のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

福音を受け入れた者は

"彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。
彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。
すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。
信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、
財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。
そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし
神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。"
使徒の働き 2章41~47節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 ペテロの説教によって、人々は心を刺され、罪の悔い改めに導かれました。そして、一度に三千人もの人たちがバプテスマを受けることになります。

 バプテスマとは洗礼のことです。その言葉の意味は浸すということです。それは水の中にからだを沈めることによって、キリストとともに死に、水から起き上がることによってキリストとともによみがえることを意味しています。

 あのノアの家族が箱舟に乗って洪水を通って救われたように、またイスラエルの民が、真っ二つに分かれた葦の海を通ってエジプトから救われたようにです。

 

 "バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。"
コロサイ人への手紙 2章12節


 そしてバプテスマを受けた人たちはどうしたでしょうか。それは、まず弟子に加えられたとあります。それはペテロの弟子となったのではなくキリストの弟子となったということです。これは、主イエス様が死からよみがえられてから、あの大宣教命令の中で言われたことです。

 

"ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、"  マタイの福音書 28章19節

 大宣教命令で、「弟子としなさい」という命令のあとにバプテスマを授けることが言われているのは、バプテスマを授けられる者が主の弟子となることを先に受け入れていることが前提だからでしょう。救いを受け入れることは、神様から永遠のいのちを受け取るだけでなく、同時に主の弟子として、主に従うことも意味しています。そのことを抜きに救いの決心はありません。そもそも罪の悔い改めは、罪の奴隷からキリストの弟子への方向転換だからです。

 ですから、私たちもキリストの弟子として積極的に主のように生きることが求められているのです。

 そのようにバプテスマを受け弟子とされた彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていたのです。

 使徒たちの教えとは、聖書が完成した現代で言うなら、新約聖書のことであると言えるでしょう。このときはまだ聖書と言えば旧約聖書しかありませんでした。しかし、キリストの弟子にとって大切なのは旧約聖書を成就したイエス・キリストの教えであり、生き方であり、その救いみわざです。

 その新約聖書の役割を使徒たちは担っていました。それは旧約聖書と切り離して新約聖書があるのではなく、救い主であるイエス・キリストの到来によって旧約聖書が指し示していたことが実現したことで、イエス・キリストを通して旧約聖書を理解することを使徒たちが教えていたと言えます。それは、これまでになかった新しい聖書理解であり、読み方です。

 そして、そこに交わりがあります。教会の交わりとは単に一緒にご飯を食べて世間話しすることではありません。教会の本来の交わりとは、使徒たちの教え、すなわちみことばによる交わりです。

 礼拝を通して得たみことばの恵みをともに分かち合うことこそ、主の群れとしての本来のあり方であり、意味です。私たちはみことばによって励まし合うことが大切です。クリスチャンと言えども一人で信仰を守っていくことはできません。必ず教会という仲間とのみことばによる交わりが必要なのです。パウロも勧めています。

 

"キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、忠告し合い、詩と賛美と霊の歌により、感謝をもって心から神に向かって歌いなさい。"
コロサイ人への手紙 3章16節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 キリストのことば、すなわちみことばが私たちのうちに豊かに住むようになることにより、互いに教え、戒め、ともに主を賛美する者へと変えられ整えられるのです。

 そして、最後に、パンを裂き祈りをしていた。

 それは主の群れは、「パンを裂き」それは聖餐式を行い、パンとぶどう酒によってキリストを覚え、キリストにある新しい契約にあることを繰り返し味わうのです。それは、キリストの共同体としての確認でもあります。また、天の御国での祝宴の前味でもあります。その新しい契約の中での祈りこそ、キリストに贖われた者たちとしての、新しい祈り、それは新しい神との交わり方でもあります。

 もはや悪魔と罪に支配されない、完全に勝利の凱旋に入れられ、福音の使者とされた集団。それがキリストの教会です。そこにあるのは、教派主義ではなく純粋に、キリストのからだと血に与る主の弟子集団の、キリストのみを中心とした交わり、祈りなのです。

 今日の主日、私たちも主の弟子集団として、使徒たちの教えを守り、交わりをし、パンを裂き祈りをしてまいりましょう。その姿を通して、まだ主を知らない多くの人たちへキリストが証しされ、救われる方々が起こされていくからです。

 

そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし
神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。