のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

● 「イエス、宣教を開始する」 聖書箇所 マタイの福音書4章12~25節

序論
 全ての道はローマに通ずると言いますが、福音宣教は、確かにローマは経由するけども、その出発点はローマではありません。ガリラヤという聞き慣れない地域です。それは誰も見向きもしない、落ちぶれた、また蔑まれた地域からでした。
 前々回バプテスマのヨハネの箇所で、「荒野」というキーワードがありました。そのときも、なぜヨハネの宣教する場所が「荒野」なのかということを考えました。良い知らせを多くの人に伝えたいなら、まず都会の方がいいんじゃないでしょうか。しかし、神様の方法はそうではない。そのことを確認してきました。それと同じように、ガリラヤでもあらためて行われるのです。
結果的に、人間の感覚では考えられない場所から、世界中に福音が広められ、この極東と言われる日本まで宣教されています。そして、世界中の人たちがイエス様を信じて、今、この主の日を覚えて多くの人が礼拝をささげているのです。そこに私は感動を覚えます。
 私たちも今日のみことばを通して、イエス様が実際になさった宣教から教えられたいと思います。ガリラヤから始まった宣教が今、このように日本に来て、私たちがその務めに与っています。だから、もう一度、宣教の原点であるイエス様に立ち返って、そこから私たちの宣教を問い直したいと思うのです。
 それで、今日は3つのポイントでお話します。第一に、宣教とは「暗闇に光」であるということをお話します。第二には、イエス様による宣教の実例。最後に、そのために弟子たちを選ぶことについてお話します。

 

1. 暗闇に光
今日最初に触れるのがイエス様の宣教とは「暗闇に光」を照らすことだということです。
12~17節をお読みします。
ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、『ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。』この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」
エス様は、ガリラヤへ立ち退かれたとあります。イエス様がガリラヤへ行くことが、光が闇に照らされることに重なっていきます。それはかつて旧約聖書で預言されていたことでした。
 これはガリラヤに住んでいる人たちの様子、状態を表しています。
この「すわっていた」というギリシャ語は、「住んでいた」とも「留まる」とも訳せます。ここでは身動きが取れない状態、生活できていない状態のことを言いたいのだと、私は解釈しています。それは、その状態が5章の山上の教えに繋がっていると考えられるからです。来週の5章の予告篇ですが、「心の貧しい者」と繋がっているということです。
ガリラヤ地方がそのような状態の象徴であり、現実そうだったのです。ガリラヤ地方は、紀元前8世紀に北イスラエル王国アッシリアに侵略されたことがありました。そのとき、このイスラエルの地には外国人が入ってきて、残っていたイスラエル人とも混ざってしまいました。だから、中央のユダヤ地方の人から見たら、純粋なイスラエル人ではないし、偶像礼拝を持ち込んだ人たちという目で見られ、蔑まれていたのです。サマリヤと同じ理由です。でも、そういう人たちにまずイエス様の福音宣教の光が照らされました。その人たちの中に立って、イエス様はこう言われて宣教を始めました。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
これは、バプテスマのヨハネと同じ宣教のことばです。マタイはバプテスマのヨハネと同じことばとして記録しています。12節によるとヨハネは逮捕されたと書いています。それで、ヨハネの宣教自体はストップしましたが、しかしイエス様によって進められていることを強調していると私は思います。それは、ヨハネが整えた道をイエス様が歩いているということでもあります。宣教と言うものは、伝える人間がたとえ変わっても引き継がれていきます。宣教者はいつか必ずその役目を終える時が来ます。しかし、宣教そのものは次の新しい人によって受け継がれていく。そのことをここでも知ることができます。また、宣教の順序と目的もまた変わっていません。まず罪の悔い改めが必要であること。そして、その先に指差すのは天の御国です。イエス様もヨハネも、その宣教の先にあるものは天の御国です。その建設こそ宣教の目的であります。
 私たちもそうです。教会を開拓して宣教した人がいなくなっても、こうして、その働きを受け継いで、この地で更に宣教が続いています。そのバトンタッチがこれからもあることを期待したいと思います。また先輩たちが伝えてきたことを同じように伝え続けていきたいと思うのです。その目的は、神の国の建設です。天の御国が近づいている。そのために、この地上では教会というかたちで、神の国を展開しています。この白石教会も神の国の出張所なのです。それは死んだあとの話しではなく、この世からもう始まっている現実の神の業なのです。

 

