のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

主と戦ってはならない

歴代誌 第二 13章
1,ヤロブアム王の第十八年に、アビヤがユダの王となり、
2,エルサレムで三年間、王であった。彼の母の名はミカヤといい、ギブア出身のウリエルの娘であった。アビヤとヤロブアムの間には戦いがあった。
3,アビヤは精鋭四十万の勇敢な戦士の部隊を率いて戦いに臨んだ。一方、ヤロブアムも八十万の精鋭の戦士を率いて彼に対抗し、戦いに備えた。
4,アビヤは、エフライムの山地にあるツェマライム山の上に立って言った。「ヤロブアムおよび全イスラエルよ、私の言うことを聞け。
5,イスラエルの神、主が、塩の契約をもって、イスラエルの王国をとこしえにダビデとその子孫に与えられたことを、あなたがたが知らないはずはない。
6,ところが、ダビデの子ソロモンのしもべであったネバテの子ヤロブアムが立ち上がって、自分の主君に反逆し、
7,彼のもとに、ごろつき、よこしまな者たちが集まり、ソロモンの子レハブアムより優勢となった。それに、レハブアムは若くて気が弱く、彼らに対抗して自分の力を増し加えることがなかった。
8,そして今、あなたがたは、ダビデの子孫の手にある主の王国に敵対しようとしている。あなたがたは大軍であり、ヤロブアムがあなたがたのために造って神とした金の子牛もあなたがたとともにある。
9,あなたがたは、アロンの子らである主の祭司たちとレビ人を追放し、諸国の民に倣って自分たちのために祭司を立てたではないか。だれでも若い雄牛一頭と雄羊七匹をもって祭司職につこうとするなら、神ではないものの祭司となれたのである。
10,しかし、私たちにとっては、主が私たちの神であり、この方を捨てなかった。また、主に仕える祭司たちはアロンの子らであり、レビ人も務めを果たしている。
11,彼らは朝ごと夕ごとに主に向けて全焼のささげ物を焼いて煙にし、芳ばしい香をたき、並べ供えるパンをきよい机の上に整え、夕ごとに金の燭台とその上のともしび皿に火をともしている。私たちは、私たちの神、主への務めを果たしているが、あなたがたはこの方を捨て去った。
12,見よ、神は私たちとともにいて、かしらとなっておられる。また、神の祭司たちも吹き鳴らすラッパを手にして、あなたがたに対し進撃の合図を吹き鳴らそうとしている。イスラエルの人々よ、あなたがたの父祖の神、主と戦ってはならない。とうてい勝ち目がないからである。」
13,ところが、ヤロブアムは伏兵を回して、彼らの背後から攻めるようにさせた。そのため、本隊はユダの正面に、伏兵はその背後にいることとなった。
14,ユダが向き直ると、なんと、戦いは前後から迫っていた。そこで、彼らは主に叫び求め、祭司たちはラッパを吹き鳴らした。
15,そして、ユダの人々はときの声をあげた。ユダの人々がときの声をあげると、神はヤロブアムと全イスラエルを、アビヤとユダの前に打ち破られたので、
16,イスラエルの人々はユダの前から逃げ去った。こうして、神は彼らをユダの手に渡された。
17,アビヤとその兵たちは彼らを討ち、大打撃を与えた。イスラエルのうち、精鋭五十万が剣に倒れた。
18,イスラエル人はこのとき屈服させられ、ユダ人は勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。
19,アビヤはヤロブアムを追撃し、ベテルとそれに属する村々、エシャナとそれに属する村々、エフラインとそれに属する村々を彼から取った。
20,こうして、ヤロブアムはアビヤの時代に、再び勢力を回復することはできなかった。主が彼を打たれたので、彼は死んだ。
21,一方アビヤは勢力を増し、十四人を妻として、二十二人の息子と十六人の娘をもうけた。
22,アビヤについてのその他の事柄、彼の行いとことばは、『預言者イドの注解』に記されている。

 

 レハブアムの子アビヤは北イスラエル王国の大軍と戦うことになりました。そもそも同じイスラエル民族でありながら、敵対し合うことは神の御心ではありませんが、このような事態を通して、互いに主こそ神であることを体験して、主を礼拝する民として敵対をやめ、あらためて一つになることが、この戦いの目的であったと推測できます。

