のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

主のみことばに聴こうとする者と聴こうとしない者

"イスラエルの王とユダの王ヨシャファテは、ラモテ・ギルアデに攻め上った。
イスラエルの王はヨシャファテに言った。「私は変装して戦いに行きます。しかし、あなたは自分の王服を着ていてください。」イスラエルの王は変装し、彼らは戦いに行った。
アラムの王は、自分の配下の戦車隊長たちに次のように命じた。「兵とも将軍とも戦うな。ただイスラエルの王だけを狙って戦え。」
戦車隊長たちはヨシャファテを見ると、「あれがイスラエルの王に違いない」と思い、彼と戦おうとして取り囲んだ。ヨシャファテが助けを叫び求めたので、主は彼を助けられた。神は彼らを、彼から引き離された。
戦車隊長たちは、彼がイスラエルの王ではないことを知ると、彼を追うことをやめて引き返した。
そのとき、ある一人の兵士が何気なく弓を引くと、イスラエルの王の胸当てと草摺の間を射抜いた。王は戦車の御者に言った。「手綱を返して、私を陣営から出させてくれ。傷を負ってしまったから。」
その日、戦いは激しくなった。イスラエルの王は、アラムに向かって夕方まで戦車の中で立っていたが、日没のころになって死んだ。"
歴代誌 第二 18章28~34節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 ユダの王ヨシャパテは主を信じ、主のみことばを大切にする王でした。一方、アハブは主を恐れずみことばにも聞かないイスラエルの王でした。

 ユダとイスラエルが兄弟国同士として、他国の侵略軍と戦うことは良いことでしょう。

 今日のみことばは、だれと同盟を結ぶべきかということと、主を信じる者を主は助けてくださるという真理を表しています。

 ヨシャパテは主を恐れる人だったがアハブはそうではない。いくら関係性が兄弟国であったとしても、同じ信仰を持っていなければ心を通じ合うことができません。

 アハブは多くの預言者たちを立てているくらいなので、一見、少しは見込みがあるのかと思わせますが、何千人いようが、その預言者たちが偽者ならば、何の意味もありません。一万人いても一人の真の預言者にはかないません。

 なぜならば、真の預言者には主ご自身の権威があり、主ご自身も預言者とともにおられるからです。

 預言者ミカヤは、多数派である偽預言者たちもイスラエルの王であるアハブにも恐れず、忠実に主のみことばを告げます。この姿勢こそ、私たち新約時代に生きるキリスト教会の立ち方でもあります。

 この世の価値観は益々、主の御心から離れて、人間中心の価値観が優先されていくでしょう。一人ひとりの価値観で良い。多様性を認めるという大義名分の下

神のみことばが退けられるのです。

 しかし、キリスト教会はそこが、ぶれてはなりません。ミカヤのように「しかり」はしかり。「否」は否と、はっきりと言わなければなりません。

 結局、ヨシャパテにだけ王服を着せて自分だけ助かろうとしたアハブが、兵士が放った流れ矢に当たり死ぬこととなる。ここには、それを主がなさったことだとは言われていないが、たしかに、預言者の忠告を無視する者の結末を象徴するかのような最期でした。

 他方、ヨシャパテは主の助けによって難を逃れたのです。

 

 信仰者として、この厳粛な事実を事実として、しっかりと心に留めなければなりません。それは、あなたはどちらか?と言う問いがここにあるからです。

 

 ヨシャパテのように主を信じ、主により頼んで生きるか。またはアハブのように、都合の良いことだけを言ってくれる偽預言者の声に聞き、主のみことばを蔑むか。ぜひ、正しい方を選び、どんなときも主から離れないで歩む者とされてまいりましょう。