2.イエスの宣教の実例
 では次にイエス様ご自身は、その人たちに具体的にどのように宣教したのか。その実例について考えてみましょう。それで先に23節から25節を読みます。
「イエスガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレムユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」
 イエス様は、そのガリラヤ全土を巡ってとあります。これは暗闇に座っていた人たちをくまなく巡って、いのちの光を照らしたということです。では、実際にどういうことが光を照らすということなのでしょうか。
 それが23節のところにあることです。
「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
 ここにこれまで歴史的に教会が担ってきた3つの業が示されています。「会堂で教え」いうのは、ユダヤ教シナゴーグと呼ばれる会堂での教育のことです。シナゴーグでは通常、聖書の朗読と学びが行われていました。そこには子ども用のカリキュラムもあって、学校でもあったのです。そこでイエス様も教えていました。また「御国の福音を宣べ伝え」というのは、これこそ福音を伝える働き。伝道のことです。ここでは「御国の福音」ですから、さっき宣教開始で言われた、今、近づいている神の国に入るための良い知らせを伝える働きです。そして3つ目が「直された」という癒しの働きです。その内容は24節の中で言われています。
「イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをいやされた。」
 この癒しの中に悪霊につかれた人もいたようですが、マタイはここでは「いやされた」と記録しています。オカルト的な状態ではなく、悪霊の働きを起因としている病気ということかも知れません。
 以上、この3つがイエス様の宣教の実例です。簡単に言うと「教育、伝道、医療」です。これが、イエス様がなさった宣教の3要素です。そして、キリスト教会はこの働きを歴史的にも続けてきました。
 身近な例で日本での宣教を見るとわかりやすいです。日本にプロテスタントの宣教が始まったのが明治維新後です。そのとき、宣教師たちが行った宣教とはどういうものか覚えているでしょうか。
 やはり、まず学校を建てることに力を注ぎました。ちょうど明治維新で、学校制度を取り入れ始めた時期だったこともあって、キリスト教教育を含めた学校が多く建てられました。青山学院とか明治学院関西学院同志社など、札幌では北星学園がそうです。酪農学園とわの森三愛高校もそうです。カトリックの藤学園や光星高校もあります。このように皆さんもよく知っているキリスト教を背景にした学校が多くあります。
札幌農学校は公立学校でありながら、そこでクリスチャンとなった内村鑑三新渡戸稲造らが輩出されたのは、まさに教育と伝道を担った当時の宣教の成果だと思います。また昨年アメフト部の反則タックル問題で騒がれた被害者側の学生は関西学院大で、そのアメフト部がニュースに出ていましたが、練習のときや試合のときにみんなでお祈りをしているそうです。そういうところからフェアプレー精神が養われていると言われています。
また病院も多く建てられました。ヘボン訳聖書やヘボン式ローマ字で有名なヘボンは医者であり宣教師でした。ヴォーリーズ記念病院をご存知でしょうか。この病院はメンタームで有名な近江兄弟社を創設したアメリカ人のクリスチャン建築家ヴォーリーズによって創設された病院です。聖路加国際病院聖公会が1901年に創設しました。淀川キリスト教病院は1953年に長老教会系の団体によって創設されました。この病院の現理事長の精神科医柏木哲夫さんはメノナイト・ブラザレン石橋教会の教会員です。私の身近では札幌希望の丘教会員の野村内科医院とか月寒グロリアクリニックは医療活動の中に、福音伝道も取り入れています。
  このように、日本だけ見ても、多くの教育機関医療機関が宣教の一端を担っていることがわかります。
 どうしても宣教というと、福音伝道だけが強調されますが、そういう社会的な活動も、もともとはイエス様の宣教から始まっていることを覚えたいと思います。そして、その宣教の中心は、やはり教育と医療の真ん中にある福音伝道であることもしっかりと確認したいと思います。教育も医療も、その他様々な社会的な活動も、その中心に福音伝道がなければ意味がありません。それは神の国には罪の赦しをいただいて神様との和解が大切だからです。だから教会は何をするにしても、宣教の中心が何かを絶えず意識付けすることが必要です。

 

