のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「幸福への道」 聖書箇所 マタイの福音書5章1~12節

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"1.その群衆を見て、イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。
2.そこでイエスは口を開き、彼らに教え始められた。
3.「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
4.悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。
5.柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。
6.義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
7.あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるからです。
8.心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。
9.平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
10.義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
11.わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
12.喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。"
マタイの福音書 5章1~12節

 

序論
 まず初めに皆さんにお詫びをいたします。先週の説教で、私が本当はやりたくないのに、牧師をしていると言いました。それがこの教会の牧師をやりたくないというふうに聴こえたとしたなら、お詫びします。でも私はこの教会だけでなく、牧師という仕事に相応しいとは思っていないのは本当です。つまり人間的な感覚だけで言うならやりたくないです。このように人の前に立つことや、神様のお話をすることは、もともとの私の性格では絶対に無理です。苦手なことです。
しかし、それ以上に、イエス様の私に対する愛が素晴らしすぎて、それに感動して涙が出てしまって、先週、少し話を飛ばしました。もうこうなったら、皆さんの善意に甘えて、語りきれなかった部分を聖霊が補ってくださることを願っていました。その聖霊に励まされ、皆さんの祈りがあって、今日もまた、いつものように、ここに立たされているのです。その中で喜びが与えられて、やる気があるとかないという問題ではなく、ただ、このように神様の働きに使っていただいていることに感謝しています。
 神様はそういう私をいつも励ましてくださいます。聖書のことばを通して、このような尻込みしてしまう私を立たせてくださいます。モーセは40歳のときは、やる気満々でしたが、それは神のタイミングではありませんでした。神のタイミングは、モーセが80歳の老人になり、自信を失っていたときでした。ギデオンという人は敵を恐れて隠れて麦を打っているときに神様に呼ばれました。預言者エレミヤは若くて、経験が全くない、不安で一杯のときに、神様に召されました。
 皆さんはやる気満々でしょうか。それとも不安や恐れや、自分へのがっかり感でいっぱいでしょうか。
 神様は、不安でやる気のなかった人たちにみことばを与え、また神の力、神の霊、神の賜物を与えて用いられました。私も、そういう意味で、神様なしにはここに立つことはできません。今日も、ただ神様の御霊に助けられて、みことばを取り次いでいきたいと思います。
 前回までは、イエス様の宣教の開始のところで、名もなきガリラヤの漁師たちを弟子として選んだことを学びました。そして、イエス様は、教え、宣べ伝え、癒しによって宣教なさったことを見てきました。しかし今日の箇所からは、暫くイエス様の直接的な教えから学びます。特に今日の5章から7章までは「山上の教え」と呼ばれる有名な教えになります。その中でも、今日の箇所は有名です。「~は幸いです」という言葉の繰り返しで、詩篇のような歌のようでもあります。
 この教えは8つの幸せを告げています。この幸せとは何なのでしょう。イエス様が山の上で語る、この幸せは私たちにどう関係しているのでしょうか。

 

