のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「確かにあなたは神の子です」

聖書箇所 マタイの福音書14章22節~36節

 

 

 イエス様は前回のパンと魚の奇蹟から、ご自分がヨハネとは違う者であることをあらためて示しました。ヨハネも大変立派な人でした。暴力によらず、神に誠実に仕えて生活をし、神の国の福音を人々に教える預言者であり教師でした。最後も何の抵抗もしないで首を刎ねられました。でもイエス様は、そのヨハネとは働きが一見似ていますが、実はそうではありません。イエス様は、ご自分こそ神の御子であることを、この奇蹟を通して明らかにしたのです。

 弟子に明かされた、イエス様が神の子である事実は弟子にとって、また現代を生きる私たちにとって、どういう意味があるのでしょうか。今朝は、その奇蹟のうちの2つ目。湖の上を歩くイエス様のところから、みことばに聞いてまいりましょう。

 

1.嵐の湖で

 パンの奇蹟のあと、群衆たちはイエス様の不思議な力を見て、自分たちの王様にしようとむりやり連れて行こうとしたことがヨハネ福音書の並行箇所にあります。確かにイエス様は真の王様ですが、人々の期待しているような政治的な王様ではありません。また、真の王であることを自ら宣言するときは、群衆の判断ではなく、主権者であるご自分の権威の中で行います。だから、イエス様は弟子たちには先に舟で向こう岸へ行くように命じて、ご自分は山にのぼって天のお父様と交わる時を設けました。23節にこう書かれています。

「群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。」

 

 前回のパンの奇蹟の時も夕方でしたが、きっとまだ明るい時間帯の夕方で日没までには時間があったのでしょう。しかし、このときは夕暮れ時であったでしょう。イエス様はひとりで山に登って、そこで祈る時間を取り分けて持ちました。このイエス様の姿は現代の弟子である私たちにとっても大切なことではないでしょうか。一日のうちに朝とか夜に神様と交わる時をもつ。神の御子であるイエス様ですら、この時間を大切にしているのですから、イエス様を信じて神の子どもとされた私たちならば、なおさら重要な時間です。

 この神様との祈りの時間は今では聖書も読んで祈るでしょう。今は聖書を通して神様は語っていますから、祈りとみことばはセットです。ここに信仰者の成長の秘訣があります。また弟子として、主に献身する者としての召しのスタートラインがあります。先日行われたケズイックコンベンションの講師鎌野先生も仰っていました。聖書を読まないと召しはないと。それは、聖書が完成している現代、神様はみことばである聖書をとおして召しのことばを与え、召しの確信を与えるからだということでした。

 

 ですからイエス様の弟子として歩もうとする者は、この神様との時間を聖別して取り分けることが重要です。特に、その弟子の集まりである教会としては、主日礼拝が何よりも重要です。この主日礼拝を通して主の群れとしての弟子集団が訓練されます。

 

 さあ、その弟子たちはどうしたでしょうか。ここではあえて彼らだけで舟に乗り込んで沖へ出ました。このことをさせたのはイエス様です。どうして、いっしょに祈ろうとせず、またはちょっと待っているように言わず、この夕暮れ時に舟に乗り込ませたのでしょうか。それは、これから起こる出来事を通して、彼らを主の弟子として大切なことを経験させるためだったからです。弟子たちはイエス様から言われた通りに、彼らだけで舟に乗って出発しました。

 すると、舟が岸からもう何キロメートルも離れてしまっていたところで、山から吹き降ろす風が強くて波が起きて、そこから前に進むことができなくなりました。

 

 以前にもお話しましたが、弟子たちの大半はこのガリラヤ湖の漁師です。このような嵐にはある程度慣れていたかも知れません。しかし、この時間帯に舟を出すことはプロの漁師ならば避けるのではないでしょうか。でも、イエス様が先に行くように言われたので、そのことばのとおりに進んでいったのです。それなのに、このような問題が起きたのです。

 

 前回の湖での奇蹟を覚えているでしょうか。あのときも、イエス様の言うとおりにして嵐に遭い、結局は寝ていたイエス様を起こして嵐を静めてもらいました。でも、今回はイエス様が一緒ではありません。ここが、前回と大きく異なっている点です。

 イエス様が一緒にいない状況の弟子たち。もう彼らには漁師のプロだというプライドは何にも役に立たないことが分かっていたでしょう。だからこそ、イエス様が不在と言う状況に益々不安を覚えるのではないでしょうか。前回は「なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちだ」と言われながらも、嵐を無事に通過できました。ということは、やはりここでも求められているのは、信仰ではないでしょうか。

 