3.弟子たちを選ぶ
 そこで、イエス様は、その宣教の業を託すべく弟子たちをスカウトします。18節~22節を読みます。
「イエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨てて従った。そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」
 イエス様は、世間からは見下されている地域を巡って、その人たちに教え、伝え、癒しを与えていました。でもイエス様がそこを歩いている目的はまだありました。それは、その暗闇と言われた地域からご自分の弟子を選ぶことでした。
 イエス様は、漁をしていたペテロとアンデレに声をおかけになります。
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
 なんてユーモアたっぷりの言葉でしょう。聖書は淡々と記していますが、この場面はきっと笑って良い場所だと思います。ペテロもアンデレもイエス様のことは既に知っていました。イエス様も彼らを知っていました。だから、「こんにちは」とか、「魚獲れるかい」とか、そういう会話が出ると思いきや、いきなり「わたしについて来なさい」そして、「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」
 今、目の前で、漁をしている漁師に、漁師にしてあげようという洒落をおっしゃって、しかも「人間をとる漁師」です。そして、もう二人の漁師たちにも声がかけられたと書いてあります。ゼベダイの子ヤコブヨハネにです。
 まずは、この合計4人の弟子をスカウトしました。ここで、今日、最後に注目したいのは、第一に彼らの行動です。両方とも「すぐに」と書いてあります。そしてどちらもただついて行ったのでなく「網を捨て」「舟と父を残し」と、自分が握り締めていたものを手放しています。彼らは身支度とか、魚臭い手を洗うこともなく、着替えることもなく、しかも、大事にしているものを手放して、ついて行きました。 
ここに弟子としてイエス様に召されている者の大切な姿勢を学ぶことができます。それは、イエス様に招かれたら、よくわからなくてもまずは、すぐについて行くということです。これはイエス様にだけ適用できることです。一般的にはよくわからないのについて行ってはいけません。
 私は高校3年生のときに洗礼を受けました。そのとき、いったいイエス様の何がわかって、何を理解して洗礼を受けたのでしょうか。確かにぼくのために十字架にかかって死なれた。三日目に復活された。それは信じました。でも理解していたのかと言えば、全然そうではありませんでした。聖書も殆ど読んでいませんでした。でも当時は何もわからないのに、すぐに日曜学校の先生の奉仕をするのが当たり前でした。だから毎週大変でした。わからないから聖書を読まざるを得ません。その延長線上で牧師になっています。みなさんはいかがでしょうか。洗礼受けたときって、何もかもわかって洗礼受けましたか?
 でも、その「すぐに」が、かえって良かったと今は思います。「すぐに」だったからこそ、よく聖書を読むことになりました。いつも子どもたちに語るみことばを頭に置きながら仕事をしたりしていると、話は下手くそでも、不思議と神様のことばを伝えることの嬉しさが湧いて来るのです。だから、牧師という役目も、得意だからしているのではありません。苦手で、ホントはやりたくないけど、不思議な喜びが根っこにあるから続けられると思います。
 またイエス様の弟子は、イエス様に従うときに手放すものがあることも教えています。それがペテロとアンデレは漁師のいのちである網でした。ヤコブヨハネは舟と父親でした。いずれも、それぞれの兄弟にとって大切なものです。ここにイエス様への献身があります。
 ここまで来ると、自分には無理だと思う方がおられるかも知れません。でも、大丈夫です。イエス様は弟子にはとても手厚いお方です。なんと言っても、見よ、わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいると約束してくださるお方です。しかも、今日の18節と21節を見てください。イエス様は、彼らを呼ばれるときに、必ずどうされているか。それは「ご覧に」なったということです。これが最後の注目点の二つ目です。イエス様は、いつも共におられるお方。そしていつも見ていてくださるお方です。それは今召し出すあなたのことをしっかり支えているよという、イエス様の光としての役目です。
 イザヤ書の預言最後に、「光が上った」とあります。これは、遠くにある光ではなく、あなたの真上に上った、あなたの上にいつも輝いているということです。イエス様が、そのように、あなたの上にいつも輝く明けの明星だということなのです。このご覧になっている主の目は、あなたへの祝福と支配と守りであるということです。

 

結論
 イエス様の宣教。それは闇の中にある者に光を与えること。それがイエス様の宣教でした。夕があり朝があったと創世記から続く、光に向かうこと。それが宣教です。そして、その目的は神の国の建設でした。そのために、この地上に教会を置き、そこに弟子として私たちを招いています。
 その弟子に必要なのは何か。資格でしょうか。能力でしょうか。学歴があることでしょうか。何かができることでしょうか。健康であることでしょうか。お金を持っていることでしょうか。心が強いことでしょうか。
 そうではありません。愚か者であること、弱いこと、貧しいこと、病にあることをそのまま認め受け入れて、「すぐに」、しかも、今握っているものを「捨てて」手放してイエス様について行くことです。この世の価値観、富み、誉は神の国では必要ありません。むしろ神の国を遠ざけます。大切なのはへりくだった生き方です。
 イエス様は私たちがそうできるように、その模範となり貧しくなられ、「ナザレのイエス」と馬鹿にされ、蔑まれて、神の身分を捨てて、十字架の道を歩んでくださいました。そして、模範だけで終わらず、私たちの罪も汚れも、弱さも、醜さも、病も背負って十字架の上で死なれたのです。それはどんなに暗い闇の中にいる人も、どんな寂しい人生を歩む人をも神の国に招くためでした。そのお方の目は今日、あなたをご覧になっています。わたしについて来なさい。その言葉に今週もすぐに、何もかも捨てて従ってまいりましょう。

 

祈り 愛する天のお父様。イエス様が私たちがいる暗闇に希望の光として来てくださったことを感謝します。そして、今、その宣教の業を担うために弟子として招いてくださり感謝します。あなたは弟子たちがどうするか、私たちが、すぐに従うのか、ぐずぐずするのか見ておられます。どうか、信仰をもって、勇気をもって、あなたに従う新しい一歩を踏み出せるように導いてください。今日、来られなかった方々にも、あなたの守りと祝福がありますように。主の御名によって。