のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

悔い改めて神に帰ろう

歴代誌 第二 33章1~20節

"マナセは十二歳で王となり、エルサレムで五十五年間、王であった。


彼は、主がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の忌み嫌うべき慣わしをまねて、主の目に悪であることを行った。
そして、父ヒゼキヤが取り壊した高き所を築き直し、バアルのためにいくつもの祭壇を築き、アシェラ像を造った。また、彼は天の万象を拝んでこれに仕えた。
こうして彼は、主がかつて「エルサレムにわたしの名がとこしえにあるように」と言われた主の宮に、いくつもの祭壇を築いた。
主の宮の二つの庭には、天の万象のために祭壇を築いた。
この彼は、ベン・ヒノムの谷で自分の子どもたちに火の中を通らせ、卜占をし、まじないをし、呪術を行い、霊媒や口寄せをし、主の目に悪であることを行って、いつも主の怒りを引き起こしていた。
彼はまた、自分が造った偶像の彫像を神の宮に安置した。神はかつてこの宮について、ダビデとその子ソロモンに仰せられた。「わたしは、この宮に、そしてわたしがイスラエルの全部族の中から選んだエルサレムに、わたしの名をとこしえに置く。
もし彼らが、わたしの命じたすべてのこと、わたしがモーセを通して与えたすべての律法と掟と定めを守り行いさえするなら、わたしはもう二度と、あなたがたの先祖たちのものと定めた地からイスラエルの足を去らせることはしない。」
しかし、マナセはユダとエルサレムの住民を迷わせて、主がイスラエルの子らの前で根絶やしにされた異邦の民よりも、さらに悪いことを行わせた。
主はマナセとその民に語られたが、彼らは耳を傾けなかった。


そこで主は、アッシリアの王の配下にある軍の長たちを彼らのところに連れて来られた。彼らはマナセを鉤で捕らえ、青銅の足かせにつないで、バビロンへ引いて行った。


しかし、彼は苦しみの中で彼の神、主に嘆願し、父祖の神の前に大いにへりくだり、
神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうしてマナセは、主こそ神であることを知った。


その後、彼はダビデの町の外側、ギホンの西側の谷に城壁を築いた。それは魚の門に至り、オフェルを囲むもので、非常に高く築かれた。また、彼はすべてのユダの城壁のある町々に軍の高官を置いた。
また彼は、主の宮から異国の神々と偶像、および、主の宮のある山とエルサレムに自分が築いたすべての祭壇を取り除き、町の外に投げ捨てた。
そして、主の祭壇を築き直し、その上で交わりのいけにえと感謝のいけにえを献げ、ユダに命じて、イスラエルの神、主に仕えさせた。


しかし民は、自分たちの神、主に対してではあったが、なお高き所でいけにえを献げていた。
マナセについてのその他の事柄、彼が神にささげた祈り、イスラエルの神、主の御名によって彼に語った先見者たちのことばは、まさしく『イスラエルの王の書』にある。
彼の祈り、その願いが聞き入れられたこと、および、彼がへりくだる前に犯したその罪、その不信の罪、高き所を築き、アシェラ像と刻んだ像を立てた場所については、『ホザイの働き』にまさしく記されている。
マナセは先祖とともに眠りにつき、その家に葬られた。彼の子アモンが代わって王となった。"

 悪名高きマナセ。彼の偶像崇拝政策により、多くの国民が大きな影響を受けました。

 

 まずモレク礼拝で多くの子どもたちが生贄とされたのです。また、天の万象を拝むメソポタミヤの信仰も取り入れて、国の宗教政策はまさに混沌としてしまったのです。

 

 恐らく神であれば何でも良いという、多くの信仰があれば国を治められると考えたのではないでしょうか。そこに、真の神を信じる信仰の希薄さを見ることができます。

 

 全く主への信仰がなかったのではないでしょう。何と言っても彼の父はダビデの再来とも言われるヒゼキヤだったからです。

 しかし、彼は父ヒゼキヤの道を倣わず、誤った宗教政策を復活させ、国民を露頭に迷わせたのでした。

 いつの時代も為政者の判断で国民は迷わされます。政府が白と言うことを白であると言わなければ、その国で平和に暮らせません。しかし、それで良いのでしょうか。

 

 しかし、そのような誤った判断で事が進められているときに、禍が起きます。当時の強国アッシリアの配下の者たちが押し寄せ、マナセを捕らえて連行していったのです。これは国家にとっては、大きな禍でしょう。

 国民もなぜこうなったのかと、その原因を考えるでしょう。今、なぜコロナ禍なのかと考えるように、彼らも考えたでしょう。

 しかし、マナセが捕らえられたのは、主がそうさせたと聖書は言います。禍を主が起こしたのか。

 でも主が積極的に禍を起こしたのではありません。そもそも罪によって呪われてしまったこの世界は禍ありきの世界です。だから、どんな禍が起ころうとも、それは人間の罪のゆえに始まった罪の呪いであり悪魔の支配の影響です。

 しかし、神様が介入されているので、そのような悪の世界にあっても幸せな出来事もあり、人を愛することや、愛されることもあり、その中で幸せな感情も起こり、喜びもあるのです。

 しかし、主が介入しなければ禍が起こるというだけです。マナセが捕らえられたのも、そもそも彼を狙っていたアッシリア帝国の思惑があったからです。

 しかし主はその禍を禍で終わらせないお方です。むしろ、その禍を通してマナセが悔い改めて主に立ち返るように用いたのです。

 これが、この世で主を信じることがどれほど大切かという理由の一つでもあります。

 マナセは確かに悪名高きユダの王でした。しかし、主は彼を愛して、彼もまた与えられた主の裁きの中で、罪がわかり、悔い改めて神を信じたのです。

 人は自分をさて置き、他の人の罪を赦すことができません。そこに憎しみ恨みが起こるからです。

 しかし、主なる神様は私たちがどんな悪党でも愛してくださる寛大な方です。だから、その罪に気がつき悔い改めるように禍をも許し、私たちが帰ってくるのを待っておられるのです。

 まさに放蕩息子のお父さんと同じです。弟息子が豚の餌を食べたくなるほど落ちぶれたのはお父さんのせいではありません。弟息子の選択ミスです。しかし、その選択ミスを許したのはお父さんです。

 それは恐らく弟息子がその禍の中で自分の間違いに気がつき悔い改めることを願っていたからでしょう。

 弟息子は、豚の世話をしながら我に返った時にお父さんに謝ろう、家に帰ろうと思って父が待つ家に帰り父の抱擁を得るのです。

 マナセもそうでした。ここに神の愛があります。私たちも今日、あらためて私たちの父が偉大であり、愛に満ちておられるのか覚えましょう。そして、今もし試練の中にある人は、その試練の原因が自分にないか、まず考えましょう。そして、もし罪が示されたならば悔い改めましょう。そして、神様の懐に帰りましょう。

 

"こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。
息子は父に言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、あなたの前に罪ある者です。もう、息子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。食べて祝おう。
この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。』こうして彼らは祝宴を始めた。"
ルカの福音書 15章20~24節