のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「都落ちするダビデ」


ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。彼といっしょにいた民もみな、頭をおおい、泣きながら登った。」Ⅱサムエル15:30

 息子アブシャロムの謀反により、ダビデは王宮を追われ、都エルサレムも出て行くことになった。ダビデの配下の者たちもいっしょについて行った。祭司エブヤタルもツァドクも神の箱とともに出て行こうとしたが、ダビデはそれを止め、宮に戻すように命じた。それは、ダビデ自身が主の目に叶えば必ずまた戻って来られることを思い、そのようにした。いずれにしても主の御心のままにという思いでエルサレムを去ろうとした。その悲しみの決断には、ダビデの自分自身に対する負い目があった。それは、長男アムノンが娘タマルを犯したとき、またその報復としてタマルの兄アブシャロムがアムノンを殺した時、ダビデの態度はアブシャロムの心を沸々させてしまったからだ。父親としてきちんと問題に向き合い、ただ怒るばかりでなく、正しいさばきをすべきだったからである。だから、その時の自分の姿勢の至らなさが、息子にクーデターを起こさせてしまったと感じていたのである。だから、このクーデターに対して、主の御心を求め、その導きの中で回復することを願ったのであった。しかし、ダビデはただ茫然としていたわけでもない。クーデターの首謀者たちの企てが綻ぶように、配下の信頼のおける者たちをエルサレムに残した。祭司たちもそうであるが、王の側近であったフシャイをアブシャロムのもとに残すことで、謀反を企てたアヒトフェルの失脚を狙ったのである。
 私たちも人生において、予期しない困難に直面することがある。しかし、そういう場合も悲しみに明け暮れて終わってはならない。神の御心を求め、自分ができる最善を行なうべきである。ダビデは祭司ツァドクを「先見者よ」と呼んだ。これはダビデが日々、神の言葉を彼を通して聞いていたことを読み取れる表現ではないだろうか。つまり、どんな場合でも神の言葉に聞き、神の言葉から解決を得ようとすることの大切さも教えている。その上で、問題解決のための策も講じているのである。
あなたの目の前の問題も同様に、神の御心を求めつつ神の言葉を土台にしながら、あなたがなすべき最善をささげようではないか。


「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」ローマ8:28