のりさん牧師のブログ

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「毒麦のたとえ~耳のある者は聞きなさい」

聖書箇所 マタイの福音書13章24節~43節
 

 前回もイエス様は、耳のある者は聞きなさいと仰いました。そして、たとえを使う理由を、弟子たちには「御国の奥義」を知らせるためでもあるが、群衆には許されていないと言われました。
 それは、イエス様の側で知らせないようにしているというのではなく、弟子となって聞く耳を持たなければ大事なことがわからないのだということを学びました。それは、自分から聖霊の助けを拒むことになり、それを続けることで、神様から離れてしまう危険がある。だから、これは例え話に限らず、神様のみことば、聖書のことば全てにおいて、群衆のようにではなく弟子として真理を知ろうと意識して、信仰をもって聞くことが大切だということでした。
 
 今日は、もう一度「耳のある者は聞きなさい」とイエス様は言われております。今日は、どういうことを意識して聞きなさいと仰っているのか。それは何度も繰り返す「天の御国は」というフレーズです。ここで、イエス様は、はっきりと譬え話のテーマを述べられます。前回は、今日のようなテーマの告知も予告もなく種蒔きの話をされて、弟子たちに解き明かしをされていました。今日は、その続きで再び群衆に対してこれらの例え話をされています。
 
 
1.天の御国は
 イエス様は最初、湖に舟を浮かべて、そこにお一人で乗って群衆にお語りになっていました。今でいうと、ソーシャルディスタンスをとってお語りになっていました。でも、そのすぐ後で「弟子たちが近寄って来て」(10節)とありますから、イエス様は例え話のあと舟から降りておられたと考えられます。それで弟子たちが近づけた。その場面で前回種蒔きのたとえの解説をされ、今日は、そのまま毒麦の話をされました。それが24節から30節です。
 
 でも、イエス様は、毒麦のたとえを語られて、31節からまた別の話を挟みます。この手法は前回も見ましたね。種蒔きのたとえでも、先に例え話の本編をお語りになり、あとで解説されますが、間に他のお話を挟みます。しかも、その間の話があることで、例え話全体の文脈が豊かにされ、本当にここでイエス様が仰りたいことが見えてきます。
 まさに、ここに耳のある者は聞きなさいと何遍も言われるイエス様の意図が見えてきます。イエス様が、この13章の例え話全体で仰りたいことは「天の御国」のことです。それは、皆さんもお気づきでしょう。「天の御国は」と必ず枕詞のように語っているからです。
 
 それで今日の箇所では、その天の御国がまず「ある人」のことであるということです。天の御国とは、もちろん天国と言う意味もありますが、この原語的には天の王国、天の支配という意味でもあります。それは場所という概念よりも、そういう状態のことの意味合いが強い言葉です。「天の」というのは、マタイの福音書では「神の」ということの言い換えで用いられていますので、「天の御国」とは、すなわち「神の国、神のご支配」のことであり、この人によって支配され、広げられるのだということを表しているのだと読むことができます。
 
 イエス様は37節以降で解き明かしをされますが、その冒頭で「良い種を蒔く者は人の子です」と言われました。それは、つまり「天の御国、神の支配」=イエス様御自身であるということです。ここまでの文脈では、どうやら天の御国とイエス様は同義語、置き換えできるなとわかってきます。まさにイエス様が神の国の支配者、王であるメシアとして来られたお方であるからです。
 
 だからイエス様は、その種という言葉から、からし種、パン種へと展開させて、天の御国の性質を示しています。31節~33節を読みます。
 
「イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。『天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。』イエスは、また別のたとえを話された。『天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます』」
 
 この挟まれた二つの例え話でイエス様が伝えていることは何でしょうか。それは天の御国、イエス様のご支配は、成長するということです。しかもからし種という、当時もっとも小さな種と思われていたからし種が4~5メートルにもなるような量的成長があること。そしてパン種が表わす質的成長があることです。
 