1. 幸いとは神の祝福
 1節を読みます。
「この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。」
 まず、ここで、このイエス様の教えが誰に対して語られたのかが明らかにされます。この群衆とは、先週読んだ4:25にある群衆です。それは先週注目したガリラヤ地方だけでなく、パレスチナ各地から集まってきた大勢の群衆でした。その人たちは、イエス様が病気や痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかんの人、中風の人などを癒したことを聞いて集まって来たことがわかります。
 そういう彼らを見て、イエス様は山に登ったとあります。どこの山かは定かではありませんが、イエス様はそこに腰をおろされ、そこに弟子たちがみもとに来ました。そこで「イエスは口を開き」と書いてあります。
 ここに、この山上の教えが弟子を対象にした教えであることがわかります。もちろん周囲にいる群衆も聞いて良いのですが、この話の中心がイエス様の弟子に対してであることをまず受け止めていないと、このあとの教え全てが、なかなか理解することが難しくなります。
 それで、今日の箇所の整理を先にします。中心的な内容は3節から10節となります。それは、11節と12節は、10節の説明になるからです。そして、最初の3節と10節には、幸いな理由として、どちらも「天の御国はその人のものだから」と同じことを述べています。しかも、原語で読むと、3節と10節の理由が現在形で、それに挟まれている4節から9節までの理由が未来形だからです。
 ですから、4節から9節までの幸いな人にこれから起ることを、天の御国で挟む。つまり、ここで言いたいことは、今、天の御国に入っていることが、イエス様の弟子として本当の祝福だということです。あの世の死んだあとのお話ではなく、本当の幸せは、今から始まってずっと永遠に続いていく祝福だ。そう考えると、最後の「義のために迫害」されたとしても幸いだという意味が見えて来ます。12節の「喜びおどりなさい」という意味がわかってきます。最終的には、天国の喜びが、この地上にあるときから始まっている現実なんだという感謝に満たされるのです。
 それをこの8つの「幸い」にイエス様は集約して語られたのです。 
エス様はガリラヤ湖に吹き降ろす風を感じながら、口を開いて、こう言われました。3節。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
原文は「幸いだ」で始まっています。原語の意味を汲んで言うなら「何て祝福なんだ」という強い意味が込められているのです。しかもそれは最上級の幸せであり、うらやむべき立場にいる人を紹介するときに用いられることばです。うらやましいくらいに幸せだねということです。そのあとに「貧しい人」、「心の」と続きます。
 「何て祝福なんだ。うらやましい。心の貧しい人は」ということです。貧しい心がどうしてうらやましいのでしょうか。貧しい心って、どんな心でしょうか。
   私たちが日ごろ使っている貧しい心というのは、狭い心とか、小さな喜びも感謝できない、へそまがりのような嫉妬心が先立ってしまう人のことを指します。ではイエス様がおっしゃっている貧しい人とはどんな人のことでしょう。
パウロはイエス様についてこのように言っています。
「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。」
 ここでパウロが言いたいことは皆さんもご存知でしょう。文字どおりイエス様がお金持ちだったのに貧乏になったということではなく、神様だったのに、人間の姿をとって低くなられたということです。
 つまり、ここでイエス様が言われている「心の貧しい者」というのは、へりくだっている者という意味を含んでいるということがわかります。ほかにも聖書のいたるところに、貧しいということを「弱い者」とか「苦しんでいる者」という意味でも用いています。
また新約聖書が書かれたギリシャ語には「貧しい」という言葉は二種類あります。そのうち、ここでイエス様が用いた「貧しい」プトーコスは、新約聖書に34回出てきます。もう一つの「貧しい」ペネースは2回しか使われていません。ペネースは一般的な貧乏のことです。働いても生活が大変くらいの意味です。しかし、ここで使われている「貧しい」プトーコスのもともとの意味は、「縮こまる、うずくまる」プトーソーということです。そこから身動きが取れなくなっているほど、単に生活が苦しいという域を超えているほどの貧しさだという意味です。貧しさの極みということです。バークレーという神学者によると、「餓死する危険が内在している情けない貧乏」だということです。
 そこに「心の」がつきますから、神に対する極限状態の飢え渇きがあるということ。神の言葉に対する求めが半端でない人だということです。それは同時に、自分には何も良いものがない。自分で自分を褒めることもできない。自分が誰かを幸せにすることもできない、もがくこともできない、うずくまるしかない信仰者のことを指していると言えます。それが自信を失ったあのモーセだったり、ギデオンだったりするわけです。そして、ここに召されたガリラヤ湖の漁師たちだったりするわけです。
しかし、そのように自分にがっかりしている人ほど祝福だとイエス様は言っているのです。
 そうすると、バプテスマのヨハネもイエス様も、「悔い改めなさい」と開口一番で語った意味が見えてきます。それは自分の罪に向き合わされ、どうしようもない状態にあることに気づかされる。そこが神様の祝福の入り口だということです。その天の御国に入っていることを喜び、この地上では寄留者でありながら、その天の御国を、その弟子としての存在を通して表していく。これが、幸いな者であるキリストの弟子に与えられている姿だということです。

 

