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説教題 「収穫のために祈れ」
聖書箇所 マタイの福音書9章35~10章1節
序
神学生の頃、今頃の学院の畑には様々な野菜の苗を植えるという作業がありました。学生たちはそこから宣教の厳しさや喜びを学びます。
私たちの宣教の働きも、みことばの種まきをして、言われた通りのことをやっていればそれで良いのではありません。また仕事として、プロフェッショナルにやっていれば良いのでもありません。苗に棒を立てたり、ビニールをかけて風から守ったり、畑の前を通るだけのときでも、その様子を気に掛けるように、出会う人たちに愛情を注いで関り、その関係の中で魂の救いまで導き、助け、教えるのです。イエス様の宣教もそのことを私たちに教えています。
1.イエスの宣教
それであらためて、イエスが権威をもってこれまで宣教をなさってきたということのまとめが、35節に書いてあります。
「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。」
なぜ、ここがまとめなのか。それは、この35節の言葉は以前にも出て来ていたからです。今日のこの35節は、4章23節と繋がっています。4章23節
「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」
このみことばが書かれているのはイエス様の宣教開始の場面でした。だから、この福音書を書いたマタイという人は、この同じようなみことばによって、その具体的な宣教の中味をサンドウィッチにしているのです。そのように伝えたいことを整理して、上手に福音書としてまとめています。聖霊がそのように導いたのでしょう。
だから、ここでもう一度、イエス様の宣教がどのようなものだったのかを、三つの業にまとめて語られています。
その第一のことが「巡って、会堂で教える」ということでした。会堂とはユダヤ教の会堂、集会所のことでシナゴーグと呼ばれています。そこで聖書が朗読され、聖書の教えが解き明かされました。基本的には山上の教えにあるように、旧約聖書で言われてきた律法の新しい解釈であり、その生き方を教えて来られました。つまり、聖書の教えを実生活で実践することが、ここでいうところの教えです。別な言い方で教育とも言います。
ですから、キリスト教会が始まってから、教会は学校教育に力を入れてきました。明治維新後、海外の宣教師たちは福音宣教とともに、まず学校を整備しました。そこでは英語の聖書で英語を学びながら、同時に聖書の教えも学びました。立教大学、明治学院とか関西学院、北星学園など、その歴史を持っている学校はたくさんあります。
主イエスの宣教の第二のことは「御国の福音を宣べ伝えること」です。これは、福音宣教のことです。御国とはメシアであるイエス様が治める王国のことです。そのご支配はこの世の人が行う抑圧と義務で満ちたものとは違います。私たちが支配とか、従うというときに、なんだか苦しそうで、いやいやながらという感覚で捉えているのではないでしょうか。しかし、イエス様によるご支配、イエス様に従うということは、本当の喜びと真の自由があります。そのイエス様といつも一緒にいられるためにはどうするのか。それは、一番最初の宣教の開始でイエス様がおっしゃったことです。4章17節です。
「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」
罪を悔い改めて、イエス様をその罪のさばきから救ってくださるメシアとして信じて救われること。それが福音です。実は、このメッセージが最も宣教において重要です。イエス様の宣教の2番目にあるからと言って、1番目の教えることと三番目の癒しと並列に考えてはなりません。福音を信じて救われるからこそ、教えることも癒すことも有効になるのです。福音宣教はさきほど読んだ4章23節のみことばでも、教えることと、癒すことの真ん中に置かれて、その重要性を強調しています。サンドウィッチが、中に具が挟まっているからサンドウィッチであるように、福音が中心にあるから宣教なのです。サンドウィッチなのに具がないならば、ただの二枚重ねのパンにすぎません。同じように、教えることも癒すことも、福音を信じることに繋がらないならば、宣教として片手落ちなのです。
