のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎ 2020年3月1日 白石教会礼拝 

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●自宅で礼拝を献げる方へ。

少し世間が神経質になっているご時世ですが、対策を取りつつも、冷静になって主への礼拝をともに献げましょう。

写真は白石教会の礼拝中のものです。場所は違えど、ともに主をほめたたえる思いを一つにして、主を礼拝いたしましょう。

 

下のリンクは、明日の礼拝のPowerPointのリンクです。

招詞、交読、賛美歌の歌詞も順番に入っておりますので、ぜひ個人礼拝にご活用ください。

https://www.dropbox.com/s/2dp4qa5ydd5xj5u/2020%E5%B9%B43%E6%9C%881%E6%97%A5%E7%A4%BC%E6%8B%9D%20.ppt?dl=0

 

説教題 「なぜこわがるのか」
聖書箇所 マタイの福音書8章23~27節
 
序論

 お休みをいただきまして、8日間ゆっくりさせていただきました。ほぼ10年ぶりに外泊して温泉につかってきました。予想していたよりも他の宿泊客が多くて驚きましたが、日本人ばかりで、やはり新型コロナウィルスの影響だなと思わされました。それで静かにできるかなと思いきや、大学生たちのグループがちょうど同じフロアに宿泊していて、夜中1時過ぎても騒がしくて眠れなかったので、思わずフロントに苦情の電話をしたり、思い出深い休みとなりました。
 このように、今、世界を巻き込んで広がっている新型コロナウィルスは、あちこちで今の私たちの生活に影響を与えています。先週で最後の奉仕だった高齢者施設でも、いつものように入館できず、インターホンを押して手を消毒してからようやく入ることができました。しかも、いつもは二つの礼拝が時間差で行われて、二つの奉仕をするのですが、先日は重度の高齢者施設の方の礼拝がなくなり、1階フロアの礼拝だけになっていました。それで1階の礼拝の音声のみ館内放送で2階の方々に聞いていただくというかたちでした。
 ケズイックコンベンションでも、マスク着用はもとより、受付に消毒液を置いて、入るとき出るときの消毒を呼び掛けて、座る席も一つ開けて座るように配慮されていました。また、先週、私が行った札幌の教会では受付でマスク着用を呼びかけて、マスクしたままでの礼拝が行われていました。また東京にある私の知人牧師の教会では、今日から2週間は週日の集会は休みにして、礼拝はインターネットで配信することにしたと連絡がありました。
 このように様々なところで、感染予防の対策が取られています。とても気を遣う事態であるということです。ペストやコレラ、インフルエンザに比べたら大したことではないが、死者が出ていることは重く見なければならないでしょう。こういうときに私たちはどうすべきか。
 このような近年まれにみるような世界規模の事態に、今日、神様は何を私たちに語られているのでしょうか。
 今日の説教題は「なぜこわがるのか」とイエス様が語られたみことばそのままにしました。イエス様を信じて歩む中でも、怖いこと、嫌なこと、あってほしくないことが残念ながら起こります。そして、そこで恐れ惑う人がいることを、イエス様はよくご存じでした。その人にイエス様は「なぜこわがるのか」と言われています。つまり、今のような、いつまで続くのかわからないような、いつ感染しているのかわからないような、そういう中で、私たちはどのように生きるべきか。
 