2.イエスの教えは心の中まで問われる
 ですから、この3節の「心の貧しい者」がこのあとの悲しむ者、柔和な者、義に飢え渇く者、憐れみ深い者、心のきよい者、平和をつくる者、義のために迫害されている者に繋がっていることがわかってきます。
 罪を悔い改め、自分のぼろぼろさを知った人は福音を信じてイエス様に繋がっていきます。それが天の御国へ入ることであり、すでにその祝福に与っているということです。その歩みの中での実践で、与えられること。それがこのあとの7つの幸いです。しかも、どれも表面的にというよりは、やはり「心が」つまり内面が問われる内容です。つまり心の貧しい者という心において悲しみ、柔和、義への飢え渇き、他者への憐れみ、心のきよさ、平和つまり平安をまず自分のうちにつくること、それが真の義であるイエス様に従うことであり、そのために迫害を受けるという弟子の道だということです。
 悲しむことは、表面的にやればお芝居です。だから心が問われていることです。この悲しみは、イエス様を信じてともに歩むときに経験する悲しみです。信仰者だからと言っていつでも笑っているわけではありません。むしろ、イエス様が「悲しみの人で病を知っていた」お方ですから、その悲しみをともに味わうことこそ、弟子としての経験です。回りから理解されず、家族の中で孤立するかも知れません。ここで言っている悲しみは大事な人を亡くすとか、罪を悔いて悲しむよりもイエス様の弟子として、御国を受け継ぐ者として味わう悲しみです。しかし、慰めが与えられる幸せがあるというのです。それは、日々、みことばを通して、また教会の仲間を通して聖霊によっていただく慰めです。また新しい天と地が完成したときに、主にその涙をすっかり拭いとっていただけるという、主による直接的な慰めに繋がっていきます。
 柔和なものとは、ガラテヤ書の御霊の実の一つでもありますが、ここは別な訳では「へりくだる者」となっていました。それは「心の貧しい者」と同義語だということです。それで天の御国を受け継ぐのかと思えば、そうでなく違う角度で、「地を相続する」と言われています。これはイスラエル的な視点では、そのパレスチナの地ということになります。つまり約束の地を受け継ぐということです。それは、天の御国が将来的にこの地上に、新しい地として建てられることを意味していると思われます。
 義に飢え渇くとは何でしょう。義とは、神様の正しさやさばきなども含むことばです。それは普遍的な基準という意味も持ちます。この世は様々な価値観がいつも変化していて、その基準は常に移り変わります。しかし、主に従う者は、世に置かれていますが、世の基準で動かされたり、世の変化に翻弄されることなく、神の基準によって見て、聴いて、考えて生活します。この世が不安定であればあるほど、変わらない神の基準、神のことばに渇き、慕うようになります。それが弟子の姿です。だから、その渇きは、そのように生きるなら必ず満たされる。それが弟子としての祝福、幸いなのです。
 憐れみ深い者とはだれでしょうか。それは他ならぬイエス様ご自身です。今日のこの8つの幸いな者とは、実はイエス様ご自身のことであり、語られたイエス様ご自身が、そのご自分が語ったとおりにこれから歩まれることの宣言でもあります。
 この憐れむことも私たちの内面に語られていると思います。誰かを気遣うときに、本当にこの憐れみをもっているか。イエス様の憐みは、内臓をズタズタにするほどの心で、その人の身になって、その人の痛みや悲しみを共有する憐れみです。私は特に、だれかをかわいそうに思うときに、どれだけ心からかわいそうに思っているか疑わしいです。かなりの割合で上から目線的な「かわいそうに」という思いが多いのではないかと思うのです。あとは、相手の悲しみを共有していたら身が持たないという計算が働くかも知れません。だから、そう考えると私にはできないことだと思わされます。でも、すぐに人の心により沿い、自分もダメージを受けてボロボロになる人もいらっしゃると思います。もしそういう人を見たら、もっと力を抜けば良いのにとか思わないでください。なぜなら、それはイエス様の言われることを自然体で実践しているのですから。しかも、そのような誰かの心に寄り添える人は、私のような計算してしまう人が味わえない、神様の本当の憐れみを受けるとイエス様はおっしゃいます。ここも未来形が使われていて、天の御国を受け継ぐ者として、与えられる祝福です。それがうらやましいほどの憐れみを神様からいただくという祝福だというのです。
 心のきよい者とは誰でしょう。その人は神を見ると言われています。これも明らかに心の中が問われています。きよいという言葉は、二心がないという意味です。それは自分の心を尽くして神を愛することです。その神への一途な誠実さこそ、神ご自身を見るための弟子の姿です。これも将来的に、イエス様が再臨されたときに、主の御顔を拝するという、先ほどの慰めにも通じますが、神であるキリストをこの目で見る。そのときが待っている祝福です。
 平和をつくる者とは何でしょう。平和というと平和主義を思い浮かべますが、ここでは単に戦争がない状態のことを言っているわけではありません。本当の平和とは、まず弟子である私たちと神様との平和であり、私たち弟子の個々の心の平安がいつも問われているということです。神の子と呼ばれる者は、まず神との平和な関係をいつも保つことが大切です。そこにまず私たち自身の平安が生まれるからです。その平安な心、平安な霊を持つ者たちの集まりこそ、平和な世界であり神の国、天の御国です。そのことをこの世に証しするのが教会の役目です。もちろん、平和のための活動は大切でしょう。しかし、ここでイエス様が弟子に求めていることは、かなり崇高な天国の国民の姿なのです。
 イエス様は、今日の、この教えをモーセの律法のように、「こうしなければならない」と仰らずに、「幸いだ」といかにも律法主義ではなく、神との関係性にスポットを当てている律法であることにお気づきでしょう。しかし、ここを出発点として、弟子に求められるイエス様の教えは、モーセ十戒よりも厳しい内容です。確かに、イエス様のお言葉は励ましと、憐れみと、慰めと、喜びに満ちています。「祝福だ。こういう人は。こんな素晴らしいことが約束されているから」と。しかし、自分の心の中に光を当てられて、私は無理だと思わされました。みなさんは、いかがでしょうか。自分は大丈夫だと思ったでしょうか。天の御国に入るに相応しいと実感できたでしょうか。恐らく、心が貧しい者と言われて、へりくだれない自分に気がつき、どれかはできているか、どれかができていないかという思いになるのではないでしょうか。
 そのできているか、できていないかという基準で考えていること自体、天の御国にはほど遠いものになっていく現実をここで見るのです。
 本当はモーセ十戒も、その心を問題にしているのですが、イスラエルの民が、律法を表面的に守ることに価値を置くようになり、書いてあることを守ればよいのだという律法主義がはびこってしまいました。愛を置き去りにした夫婦関係のようです。これでは神様は喜ばれません。それで、神の子であるイエス様が来られて、神様が本当に求めていることを神の御子が伝えた。そういうことなのです。
 そして、最後には「義のために迫害されている者は幸いです」と言われました。その義のために迫害されるとは、11節の「わたし(イエス様)のために」ということです。これがうらやましいほどの幸せが待っている道だということです。 
その幸せをイエス様は12節で嬉しそうにお語りになります。
「喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。」
 嬉しさの基準。喜びの基準がここでわかります。イエス様の弟子の幸せは、神のために生きることであり、神のために死ぬことだということです。それが、この地上において、私たちが置かれている意味であり、それがこの世での、人がうらやむほどの祝福だということです。

