のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2020年7月5日 礼拝説教

f:id:kinokunizaka66:20200705043326j:image

説教題 「小さき者として」
聖書箇所 マタイの福音書10章40節~11章1節


 マタイ10章は、選ばれた弟子たちに対するイエス様の教えとして、これまで5回に分けて説教してまいりました。今日はその10章としては6回目で、これが最後のまとめとなります。
 この福音書を書いたマタイも、ここで一つ区切りをつけて、イエス様がこの10章で仰って来たことを短い言葉で表現しています。11章1節をご覧ください。「イエスはこのように十二弟子に注意を与え」とあります。
 マタイはその十二弟子の一人として、この10章で語られたイエス様の教えが自分たちに対する「注意」なのだと理解したということです。
 それで、今日、最後のみことばは、これまでにないくらい励ましに満ちたお言葉です。前々回の31節の「あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です」という言葉がイエス様から私たちへのラブコールならば、今日の箇所はエール「応援」かも知れません。これまでの「迫害がある。でも恐れるな。神を恐れよ。十字架を負ってついて来ない者は、わたしにふさわしくない」と、イエス様について行く覚悟を求めておられながら、イエス様は、最後にエールを贈られる、本当に優しいお方。どんな苦難があっても、やっぱりイエス様と一緒がいい。どんなに辛いことがあったとしても、イエス様から離れたくない。そう思わされる励ましを与えてくださるのです。
 
1.弟子とイエス様は一つ
 40節、41節を読みましょう。
「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。預言者預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。」
 ここに来て、イエス様はもはや弟子たちに、ああしなさい、こうしなさいとは仰いません。主についていく覚悟を決めた者には、あとはその存在だけで良いと言ってくださっているからです。あとは、あなたがたを受け入れる人の問題。でも、あなたがたに出会う人が、あなたがたを受け入れるならば、その受け入れた人はイエス様を受け入れることになり、イエス様を受け入れるということは、天のお父様を受け入れること。それは、イエス様と天のお父様とは「一つ」だからです。その「一つ」ということを、イエス様と私たち教会も同じ関係だと言ってくださっているのです。イエス様と教会は一心同体、イエス様とクリスチャンは一心同体です。
 だから、かつてクリスチャンたちを迫害していたパウロに、復活のイエス様はこのように言われました。
「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」
 当時サウロと呼ばれていたパウロが迫害していたのはクリスチャンたち、教会であって、イエス様ご自身ではありませんでした。でも、イエス様にすれば、それは「わたし」なのです。それは、教会がイエス様と一心同体だからです。教会がキリストのからだであると言われるのはそのためです。
 イエス様を信じる人は弟子と呼ばれますが、それは師匠を離れて存在するのではありません。また、弟子がそれぞればらばらに一人で行動するのでもありません。イエス様を信じてクリスチャンになるということは、このイエス様のからだと一つにされ、同じ一つにされた仲間と共に教会を形成するのです。これは、別名、神の家族とも言いますので互いを兄弟姉妹と呼び合います。そこでともに主を礼拝し、パンを裂き、大勢いても「一つ」であることを確認するのです。今日もそのことを聖餐式で確認します。イエス様がいのちを賭けて与えてくださった、このキリストのからだである教会の恵みを味わいます。それは、まずキリストと私たちが一体であることを確認することです。
ですから、教会に良くしてくれる人がいたら、その人は神様の祝福を受けるのです。それはイエス様に良くしていることと同じだからです。しかも、あなたが預言者、義人であるならば、あなたが受けるべき預言者、義人としての祝福がその人にも及ぶというのです。つまり、あなたがクリスチャンであるならば、あなたを受け入れてくれる人にもクリスチャンと同じ祝福が及ぶのです。
 これは、本当に素晴らしいことです。これは私たちが祝福を受けるという話ではないのです。私たちの存在こそが周囲に祝福を与えるのだという福音の広がり、からし種一つほどの信仰が起こす神の国の拡大がそこにあるということです。
 からだが弱くて、また病気でも、たとえ悪霊に憑かれていたとしても、主についていくならば、その存在がもうすでに主イエス様ご自身を表しているんだよと言ってくださっているのです。それは、キリストを信じるあなたとイエス様が一体とされている。あなたという存在を通してキリストが表わされているのです。
 今日の箇所にも繰り返し使われている言葉があります。それは「受け入れる」という言葉です。それはもはや私たちが行うことではなく、私たちに出会う人たちのことを言っています。そこにあるのは、ただ弟子とされたあなたの存在だけです。その存在が人に救いをもたらす。その人があなたを受け入れることがイエス様を受け入れ、それは神を受け入れるのだということです。クリスチャン一人ひとりが野の花のように、小鳥のように、そこで咲き、さえずることで主の祝福が出会う人たちに及ぶ。なんて嬉しいことではないでしょうか。
 