1.イエスについて行く
 今日の箇所は前回からの続きとなっています。ガリラヤ湖というイスラエルにある小さな湖で、イエス様は向こう岸へ行こうと言われて、そこについてくる弟子を待っておられました。そこに二人の人が登場しました。一人目は律法学者で聖書知識に長けている既に先生と呼ばれるような、エリートでした。しかもやる気満々です。もう一人は、弟子とは言われていますが名前の紹介がなく、あまり積極性のない人です。その両方に対してイエス様は、一緒について行くことの大変さを告げます。「私には枕するところもない」忙しいし、お金もないし大変だよと言います。また、何よりも神様を第一にできますか。あなたにとって大事なことを横においてもわたしについて来れますかと言います。その中で、イエス様は、その消極的な弟子の方に「わたしについてきなさい」と招かれたのです。
 あなたなら、どうでしょうか。もし今、イエス様を信じたとはいえ、ついて行く自信がない。そういう人はいらっしゃるでしょうか。しかし、そういう人を招かれていると聖書は伝えているのです。従いたいけど自分には力がない。そういう私たちに、イエス様はあえてついて来なさいと招かれているからです。それは、イエス様を信じて歩むとは、私たちのやる気とか、元気かどうかとか、持っている能力や、人間的な努力とは真逆だからです。神様の招きは、何を優先したらよいか迷っているような人にこそ与えられているからです。なぜなら、主に従うやる気も能力も、元気も行いもすべて神様が用意してくださるからです。すべては神様の一方的な恵みだからです。だから、だめな自分を知って、だからこそ、まずイエス様について行く。これが大事です。23節。
「イエスが舟にお乗りになると、弟子たちも従った。」
 イエス様はあえて声に出さずにお一人で舟に乗り込みます。そこには弟子と呼ばれる人たちがついて行きました。ここがとても大切です。イエス様は群衆も含めて、語るべきことは語り、あとはその応答を待つために舟に乗ると言うアクションを起こします。このとき、だまってついてきたのは群衆から取り分けられた弟子たちだったとマタイは記します。あの山上の説教のときは弟子と群衆は分けて書かれていましたが、山を下りてからは、群衆の中に弟子たちは一緒になっていました。しかし、ここで向こう岸へ渡るというとき、宣教の旅に出るというとき、もう一度、弟子たちは群衆の中から取り分けられてイエス様のところへついて行くのです。
 このような場面は、いつも私たちの周りにあります。家庭、職場、学校でその中の群衆として過ごすのか、それともそこから一歩出て主の舟に乗るのか。ここに、クリスチャンの天の御国の市民として、キリストを王さまとする神の王国の国民としての第一歩があります。
 色々な不安や心配事を持ったままで、まず一緒に舟に乗り込むのです。このときの弟子たちは、きっとみんな不安だったはずです。まだ12使徒が選ばれる前のようですから、それぞれにただついてきてしまったという人ばかりです。きっと、イエス様の先生としてのお話を聞いて感動したかも知れません。そこで「わたしについて来なさい」と言われて網を捨て、父親を置いて、ついて来てしまったのです。
 私は子どもの頃から神様というお方の存在をなんとなく信じていました。そこでキリスト教と出会い、高校生で洗礼を受けるまで聖書に書いてあることは
疑わずに、そう書いてあるからそうなんだろという感じで信じていたので、そんなに劇的な救いというものを経験しないでイエス様について来ました。まさに、ここで舟に乗る弟子たちのようにです。単にイエス様の魅力、その教え、罪の贖い。そのすべてに同意するという信じ方だったのです。イエス様との出会いは色々なパターンがありますので、どれが正しくてどれが間違っているというのはありません。
 それぞれに出会いがあり、それぞれに罪の自覚と赦しへの応答のタイミングや深さは違います。ただ、それぞれとはいえ、従って歩んでいる中で、神様のときに、罪が示されイエス様の十字架が私のためであったということが深くわかるときが必ず訪れます。
 ですから、この弟子たちは、まだイエス様の十字架は経験しておらず、まだよくわからない状態であったということです。それでも大事なことは、まず群衆から一歩踏み出して、イエス様について行く、同じ舟に乗るという事です。
 ではイエス様と同じ舟に乗るとはどういうことでしょうか。
 