 

結論
 今日は、ざっと山上の教えを読んできました。一つ一つを丁寧に読むと更に色々な恵みがわかりますが、今日は、ここの全体を通して、私たちクリスチャンが歩むべき、人がうらやむほどに幸せな道を見てきました。その最後に迫害を喜びなさいというのが結論です。みなさんは、この結論に喜ぶことができるでしょうか。 
エス様はみもとに来た弟子たちに話をされました。もちろん群衆は聞いていてよかった。でも、イエス様のことを知らない人がいきなり聞いて納得できる内容でしょうか。弟子が聞いてもびっくりするくらい、この8つの幸いは革命的な教えでした。
 幸いですと言われるから、新約は旧約よりも優しく感じますが、ところがどっこい、イエス様は今までにないほどの厳しい教えを語られているのです。この教えは実践できそうですか。ここにいたイエス様の弟子たちは、師匠であるイエス様が逮捕されたとき、彼らは義のために迫害されることを喜んで受け入れましたか。いいえ。みんなイエス様を置いて逃げました。これが弟子の現実なのです。 
このあと、この山上の教えは「兄弟に向かって『ばか者』という人は地獄行きだ」とか、「情欲を抱いて女を見るものは姦淫を犯している」とか、言われていますが、それくらいイエス様の教えは基準が高いことがわかってきます。それは、私たちの心を、内面を、その霊性を問題にしているからです。
 ここでようやく、私には無理です。できません。降参ですという思いが湧いてこないでしょうか。それが、心が貧しくさせられるということなのです。もはや、できたとか。できなかったとか。そんな基準ではなく、ただ神様のために、そのようなものが生かされ、用いられる。そこに喜びが湧いてこないでしょうか。それは今の私たちには、十字架の恵みと聖霊の助けがあるのでそのように思えるのです。弟子たちが、あらためてイエス様の弟子として再スタートするのは、イエス様の十字架刑と復活を経て聖霊を受けてからでした。つまり、イエス様の十字架と聖霊の助けがなければ、ここで言われていることは実践できないということです。しかし、今、イエス様が十字架の贖いを信じる私たちに聖霊を与えてくださっているので、次はイエス様の御姿にならって喜び喜んで仕えさせていただく番です。私には無理です。しかし、主がさせてくださるなら喜んでできます。なぜなら、罪深く、地獄行きであった者のためにイエス様が死んでくださったからです。そんな私を愛して、十字架にかかって死なれたからです。それは私を、そしてあなたを弟子として生かし、天の御国を受け継がせるためでした。それがうらやむほどの幸いだと、イエス様は山の上で嬉しそうに語られたのです。
 今週、私たちも主の愛と聖霊の助けの中で、「幸いだ」と言われるイエス様の弟子として造り変えられたいと思います。

 

祈り 天の父なる神様。あなたを愛してあなたの求めに答えて生きようとする者をあなたの祝福で満たしてくださることを感謝いたします。しかし、私たちはそれを自分の力で行うことはできません。あなたが示してくださったイエス様を十字架にかけて死なせるほどの完全な愛を受け取り、あなたが与えてくださる聖霊の助けによらなければ、あなたを愛する生き方に進めないことを知らされます。どうか、いつもあなたがどれほどの痛みをもって御子をささげてくださったか。そこに示された愛を私たちが受け取り、聖霊の助けの中であなたを愛する歩みに進めるように導いてください。単に行いとしてできるとかできないという基準でなく、ただあなたを愛するがゆえに、あなたを愛する歩みを喜ぶものとさせてください。今日、ともに礼拝できなかった、愛する方々の上にも、私たちと同じ祝福をお与えください。主の御名によって。