 イエス様が来られたということは、神の国が到来したということです。そのイエス様が種を蒔くということは、種蒔きのたとえからの文脈でみると、一義的にはみことばであると受け取っても良いと思います。聞く耳をもって聞いていると、種とはみことばだとインプットされたからです。そのみことばが最初は僅かでも、からし種が成長するように、その御言葉が蒔かれたところで大きく成長し、パン種が練られた小麦粉を発酵させて膨らませてパンになるように、蒔かれたところの質をも変えて大きくなっていくのです。
 
 主イエスの福音もそうです。イスラエルという小さな国の、ガリラヤと言う見捨てられた地域、暗闇から始まった真の光、主イエスの救いは、やがてヨーロッパに広がり、アフリカに広がり、アジアに広がり、この東の果てである日本、その中で昔蝦夷地と呼ばれ蔑まれていたこの地に住む、私たちのところにまで広がっています。それは量的にも質的にも成長して、今、私たちは、この福音によって救われ、生かされているのです。そして、今度は私たちが良い種として、世界に出て行き益々神の国は広がって行き、最後はキリストの再臨によって完成するのです。
 
 そうすると天の御国である主イエスご自身が蒔いたものは、みことばであるという意味だけにとどまらないで、同時に、天の御国に属するクリスチャン一人ひとりでもあることがわかります。イエス様も、37節で「良い種とは御国の子どもたちのことです」と仰っています。
 
 
2.毒麦のたとえ
 そこであらためて「毒麦のたとえ」が浮かび上がってきます。それは、そのように神のご支配にありながら私たちの世界に起こる現実です。38節を読みます。
「畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。」
 この世界とは、24節に「ある人」が蒔いたのは「自分の畑」であり、41節を見ると、「つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて」とありますので、悪い者が混じっている神様の国、御国と読むこともできます。そうすると、それは、この地上に置かれた神の国のモデルであり、出張所でもある教会のことだとわかってきます。その教会に躓きを与える者、不法を行う者が混在しているというのです。
 
 ここで、「ちょっと待て、教会に毒麦って誰のことだ」と思われるかも知れません。これは、教会が始まってから、色々と言われてきた歴史があります。3世紀のカルタゴの教会を牧会していたキプリアヌスという教父は、この毒麦を分派と解釈し、アウグスティヌスも、そして宗教改革者ルターも、教会の異端問題として、この毒麦のたとえを用いました。しかしカルヴァンは、見える教会と見えない教会を区別していると解釈しました。それはあとで正体を現すという「つまずきを与える者、不法を行う者」とはどういう人を言うのかで強調点が変わって来るからだと思います。ですから、それぞれが言っている異端の意味がここにあると思います。ただ、毒麦のたとえ話の中心は、今は、みんなが麦に見えるということですから、表立って誰が毒麦かがわからないところに難しさがあるのです。
 
ですから私はカルヴァンが言うように、ここでイエス様が語られた「毒麦が蒔かれた世界」とは、「目に見える教会」のことであるという視点で受け取りたいと思います。
教会には、見えない教会と見える教会があります。見えない教会は、キリストのからだなる教会とも言われ、時代を超え、教派を超え、純粋に福音を信じて救われた者だけで構成されている共同体です。そのメンバーは神様しか知りません。
 
目に見える教会とは、今、私たちがいる、この地域に建てられたすべてのキリスト教会です。しかし、それは目に見えない教会と同じメンバーでありたいですが、洗礼を受けていても、実は信じていなかったということもあります。今、離れているように見えても、逆に今、熱心に信じているように見えても、このあとどのように成長していくか、誰が本当に救われているのか、誰が救われていないのかわからないのです。つまり誰が毒麦かはわからないのです。そういうことを、この毒麦のたとえでイエス様は仰っているのです。今はみんなが麦に見えるというところに、この毒麦のたとえのお話の中心があるからです。
 