2.おぼれそうです

 それが23節以降です。23節を読みます。
「すると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。」
 湖に大暴風が起こったのです。このガリラヤ湖というのは、心臓の形をしていて、死海と同じように海抜マイナス200m以上ありながら、塩水湖ではなく淡水湖です。そこから流れ出るヨルダン川イスラエルにとって大切なライフラインでした。そのガリラヤ湖は周囲を高いところでは300メートルの山々に囲まれて、山から吹き下ろしてくる冷たい突風と湖からの温かい水蒸気がぶつかってよく嵐になるそうです。
 しかも、この時間帯ですが、並行記事があるマルコの福音書を見ると夕方であったことがわかります。つまり、大変、悪いコンディションの中、舟に乗ったということです。
 この船に乗っているメンバーは定かではありませんが、これまでのマタイの福音書のお話の流れを見ると、漁師であるペテロとアンデレ、ヤコブヨハネはいたと思われます。つまりプロの漁師が最低でも4人いたわけですから、この湖の漁師として、この湖のことは熟知していたはずです。だから、大暴風には慣れていた可能性があります。でも彼らはいのちの危険を感じて、叫びます。
「主よ。助けてください。私たちはおぼれそうです。」
 そうです。事態はプロの漁師たちが「おぼれそうです」と命の危険を感じ、手に負えない状況となったのです。ここで弟子たちは、自分のスキルや能力が全く役に立たない現実を経験します。
 イエス様が夕方に舟に乗ろうと言われたときに、もしかしたら、心の中で、「大工出身のイエス様はなんて無謀なことをするのだろう。でも、自分たちの技術があれば何とかなるさ」と思っていたかも知れません。でも、主の宣教の道には、そのような人間的な技術や能力よりも、もっと大切なものが求められます。それは信仰です。自分の力、自分の技術、自分の能力ではありません。むしろ、そのような技術や経験は神の恵みをわからなくしてしまいます。
 そういうときに、自分のその能力がまったく歯が立たないということがさらに明らかにされたときに、とても言いようもない恐怖が心を支配するのです。なぜなら、頼みの綱が失われたからです。
 車を運転していて、ブレーキが利かなくなった時の恐怖と同じです。スキーを滑っていて、太刀打ちできないスピードになったときに、もう転ぶしかないその恐怖と同じです。
 今回の新型コロナウィルスが恐れられているのは、感染して発症したときに確実に治療する手立てがないからです。確かに、インフルエンザよりも死に至る確率は低いです。しかし、いざ感染し発症した場合に、手の打ちようもない患者がただ病院の病室を埋め尽くし、治るか死ぬかを待つしかないからです。その間、他の病気で困っている人の治療すら滞る事態にもなります。
 弟子たちも舟の上でその状況でした。並行箇所のマルコの福音書を見ると、「舟は、水をかぶって、いっぱいになった」とありますので、それは沈没寸前の恐ろしい場面です。
ところが、イエス様は何をしていたかというと、24節。
「イエスは眠っておられた」
 前回、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」と静かに休む場所すらないと言われていた現実がそこにありました。イエス様についていくときに、その苦労をともにする。その経験を、弟子たちは、見習いとしての実践の部分で早くも味わうこととなったのでした。
 イエス様は彼らの声を聴いて眠りから覚めて、
初心者である弟子たちに、強い言葉で叱責します。
『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』
そして、騒がしい人に対するように風と湖をしかりつけました。すると大なぎになったと記録されています。
 ここでイエス様は
 なぜこわがるのかと叱られても、怖いものは仕方がないと思いたいです。でもこのイエス様のことばは、あくまで弟子たちに向けて語られていることに注目しなければなりません。それは、イエスの弟子であるならば、ここで怖がらなくても良い理由があるからなのです。
 まだイエス様を信じていない人なら、仕方がないことですが、信じてついて行きたいと思っている人ならば、主の弟子として、まず知らなければならないことがあるからです。
 どうでしょうか。みなさん。クリスチャンとして、まず知るべきこと。認めるべきこと。イエス様は弟子たちに、どのような信仰が薄いと仰ったのでしょうか。
 
3.イエスこそ全能の神
 それは、これまで目の前で病気を癒し、そして、ここで自然界をも言うことを聞かせるという出来事を通して経験させられることです。それは、このナザレのイエスこそ全能の神ご自身であるという事実です。
 それは日本のようにたくさんいる神々の中の一人、多くの宗教の中の一つとして信じるのではありません。聖書が一貫して指し示す、唯一の神、主なる神、万軍の主が人間の肉体をとって来られた。それがイエスであるという事実です。まず、そのことが現実に起こったということを私たちは知らなければなりません。目に見えないお方が、私たちにわかるように人間の姿で来られた。このお方がともにある人生。それこそ恐れのない人生だからです。このマタイの福音書は、初めから、このイエスはインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれるとはっきりと示して、クリスマスの場面もルカとは違う視点で、メシアであるキリストを示していました。
 その神がともにおられるならば、たとえ水浸しになった舟だったとしても、その場所、その空間、その状態がすでに神の国であるということです。
神の国、天の御国の定義は何でしょうか。
 ダイアモンドのようなキラキラした世界でしょうか。金箔で覆われた煌びやかな場所のことでしょうか。
 そうではありません。神の国とは、唯一絶対、全知全能の力強い神がともにあること、その状態、その現実なのです。
 ある牧師が、とても親しくしている年配のクリスチャンの女性の病床で、こんな質問をしたそうです。
「○○さん。もし、これから召されて、行った場所が地獄だったらどうしますか」するとその女性はこう答えたそうです。
「どんなに地獄に見える場所だったとしても、イエス様が一緒ならそこは天国です」
 そうです。イエス様が、弟子たちに「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たち」と言われた、その信仰とは、その確信だったのです。神であるイエス様が一緒ならば、どんな大波が押し寄せても、どんな嵐が来ても、どんな氷河期が訪れても、どんな病気が流行っても平気です。イエス様が一緒ならいつも天国だからです。これは気休めではありません。水浸しの舟でもイエス様が一緒ならば天国なのです。
 そして、もし、怖くなっても大丈夫です。イエス様助けてくださいと叫べば、その祈りに答えてくださいます。今日の箇所で、弟子たちは、イエス様に叱られながらも、おぼれずに済み、かえってイエス様がどんな方か経験をもって知ることができました。イエス様は、私たちの弱さをご存じです。叱られてもイエス様なら良いじゃないですか。
弟子たちは、この経験を通してこんな思いが湧いてきました。それが、27節です。
 
