のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

王がへりくだったとき

2Chr. 12:1 レハブアムの王位が確立し、彼が強くなると、彼は主の律法を捨て、彼とともにいた全イスラエルもそうした。
2Chr. 12:2 さて、レハブアム王の第五年に、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来た。イスラエルが主の信頼を裏切っていたからである。
2Chr. 12:3 一緒に来たのは、戦車千二百台、騎兵六万人。彼とともにエジプトから来た兵たち、すなわち、ルブ人、スキ人、クシュ人は数えきれないほどであった。
2Chr. 12:4 彼はユダに属する防備の町々を攻め取り、エルサレムまで攻め寄せて来た。
2Chr. 12:5 そのとき、預言者シェマヤが、シシャクのことでエルサレムに集まっていたレハブアムとユダの首長たちのもとに来て言った。「主はこう言われる。『あなたがたがわたしを捨てたので、わたしもあなたがたを捨てて、シシャクの手に渡した。』」
2Chr. 12:6 すると、イスラエルの首長たちと王はへりくだり、「主は正しい」と言った。
2Chr. 12:7 主が、彼らのへりくだった様子をご覧になると、シェマヤに次のような主のことばがあった。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与える。わたしの憤りがシシャクの手を通してエルサレムに注がれることはない。
2Chr. 12:8 ただし、彼らはシシャクのしもべとなる。わたしに仕えることと地の諸王に仕えることの違いを知るためである。」
2Chr. 12:9 エジプトの王シシャクはエルサレムに攻め上り、主の宮の財宝、王宮の財宝を奪い取った。彼は何もかも奪い取った。ソロモンが作った金の盾も奪い取った。
2Chr. 12:10 レハブアム王は、その代わりに青銅の盾を作り、これを王宮の門を守る近衛兵の隊長の手に託した。
2Chr. 12:11 王が主の宮に入るたびに、近衛兵が来てこれを運んで行き、また近衛兵の控え室に戻した。
2Chr. 12:12 王がへりくだったとき、主の怒りは彼を離れ、主は徹底的に滅ぼすことはされなかった。ユダにも良いことがあったのである。
2Chr. 12:13 レハブアム王はエルサレムで勢力を増し、国を治めた。レハブアムは四十一歳で王となり、主がご自分の名を置くためにイスラエルの全部族の中から選ばれた都、エルサレムで十七年間、王であった。彼の母の名はナアマといい、アンモン人であった。
2Chr. 12:14 彼は悪事を行った。心を定めて主を求めることをしなかったのである。
2Chr. 12:15 レハブアムについての事柄、それは最初から最後まで、『預言者シェマヤと先見者イドの働き』に、系図にしたがって確かに記載されている。レハブアムとヤロブアムの間には、いつも戦いがあった。
2Chr. 12:16 レハブアムは先祖とともに眠りにつき、ダビデの町に葬られた。彼の子アビヤが代わって王となった。

 

 信仰生活には神を愛する者としてのきよさが求められます。それは、本来、自分から絞り出すものではなく、内側から素直に出てくるものであるはずです。しかし、信仰者と言えども、簡単ではないことがわかります。それは、知らず知らずのうちに、神様の御心よりも自分の考え、自分の生き方、価値観が前に出て来てしまうからです。そのくらい、神なしの生き方が染みついているのです。

 

 父ソロモンの後を継いで王となったレハブアムでしたが、その信仰と姿勢には大きな問題がありました。当初は、全イスラエルからも南ユダ王国に戻って来る人々があり、その人々もレハブアムを支援し、3年は信仰的にも安定したときを過ごしていたようですが、その5年にレハブアムは律法を捨てたとあります。言うなれば、これは神を捨てたということです。しかも全イスラエルから集まって来ていた者たちも、同様に主の律法を捨てたのでした。

 

 そこから南ユダ王国はエジプトからの攻撃に悩まされることになります。それは彼らが主を捨てたのでそうなったのだと預言者シェマヤを通して語られた通りです。

 

 しかし、ここから主の彼らへの態度が変わってきます。それは、イスラエルの首長たちと王がへりくだったからだと聖書は言います。主もへりくだった彼らにみことばを与えました。そして、「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない」と約束されたのです。ところが、エジプトの侵攻はそのままとされたのです。それは、彼らを教育するためです。

8節「ただし、彼らはシシャクのしもべとなる。わたしに仕えることと地の諸王に仕えることの違いを知るためである」

 

 そしてレハブアム王も、へりくだったと聖書は記します。そのとき主の怒りが彼を離れたとあります。そして、次の言葉が実に正直です。

「ユダにも良いことがあったのである」

 

 でも、この言葉は私たちのことでもあることを今日、あらためて覚えたいと思います。このような信仰者とは言え、毎日、罪を犯し続けているのに、主は日々教育してくださっておられ、決して滅ぼしつくすことをなさらない。それは、私にも、そしてあなたにも「良いことがあったからである」と言ってくださる主の憐みによるものです。

私のような小さな罪人をも主はみことばを通して、良い所があると励ましてくださる。今日のこの励ましのみことばのゆえに、あらためて主の前にへりくだりたいと思います。

 

 へりくだるものを主は尊んでくださるからです。

 

「嘲る者を主は嘲り、 嘲る者を主は嘲り、  へりくだった者には恵みを与えられる。」

箴言3:34