 それはイエス様をどのような方として信頼し従うかが大切だということではないでしょうか。それは、主イエスと言うお方が、神の子である。つまり神である。信仰の対象であるということです。素晴らしい教えを教えてくれる素晴らしい先生というだけでなく、まず弟子として抑えておかなければならない事実です。

 当時の人々はメシアとは政治的リーダーだと思っていました。だからパンの奇蹟をしたイエス様の奇蹟の業、その力を、預言者エリシャのようなお方イエスという人の特技くらいのレベルでしか見えていなかった。だから、自分たちの目的達成のために利用しようとした。でもイエス様はそれを断って、さらに神でなければできない業を行い、彼ら弟子たちにはわかってほしい。そう願ったのではないでしょうか。

 

 イエス様はイデオロギーを超えたお方です。人間の主義主張の中ではなくて、それさえも覆うほどに全知全能の力を持つ神です。ですから、私たちの小さな哲学の物差しで測ることができないということを抑えたいと思います。確かに神が人間となられました。しかし、その歩みには、私たちの理解を超えた神としてのお姿があります。永遠の中に、その無限の御国におられ、完全な愛であると同時に完全な義なるお方。そして罪と悪を嫌う聖なる神として、有限の私たちに関わってくださるのです。

 

 つまり、その歩みを倣う前に神として、信仰の対象として受け入れなければ、弟子として行き詰ります。このような嵐のとき。自分の経験や知恵や技能ではどうすることもできない事態が起こったときに、死に直面したときに、いったい主イエスの弟子たちはどうすれば良いのでしょうか。それは、このイエス様に信頼し祈ることではないでしょうか。それが前回の嵐の湖で既に学んだことです。

 

2.イエスとともに

 しかし、前回は、イエス様が舟の中に一緒にいましが、今回はいません。しかも、そうこうしているうちに夜中の3時になってしまいました。もう夕方から何時間経ったのでしょう。夕方が6時くらいだったとすると、夜中の3時まで9時間も彼らは舟の中で漕ぎあぐねいていたということになります。いくら漁師だとしてもふらふらだったでしょう。そこにイエス様が来られます。25節を読みましょう。

「すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた」

 

 弟子たちみんなびっくりです。おそらく舟に乗らなかったイエス様に次に会えるのは、向こう岸についてからか、または波に戻されて出発点に着いてからでしょう。いずれにしても上陸しないと会えないと思っていたはずです。そこに、まさか湖の上を歩いて来るなんて。しかも波が荒れている中をどのように歩いたのでしょうか。きっと、何にも影響を受けないで、濡れることもなく来られたのだと思います。

 

 というのも、神にとって、天候がその御業の妨げになることはありえないからです。むしろ、前回のときのようにみことばだけで風も波も静めることができるのです。しかし、このときの弟子にはもう分析している余裕がなかったでしょう。9時間へとへとで、そこに暗やみから湖の上を歩いて来るイエス様の姿。これは幽霊だと言っておびえて当たり前ではないでしょうか。

 

 そこでイエス様は怯え切っている弟子たちに話しかけます。27節。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」

 よく読むと「イエスはすぐに話しかけ」たと書いてあります。主は神として、彼らの叫びに対してすぐに応えてくださるお方です。同じように、私たちの祈りにもいつもすぐに対応してくださる優しいお方です。

 しかも、この三つの短い言葉での励ましは、弟子ペテロの信仰の訓練の次の行動を生み出します。

 

 このみことばに2つの動詞があります。「しっかりしなさい」と「恐れることはない」です。それが弟子たちを奮い立たせる命令のことばです。まず「しっかりしなさい」とは、別な訳では「安心しなさい」または「勇気を出しなさい」となっています。つまり、「あなたがたは安心して良いのだ。勇気が出るのだ」という安心を保障する意味です。なぜ、この場面で勇気を出すことができるのか。また、どうして安心できるのか。それは、この二つの動詞に挟まっている「わたしだ」という言葉に、そのようにできる、なれる理由があるからです。

 

 この「わたしだ」という言葉は日本語で見ると、単にイエス様が幽霊ではなくて私だよと言っているだけの言葉に見えます。確かに弟子たちにとって慕いまつる先生、イエス様御自身だという自己紹介です。それだけでも弟子たちを安心させるかも知れません。でもそれだけではありません。このことばのもとの意味は「私は私である」と直訳できることばです。ギリシャ語では「エゴ―エイミー」と発音して、これは本来「エイミー」だけでも私ですという意味なのです。ギリシャ語ではbe動詞に既に主語が入っているからです。でもそこにさらに「エゴー」という「私は」ということばを重ねているのは、あまりユダヤ人が発音しない言葉になるのです。なぜならば、それは主なる神ヤハウェの語源となった、出エジプト記モーセが聞いた「わたしはある」という、その神の名と同じだからです。