 今日、この例え話から、二つのことを覚えたいと思います。
一つは、教会の中で誰が毒麦かと詮索する必要はないということです。28節で主人にしもべたちがこう言います。「私たちが行って抜き集めましょうか」しかし、主人はこう言います。29節「いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。」
 主人は神様のことですから、本当は御自身ですべてお判りになっているはずです。しかし、あえて抜かないと仰るのです。すぐに抜けるはずなのに。しかも、両方とも育つままにしておきなさいと言われます。それは、なぜか。それは、まず、私たち人間の判断ではわからないからです。中世の魔女裁判は有名ですね。もし道を外れたクリスチャンがいたら、自分の判断だけで死刑にするとか、破門にするなど、極端な行動は慎まなければなりません。注意や教育は大切です。あとは神様に祈りながらお任せすれば良いのです。今はどうであれ、あとでどうなるかまだわからないからです。つまり、その成長ぶりで、放っておけば様子が変わって来るからです。毒麦はどっちみち生長すれば他の麦との見分けがつくようになり、良い種でる本物の麦も麦として成長すれば、見分けられるからです。
 
 二つ目のことは、この毒麦が集められ炉で焼かれ、麦が収穫され倉に収められるように、必ず終わりの時があるということです。麦も成長し収穫時を迎えるように、教会も天の御国へ合流するために集められるときが来ます。そのとき、毒麦であった者は火の燃える炉に投げ込まれ、泣いて歯ぎしりすると言われています。
 でも、そう言われると不安になります。果たして、私は本当に救われているのだろうか。本当に天の御国に入れてもらえるのだろうか。私は毒麦ではないだろうか。今は、こうしてクリスチャンとして礼拝をささげているが、毒麦だったらどうしよう。または、自分は大丈夫だが、あの人は毒麦かも知れないと、他の兄弟姉妹のことを毒麦だとさばいているかも知れません。
 
 では聖書は何と言っているでしょうか。    ―間―   それはローマ人への手紙3章10節以降に書いてありますので、ぜひあとでお読みください。ここでは抜粋して読みます。「義人はいない。一人もいない・・・彼らのくちびるにはまむしの毒がある」と書いてあります。つまり、全員が毒麦であると言うことではないですか。だから「すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」とあります。では、ここにいる全員が燃える炉に投げ込まれるのでしょうか。
 
 
結び
そうではありません。今週のみことばを読みましょう。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みに
より、キリスト・イエスの贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」 ローマ人への
手紙 3章23節、24節
 神はいたずらに「両方とも育つままに」と言われているのではありません。毒麦さえも良い種に変えられることを待っておられるのです。毒麦とは、毒麦自体に毒があるわけではありません。その表面に着く内生菌が毒素を作り、食べてしまった人に害を与えると植物事典に書いてありました。私たちも、もともとは神様がお造りになった良いものだったはずです。しかし、毒素である罪が私たち自身を苦しめ、まわりの人をも巻き込むのです。しかし、毒麦が、良い種、本当の麦に変えられるという奇蹟が起こる。それが主イエス・キリストの十字架の贖いです。
 
だからイエス様は、良い種そのものでありながら、私たちの毒素である罪をその身に負って、身代わりに毒麦として神様に捨てられたのです。だから、どんなにあなたが毒麦のように毒素にやられて価値のないものだとしても、イエス様がその毒素である罪を負って死なれたことを信じているならば、もうあなたは良い種なのです。このたとえで大切なことは、毒麦はあの人だと言ってさばき、高慢と言う罪を犯すのではなく、自分こそ毒麦であったことを悟ることです。
そして次に大切なことは、その毒麦であった私、あなたのために身代わりの死を遂げてくださった主イエスを信じ続け、愛し続け、良い種とされた恵みに生きることです。それは蒔かれた種、福音、みことばに生きることです。
 
それは、あなたの、そのからし種のような小さな一歩が幾倍にも成長し、パン種のように膨れ上がって、良い種を蒔いたお方、キリストが支配される天の御国を建て上げていくからです。