結論
「人々は驚いてこう言った。『風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。』」
 弟子たちは、ここで「イエス様ってどういう方なのだろう」という思いに至ったのです。これは、私たちが信仰生活を歩むうえで、大変重要な問いです。イエス様がどんなお方か。この探求こそ、私たちが主を愛する者、そして隣人を愛する者へと変えられるための大きなステップだからです。イエス様を知ろうとすればするほど、私たちの心が清くされていきます。主を知ることは知恵のはじめ、知識のはじめです。主を尋ね求め、主がどういう方かを知っていく人生。それは、主について行く者として、最も大切な喜びであり生きがいだからです。イエス様がどんな方かを知り続けるところに生きる喜びが溢れます。
 事実、この弟子たちは今日の箇所で、水浸しの舟で眠るほどに疲れ切っていた人としてのイエス様だけでなく、全知全能の神であるイエス様を知りました。そして、この経験を通して、彼らはイエスとはどういう方なのかを探求する旅が始まったのです。それが、16章にいくと、あのペテロの信仰告白に繋がっていきます。「あなたは生ける神の御子キリストです。」
 そこでイエス様は大変喜ばれ、ペテロが代表して告白したその信仰の上に、ご自分の教会を建てると約束されたのでした。
 今、私たちの社会は新型コロナウィルスのニュースで持ち切りです。今やトイレットペーパーやティッシュペーパーも買占めが始まっていて、社会が混迷に向かっているのが伝わってきています。北海道知事も緊急事態宣言を出しました。
 では、今、このとき教会はどうすべきでしょうか。クリスチャンはどうすごすべきでしょうか。それは、今日、イエス様がおっしゃったことば。「なぜこわがるのか」ここにすべてがあるのではないでしょうか。
弟子たちはイエス様がいっしょにいても、舟に水が入るくらい恐ろしい現実に出会いました。そんなことは、イエス様は百も承知です。そうです。主を信じる私たちは、この世から、また群衆から取り分けられてもこの地上にある限り、この世の患いや苦しみをともに負うことは避けられないのです。では、どうして怖がらずに平安でいられるのか。それは、こういう時こそ、主に救われた者としてイエス様という方がどんな方か思い巡らすのです。すると、そこに、あの大波も嵐さえも言葉だけで鎮めることのできる全能の主があなたの前に立っていることに気づかされるのです。そうだった、この方が私の主であるという平安が与えられるのです。今だけでない、あのときだって、このときだって、主が私と、あなたといつもともにいて、様々な困難に打ち勝って来たではないか。
 今日、私たちはイエス様が先に乗り込んだ舟に乗り込んできました。それが教会です。その教会という舟には、仲間がいます。あなたはこわがっていなくても、他の誰かは怖がっているかも知れません。そのとき、どうすべきでしょうか。イエス様の代わりに「なぜこわがるのか。信仰の薄い人たち」と言うでしょうか。それは間違いです。その言葉を言った途端に、舟から下りなければならないでしょう。なぜなら、その言葉は、主のことばだからです。自分を主の位置に置こうとするのはサタンの仕事です。大切なことは、一緒にイエス様とはどんな方なのか考え、思い巡らし、そこにおられる主をともに仰ぎ、ともに祈り、また叫び、みことばをいただき、励ましあうことではないでしょうか。
 そこに嵐がやんだ静かな湖が待っているからです。
 
祈り