それがこの「御国の福音を宣べ伝えること」です。このことは、その後のキリスト教会にとっても今に至るまで大切な宣教の中心です。罪によって隔てられていた、自分自身とこの世界を神様のもとに取り戻し、すべての人が御国に入ることができるように、イエス様を伝えていかなければなりません。
使徒パウロもこう言っています。
「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は、唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」Ⅰテモテ2:4~5
そして、イエス様の宣教の第三のことは、さきほど既に言いましたが、「あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた」つまり癒すこと。それは医療であるという言い方もできます。ここでイエス様は確かに奇蹟的な癒しをなさいましたが、それは決して機械的に事務的に直したという意味ではありません。前回の目の見えない人の癒しでも言いましたが、イエス様はそのお言葉だけでも十分癒すことがお出来になるのに、あえて「目にふれて」癒されました。また、あの長血を患った女性も、あえて衣に触れることを許されました。会堂管理者の娘に対しても、あえて手をとって生き返らせました。
イエス様は必ず、そのようにして一人ひとりに触れて癒すのです。つまり手当をしてくださったのです。昔、子どもの頃、お腹が痛いときにお母さんが手をお腹に充ててくれたら、薬よりも安心して、楽になったように、イエス様が触れてくださるように、私たちもそのように病の中にある人、怪我をしている人の傷に手を置くように、心を向けていく。それが大切です。私も牧師になって、この姿勢は大事にしたいといつも思っています。もちろん、だれでも彼でもべたべた触るのではなく近くに行ってお祈りすることも、その癒しの業でしょう。
ただ、現在、コロナウィルスで兄弟姉妹が入院した病院に行けないのがとても残念です。通常であれば「牧師です」と言えば、ICUでも、時間外でも入れてもらえていましたが、今は家族すら面会できない病院がほとんどです。
でもキリスト教会は、この医療にも2000年間、どんな重病、また流行り病、疫病が蔓延しても、多くの人の友となり、その癒しのためにいのちを捨てて寄り添ってきました。病院にもキリスト教系の病院が多いのはその癒しの業に宣教の責任の一端を担っているからです。
それは、先に、罪を悔い改め、イエス様を信じて、御国に入る者とされたので、そこから湧き出る主への感謝と愛、そして、永遠のいのちへの希望によって、そのように生きることができるのです。その姿勢、その心は主イエス・キリストのうちにあるものです。それが、36節に書かれています。
「また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」
イエス様の宣教の原動力は、メシアとしての義務感とか責任感ではありませんでした。人々をいつくしんで、憐れむ心、それは自分を犠牲にしても救いたいという愛です。この「彼らをかわいそうに思われた」という言葉は、新しい訳では「深くあわれまれた」となっています。それは、上から目線でいう「かわいそうに」ではなく、心を砕き、内臓がえぐられる思いで彼らを愛してくださったということです。その愛の延長線上に十字架の死があります。そのような人々を救うために、イエス様は十字架の道を耐え忍ばれ、贖いの小羊となられたのです。
そのような生き方、歩み、教えをイエス様は、弟子たちとともに旅をしながら伝え、見せて、ここまで来たのです。いよいよ、ここからがその宣教の業、権威の付与です。
2.宣教への招き
ここで主イエスは、初めて、宣教が種まきであり、そのためには多くの働き人が必要だということを弟子たちに打ち明けます。37~38節。
「そのとき、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。』」
それで、その働き人はあなたですとは言わないのです。ここが、イエス様の面白さというか、宣教のために立つ人に求めていることがあるということです。
何をイエス様は弟子たちに求めておられるのか。それを知るためには、やはり、まず祈るのです。ルカの福音書を見ると、イエス様も山に登って一晩中祈ったということがわかります。
宣教に立つため、また主の働き人として整えられるために祈るのです。その祈りの中で、主の語られたことばが本当に自分に対して言われているのかが、明確にされていきます。