2.小さい者による宣教
 イエス様は、そこから宣教がはじまるんだよと仰っているのです。42節を読みましょう。
「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」
 ここでイエス様は「あなたを受け入れる者」とは具体的にどんな者かを語られます。それは「わたしの弟子だというので…水一杯でも飲ませる」者ということです。そういう人は、「決して報いに漏れることはありません」。しかも、「決して」だけでなく、「まことにあなたがたに告げます」と、それは絶対に、クリスチャンに親切にする人は必ずその報いがあると言うのです。
 ですから、イエス様についていくこと。信じて、愛してクリスチャンになることは、迫害のような危険、また様々な心配事が起こるかも知れないけど、それ以上に、あなた自身が用いられて、更に神様の救いが広がって、神様の恵みを受ける人が起こされることなのです。
 それでこの42節で今日、注目したいのが「この小さい者たち」という言葉です。というのも、「わたしの弟子だというので」とイエス様の弟子だということは、本来は大変素晴らしい祝福です。それは小さい者というよりも大きい者と言ってもよい偉大な立場です。それは言い換えると、天の神様の子どもにされることであり、御子イエス様と一緒に新しい神の国を治めるという、神の国の相続人です。神の王国の王子であり王女でもあるということです。
 でも、イエス様の仰る表現はむしろ、その立場を「小さい者」だというのです。おそらく、当時、このイエス様のみことばを聴いていた12弟子たちには、この意味がわからなかったと思います。なぜならば、彼らはイエス様をメシアとして信じていたのは、当時イスラエルを支配していたローマ帝国を追い出して、新しい王国を建国することが目的だったからです。ですから、イエス様の弟子ということは、新しい王様の側近中の側近、だれが右大臣か左大臣かという争いが起こるほど、小さい者というよりも、大きい者と言ってもらいたかったはずです。しかし、イエス様は、あえて「低く、小さく」と言われるのです。前々回の雀だって、あなたがたは雀よりも価値があると言われてもピンとこないのではないでしょうか。もっと立派な大鷲とか、孔雀よりも価値があると言われた方が褒められている気になります。
 でも、ここが、主イエス様がくださる福音で大事なところなのです。それは、初めにも言いました、山上の教えから脈々と流れる神の知恵としての祝福です。この言葉に憤慨する人もいるでしょう。あなたは小さい者だ。低い者だ。雀よりも価値があるだって。馬鹿にしているのか。
 ところが、イエス様はそこにアーメンと言ってついてくることを願っておられるのです。私は小さい者、雀よりも価値がない者です。それが、これまで、イエス様に癒された人たちの姿でした。会堂管理者、長血を患った女性、悪霊に憑かれた人など。彼らは、自らを低くして、へりくだってイエス様を受け入れたことで天のお父様をも受け入れたのです。そして、今度は、彼らは、もっと多くの人の前で生きる。そのとき出会う人たちが、彼らに水一杯でも飲ませるならば、その人々に主の救いがもたらされていく。イエス様が仰った「まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません」とは、そのくらい大きな恵みがあなたを通して、更に多くの人にもたらされるのだということです。
 だから、へりくだって「小さい者」のひとりとしてただ主についていく歩み。自分を低くして、救われた喜びをもってイエス様についていく。そこには、主への感謝があふれ出ます。イエス様に救われた者にとって、主への感謝を忘れないことが何よりも大切です。

 

結び
 主イエス様は「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れる」と言ってくださっている。それは、あなたに水一杯を飲ませてくれる人はイエス様に飲ませているということです。あの十字架への道、ドロローサの道を鞭打たれ、苦しみと痛みと渇きに耐えながら十字架を背負い、歩まれる主イエスに、また「わたしは渇く」と十字架の上で言われる主イエスに、冷たい水を差しだすことなのです。この42節で言われている「水」はもともとの言葉では水ではありません。「冷たいもの」という意味のことばです。十字架の上の主イエスに、その喉を潤す冷たいものを捧げていくことになる。それは主イエスに最良のものをささげること。つまり礼拝をささげることになるのだということです。
そのようにあなたに出会う人たちは、あなたを通して、主を礼拝する者になるのです。
 あなたが置かれている家庭や、職場や、学校、町内。そこであなたを主の弟子だからと知って、声をかけてくれる人がいるかも知れません。採れた野菜をくださる人がいるかも知れない。あなたがクリスチャンだと知って、色々と聖書のことを質問してくるかも知れない。その時、あなたを通してその方々はイエス様に会っているのです。
 私たちは、何か大きな働きができないかも知れません。でも私たちは、主の弟子という「小さい者」の一人として、主を愛し、この世に置かれ、存在する。それが何よりの宣教なのです。なぜならば、事実、宣教そのものは主が先立って進まれるからです。その主について行けばよいからです。最後11章1節。
「イエスはこのように十二弟子に注意を与え、それを終えられると、彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため、そこを立ち去られた。」
 ここでイエス様は、弟子たちを、それぞれ派遣するのかというと、そうでなく、何とイエス様ご自身が「彼らの町々で教えたり宣べ伝えたりするため」とあります。イエス様は何て優しいお方なのでしょう。なんて暖かいお方なのでしょう。私たちに先だって行かれる、そのお方が、私たちの主なのです。

祈り