 

 この神の名も、また神ということばすら、当時のユダヤ人は口にすることを避けました。それは主の名をみだりに唱えてはならないという十戒に抵触するからです。だから恐れ多い言葉なのです。その言葉を語れるのは主なる神御自身か、神を冒涜する者かのどちらかです。

 イエス様はどちらですか。神を冒涜しているのでしょうか。それとも神ご自身なのでしょうか。この福音書を書いたマタイは、これを読むユダヤ人に配慮して、この福音書の中で「神」ということばを使うことを極力控えていると言われています。それは、これまでも「神の国」と言うべきところを「天の御国」と言っているようにです。

 それだからこそ、その配慮があったとしたら尚更、ここで「エゴーエイミー」とイエス様が仰ったことを明言していることには、大きな意味があると思います。やはり、主イエスこそ旧約聖書イスラエルの民を選び導いてきた、主なる神ヤハウェそのお方なのだ。その意味において、この「わたしだ」ということばは、今、闇夜、嵐で恐れている弟子たちに、真の安心を与え勇気を出させる理由となるのです。

 

結び 

 その主のことばに弟子の筆頭ペテロが行動します。28節。

「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」

 さすがせっかちなペテロ。でも彼の存在が現代に至るまで、キリストに従おうとしている者たちに勇気を与えています。そういうせっかちな男が使徒のリーダーとして、これからイエス様が十字架刑で殺され、三日目によみがえり天に帰られてから、このときの出来事が用いられて、主の教会が、そこに集う弟子たちが、どのようにこの世に置かれながら、そこで起こる困難を乗り越えていくのか。

 

 信仰生活は決して平たんではないということ。主に従うとは、主に従うことで経験する多くの困難が起こるということです。でも、私たちの主イエスこそ真の神。あのイスラエルの民をエジプトから贖い出し、目前に迫る葦の海を真っ二つに分け、堅固なあのエリコの城壁を崩し、これは主の戦いだと宣言しダビデに巨人ゴリヤテを打ち破らせた主なる神。そのお方だった。

 

 ペテロはその主を見てそのみことばのとおりに踏み出したときに、何と彼も湖の上を歩くことができました。それは、まさに私たちの信仰の歩みと同じです。主に信頼し、主のみことばに聴こうとしながら一歩を踏み出す。これが信仰生活です。それはまさに湖の上を歩くような、奇蹟の連続です。このような罪人の私が、神の子どもとされて、この世と言う海原を歩くことは、主の支えなしにはあり得ない奇蹟です。

 だから、主から目が離れ、風を見てしまったときにペテロは沈んでおぼれたのです。しかし、その失敗も、そのおぼれてしまうことも信仰生活です。主から目を離したら、問題の中で沈んでいくのです。でも、もしおぼれても、ペテロのように「主よ。助けてください」と素直に主を呼べば良いのです。なぜならば、主イエスはあなたの神だからです。

その繰り返しです。天の御国へ帰るまで、その連続です。それが私たち主の弟子の信仰生活、聖化の歩みなのです。ペテロは32節にある様に、イエス様と一緒に舟に乗り込んだ時に風がやんだことを経験しました。そして他の弟子たちと一緒に、「イエスを拝んで」つまり礼拝したのです。それが教会の姿です。しかも「確かにあなたは神の子です」という信仰告白をしながらです。ペテロはこの経験が、あの16章の「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白の基礎になっていき、更にその約2000年後、昨年採択された白石教会の信仰告白まで繋がっているのです。

 

この二つの奇蹟を経験した弟子たちのように、私たちも今週、様々な経済的な不安や、全く太刀打ちできない嵐を通らされるかも知れません。でも恐れることはありません。それは私たちが聖なる者となるために通らされる訓練だからです。しかも愛する主が、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と励ましてくださいます。「わたしこそ、あの紅海を真っ二つに分けて渇いた道をつくった主なる神ヤハウェなのだ」と。

だから安心して良いのです。その主から目を離さないで、今週も信仰の一歩を踏み出してまいりましょう。その一歩とは、主イエスを信じて洗礼を受けることかもしれない。または主イエスに対して狭い捉え方をしていたが神として崇める一歩かも知れない。または主に生涯をささげていく一歩かも知れません。いずれにしても大切なことは、主から目を離さないで、歩もうとするチャレンジを喜んで受け取っていくことです。そこで経験する喜びも、また失敗もすべては益とされていきます。

そして来週も、ともに主を礼拝するために、この教会と言う舟に乗り込んで一緒に告白しようはありませんか。「確かにあなたは神の子です」と。