 この戦いにおいて、アビヤはツェマライム山に立って叫ぶ、この説教は痺れるくらい素晴らしい内容です。

 偶像崇拝を始めた北イスラエル王国に対して、自分たちが、正しく主を礼拝していることを告げる。しかも律法に叶うアロンの子孫である祭司やレビ人によってです。だから、この戦いはもはやイスラエルとユダの戦いではなく、イスラエルが主に対して弓を引く、神への敵対であったと言うことです。

 そうこうしているうちに、イスラエル軍は伏兵によってユダ軍を挟み撃ちにします。

 しかし、ユダ軍は向き直り、そこで混乱して戦ったのではなく、まず主に叫び、祭司たちのラッパが鳴らされたことは、ユダ軍の驚くべき信仰と言わなければならないでしょう。それはユダ王国としての戦い自体が礼拝の態勢をとっていたからです。

 きっと祭司のラッパの響きがその山間にこだましたでしょう。

 実際にこの戦いにはユダ軍の二倍の人数がイスラエル軍にあり、それも精鋭だったようですが、たとえ半分しかいませんでしたがユダの精鋭部隊にはかないませんでした。

 なぜなら、ユダの精鋭部隊は信仰においても精鋭だったからです。彼らは自分の軍隊や武器や人数によってではなく、ただ神によって立っていた。ここに、神が背後から働かれ、いやむしろ先頭に立って、この戦いを闘ってくださったことで、ユダ軍は勝利を得たのでした。

 このアビヤをはじめとするユダ軍の姿はエリコ攻略時のヨシュア率いるイスラエル軍を彷彿させます。

 今日の箇所で、やはり痺れるほど素晴らしいアビヤの言葉を私たちの言葉として、今日も繰り広げられる私の、そしてあなたの戦いを闘っていこうではありませんか。

 

イスラエルの人々よ、あなたがたの父祖の神、主と戦ってはならない。とうてい勝ち目がないからである。」

 

 この言葉は決して自らを驕り高ぶっているのではありません。主を信じる者としての絶対的な信頼によるものです。

 だからこそ、主がこの戦いを闘ってくださったのです。

「18,イスラエル人はこのとき屈服させられ、ユダ人は勝利を得た。彼らがその父祖の神、主に拠り頼んだからである。」とあるとおりです。

 そして、ヤロブアムの最後の記述も主に従わずに敵対し続けた者の悲惨を告げます。それは単に年老いて、寿命だから死んだのではなく主に打たれて死んだとあるからです。

 主に打たれて死ぬことほど悲しいことはありません。それは、死ぬまで、最後まで神に敵対していた。神を信じなかった。神に従わなかった者であったと言う証明になってしまったということです。

 だからこそ、私たちはそのことを反面教師として、またアビヤの信仰を模範として、今日歩ませていただきましょう。

 主と戦ってはとうてい勝ち目はありません。しかし、主を信じて戦うなら主が味方です。しかも礼拝の態勢を維持しつつ戦うのです。決して自分の立派さとか、人間的な力とか魅力ではなく、ただ主を信じること。そして礼拝者として神を愛し続けることに心を注ぎましょう。

 主がアビヤに、そこに従うユダ王国に勝利をもたらしたように、あなたの礼拝者としての歩みにも必ず主の勝利をもたらしてくださるからです。

 

詩篇 98篇
1,新しい歌を主に歌え。主は奇しいみわざを行われた。主の右の御手聖なる御腕が主に勝利をもたらしたのだ。


2,主は御救いを知らしめご自分の義を国々の前に現された。


3,主はイスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる。地の果てのすべての者が私たちの神の救いを見ている。


4,全地よ主に喜び叫べ。大声で叫び喜び歌いほめ歌を歌え。
5,主にほめ歌を歌え。竪琴に合わせて。竪琴に合わせほめ歌の調べにのせて。
6,ラッパに合わせ角笛の調べにのせて王である主の御前で喜び叫べ。


7,海とそこに満ちているもの世界とその中に住むものよ鳴りとどろけ。
8,もろもろの川よ手を打ち鳴らせ。山々もこぞって喜び歌え。


9,主の御前で。主は地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき公正をもって諸国の民をさばかれる。