のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

週の初めの日に

使徒の働き 20章7~12節

"週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。

 

パウロは翌日に出発することにしていたので、人々と語り合い、夜中まで語り続けた。
私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんついていた。


ユテコという名の一人の青年が、窓のところに腰掛けていたが、パウロの話が長く続くので、ひどく眠気がさし、とうとう眠り込んで三階から下に落ちてしまった。抱き起こしてみると、もう死んでいた。


しかし、パウロは降りて行って彼の上に身をかがめ、抱きかかえて、「心配することはない。まだいのちがあります」と言った。


そして、また上がって行ってパンを裂いて食べ、明け方まで長く語り合って、それから出発した。


人々は生き返った青年を連れて帰り、ひとかたならず慰められた。"

  今、私たちは日曜日に礼拝のときを持っていますが、それはパウロたちがそうだったところから始まっています。

 当初は毎日集まってパンを裂いていましたが、そのうちにイエス様のよみがえられた日を記念して、日曜日が礼拝日になりました。しかも当時の礼拝は、パンを裂くため、と言っているように聖餐式が毎回行われていました。それが当時の教会の礼拝スタイルだったのです。

 このことを現在でも続けている教会もあります。私もそのような教会で救われました。

 パウロたちは、トロアスの教会の兄弟姉妹たちとともに、語り合い、話が夜中まで続いていたくらい、集会は遅くまでかかっていました。

 するとユテコという名前の青年が窓から落ちてしまったのです。これは礼拝中の大事故と言っても良いでしょう。その落ちた理由を記者ルカは、「パウロの話が長く続くので、ひどく眠気がさし」と正直に伝えています。

 当時でも礼拝中に眠る人がいたのかと微笑ましく思えますが、夜中まで続いてしまったシチュエーションを考慮すると、眠くなるのは当然の生理的現象ではないでしょうか。

 それにしても、もし現代の教会で、礼拝中に誰かが窓から落ちたというような大事故が起きたらどうするでしょう。

 間違いなく、救急車を呼んで怪我した人の救護に専念して、その礼拝は中止となるでのではないでしょうか。

 このときのユテコは死んでしまいました。でもパウロが彼を生き返させます。この当時、使徒たちにはその賜物が与えられていたのでしょう。ペテロもドルカスという女性を生き返らせたことがありました。

 現代にこの出来事が全く起こらないとは言いませんが、救急車を待ちながら祈ることがベストでしょう。

 しかし、このときは生き返った彼とともにまた集会室へ上がって、礼拝の続きを始めるのです。

 この当時の礼拝でのアクシデントへの対処は、現代にそのまま適用できませんが、大切なことを二つ学ぶことができます。

 それは、もし礼拝中に事故が起きたら、やはり一時中断して、その怪我した人を介抱し祈るということです。それは、やはり礼拝は主との交わりを通して新しいいのちを得る場でもありますので、いのちを大切にすることは、むしろ大切な対応でしょう。

 そして二つ目は、教会は、どんなことがあっても礼拝を続けるということです。このエピソードでは、また部屋に戻って礼拝を再開しています。それと全く同じようにはできないまでも、社会では様々な出来事が起こり、一緒に集まることが難しくなるような場面もあります。新型コロナはまさにそんな状況です。

 しかし、教会は礼拝をやめてはいけないと私は考えます。色々な工夫は必要かも知れませんが、教会が礼拝をやめてはならないのです。

 現在、世界中で礼拝を守ることすら制約を受ける国や地域があります。家の教会と呼ばれるところはそうでしょう。彼らは官憲の目から逃れるように、最善を尽くして礼拝を守っています。

 私たちも、そのような迫害はないかも知れませんが、礼拝を休もうとか、やめようという時はないでしょうか。それは、私たちの都合でも起こります。仕事があることや、家族サービスなど。そのときに、用事があるのだから礼拝を休むのは当たり前になっていないでしょうか。

 たとえ、仕事が入ってしまって、どうしても礼拝できない場面でも、休むことが当たり前ではなく、まず礼拝のために祈りましょう。それでも道が開かれなかったら、牧師に連絡して祈ってもらいましょう。

 とにかく、礼拝への最善を尽くして、その心が主から離れないようにすることです。そのことを今日の聖書箇所から

私が学んだことです。

 今日もあなたの心の中心に主がおられますように、心からお祈りいたします。