぐという風に使っていたそうです。
 動物の皮ですから、新しいうちは柔らかくて、ある程度伸びますので、入れたぶどう酒の発酵が進んでも大丈夫です。でも、古い皮は固くなって、もう容積が決まっていますから、膨張には耐えられません。破けてしまうのです。
 同じように、イエス様が与えてくださる信仰による救いは、古い生き方とは不釣り合いです。自分の行いに立つ自分中心の生き方は、イエス様が与えてくださる神を愛し人を愛する生き方とは相容れないのです。釣り合わぬくびきと同じです。古い布でつぎした晴れ着も、古い皮袋に入れたぶどう酒も見ただけでは、よくわかりませんが、そのうちどちらも張り裂けてしまうのです。
 私たちの信仰生活で、喜びがなくなっているとき、なんだか変だなと思った時、それはこの古い生き方が入ってきています。一見、よくわからないのだけど、気が付いたら信仰生活破裂寸前ということがないでしょうか。人に対しても自分に対しても、評価されてなんぼ、何かができてなんぼという子どもの頃からの価値観でいるときに、信仰生活は苦しくなります。それは、そこに自由がなく、何かをする、良い行い、立派な奉仕で自分を、誰かを縛っているからです。花婿の祝いの席が台無しになります。
 だから今、その花婿である主イエスがともにおられるのだから、むしろ喜んでともにいることを祝うべきだとイエス様は仰ったのです。
 
結論
 では、今、私たちが生かされている現代の教会は、また私たち一人ひとりは祝宴にいる花婿の友人として、お祝いの気持ちでいるべきでしょうか。それとも、実は15節で言われている「花婿が取り去られる時」が今なのではないかとも言えます。だとしたら、断食をすべき時ではないでしょうか。
 イエス様は、このマタイの福音書の一番最後でこう言われています。28:20
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
 それはつまり、イエス様を信じるならばイエス様はいつもともにいてくださるのだから、それは花婿といっしょにいる友人として喜んで毎日を過ごすべきということです。ですからマタイが語る最終的な結論は、主は今、ともにおられるということです(マタイは1章からインマヌエルの主として貫徹している)。このような新型コロナウィルスの現実で社会が混沌としていても、一喜一憂せず、花婿であるイエスがともにおられる現実にこそ目を留めなさいということです。その喜びを共有して、この時代の困難をも乗り越えていく。これが、イエスがともにいる現実から生まれるクリスチャンの希望だからです。


●「受難週」(花婿イエスが取り去られた時)を覚える
 でも、あえて今日は、もう一つの面も見ていきたいのです。それは、今日は棕櫚の主日、受難週第一日です。この受難週は2世紀ころには始まっていたと言われています。それは、主がともにおられることを日々喜び祝うことと、同時に主が取り去られた悲しみも味わうことを古代の教会は大切にした。それは信仰生活には必要なことだからです。
 今から、二千年前に、イエスというお方は、ロバの子に跨ってエルサレムに入城しました。今日の出来事の3年後です。そして、その週の金曜日に十字架に磔にされ死んで墓に葬られました。つまり弟子たちはそのとき、花婿が取り去られる場面を目の当たりにするのです。
 でも、その時、彼らは断食ではなく、蜘蛛の子を散らすようにイエスを置いて逃げたのです。イエスという花婿は、一番大事な場面でお祝いどころか、断食すらしてくれる友人もなく、独りぼっちにさせられた方です。この弟子たちに見捨てられ、また被造物にも見捨てられました。イエスが十字架にかけられたとき、太陽は光を失い、全地は暗くなったと聖書は記録しています。それは、人間だけでなく、人間の罪のために虚無に服していた被造物もイエスの敵となったということです。青空は失われ、暗い闇がイエスを覆ったのです。そして、それは何よりも、天のお父様である神様からも見捨てられたということでした。
 イエス様は、そのお父様にこう叫びます。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
 それは、本来、罪人の私が、そしてあなたが叫ぶべきことばでしたが、イエス様は、「父よ」とも呼ばず、「わが神、わが神」と遠く離れられた神様を呼ばれたのです。罪のないお方が、罪のある私たちを赦すために取ってくださった身代わりの死でした。
 この場面こそ、「花婿が取り去られる時」です。そこでは今まで私たちが経験していない真の悲しみがあります。それは、第一に、弟子であり、花婿の友人であるはずの私のためであったという弟子の悲しみです。だから、このときこそ断食が必要なくらいの悲しみを十字架で経験するでしょうというイエス様の予告だったのです。それを、このときの弟子たちはできずに逃げてしまった。しかし、ペテロは弟子を代表して、不甲斐ない自分の罪を悔いて泣いたと聖書は証言しています。私たちもその悲しみに心を合わせたいと思います。そして第二の悲しみは、人々から愚弄され、ご自分の弟子たち、被造物、天のお父様にも見捨てられたというイエス様の孤独の悲しみです。神様から見捨てられるという最悪の恐怖を味わった人間はイエス様だけでしょう。そして、第三の悲しみは、その愛する御子を見捨てなければならなかった天のお父様の悲しみでしょう。目の前で殴られ、鞭打たれ、いばらの冠を載せられ、十字架を負わされ、独りぼっちで苦しみながら死んでいく御子を天のお父様はどんな気持で見ていなければならなかったのか。
 教会はイエス様から、パンとぶどう酒(聖餐式)でその死を覚えるようにと言われています(聖餐式には天の祝宴と、十字架の死を覚える両方の意味がある)。今、残念ながらコロナウィルスのために停止していますが、今日、この受難週を通して、私たちに与えられたイエス様がいつも一緒という喜びと同時に、断食に値するほどの三つの深い悲しみがあったことを覚えたいのです。それは、悲しみで終わらせるためのものではありません。今、それを受けるに値しない私たちが受けている恵みがどれほど価値あるものかをしっかり味わい、忘れないためです。
 今週も、形式的ではない、主に対する真実な愛によって信仰に生きるものとされてまいりたいと思います。
 
祈り