私も伝道者への召命のみことばが与えられたときに、牧師に相談すると、まず言われたことは、「わかりました。では祈りましょう」です。「良かったね。では、今後のことを考えましょう」ではなく、「祈りましょう」です。それは、自分の思い込みということも十分あるからです。でも、祈りの中で、与えられた聖書のことばが益々、自分に語っていることとして明確にされていきます。また、まったく自分が伝道者として立って行こうなんて、一かけらも思っていなかった人が、この祈りの中で「あなたはどうですか」という主の声を聴いて立ち上がることもあるのです。
現在、札幌キリスト福音館の牧師である三橋恵理哉先生のお母さんである幸子先生は、若い時に病院で看護師をしていました。そこでのちに結婚する萬利先生に出会います。しかし、三橋萬利先生は小児まひで片手が使えず、歩けず、だれかにリアカーに載せてもらってやっと動ける人でした。だから、その様子を見て本当にかわいそうだなと思い、誰か助ける人が与えられるように神様に祈っていたそうです。すると、その祈りの中で「あなたはどうですか」という神様の声を聴いたというのです。それは本当に驚きでした。まさか自分が。一かけらも思っていなかったことが祈りの中で示されたのです。そこから幸子先生は伝道者である三橋先生の妻となって、どこへ行くにも夫をおぶって伝道するという神様の働き人として召されるのです。
それは、この12弟子たちも同じだったでしょう。イエス様は、あえて「祈りなさい」とおっしゃった。弟子たちも、イエス様も祈りました。そこから、生まれてくるものは何でしょう。それは、単に自分の思いや自分の経験や、自分の力で立っていくのではなく、ただメシアである主イエスから与えられる権威を入れられるように、空っぽな状態に気が付くことだったのです。そして、そういう空っぽな自分に語られる「あなたはどうですか」という主の声を聴いたのではないでしょうか。10:1~4
「イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。」
祈り終わって、イエス様の宣教の三つの要素のうち、三つ目である癒しだけが与えられたようです。どうして、教えることと、福音宣教は入っていないのでしょうか。癒しよりも、みことばを教えて、福音を語り、魂の救いを伝えた方が良いのではないでしょうか。
それは、大きく二つの理由があると思います。一つは、彼らがまだ初心者の弟子であったからだということです。まだイエス様のように人に教えるとか、福音を語るには難しいと言えます。教えるためには、もう少しイエス様から学ぶ必要があるのではないでしょうか。
そして、二つ目の理由は、彼らが初心者であるならなおさら、人々との接点を多く持つ。その関係づくりが大切だからではないでしょうか。教えることも、福音宣教も唐突に語られても、語る人と聞く人の関係性がものを言います。特に、今回選ばれた12弟子たちはほとんどが漁師です。そうでないにしても、ローマへの税金を取り立てていた人や、熱心党員という右翼の人もいて、なかなか、そういう背景のある人の話は良い話であっても聞く耳を持てないのではないでしょうか。しかし、癒すことは、現実的に病気やけがで困っている人に寄り添うところから始まります。それは、イエス様の内臓をえぐられるほど憐れむという心や姿勢が問われ、養われる業です。
ですから、関わる人に寄り添い、その人たちへの愛の思いが成長するために、まず癒す権威が与えられ、その癒された人たちが心を開いて、聖書の教えを聞き、そして最終的には福音を聴いて魂の救いに預かれるようにされていくのです。
結び
私たちにも、この宣教の使命が与えられています。特別に伝道者や牧師になる人もいますが、その賜物に従って、宣教の働きには役割があり、また順序があります。目的はすべての人が救われることですが、まずは関係づくりが必要であると、今日学びました。自分には何も取り柄がないとか、私のような罪人が神様のことを伝えられないと思っている人がいるならば、その人こそ弟子に招かれています。なぜなら、12人の弟子たちがそのような、問題だらけの人たちの集まりだったからです。
大切なことは、今日、もう一度主の前に静まって祈り、今も、主が収穫のための働き人を今も求めておられる事実を受け止めることです。そこでからっぽにされて、なすべき業は主が与えてくださるという恵みを受けとることです。それが直接、今は救いに繋がらないかも知れない。でも、その働き、その存在は主の業なのです。
今日も、今週も収穫の主の働きのために召されている者として、祈って整えられてまいりましょう。
祈り