神の教会の真の牧者はキリストである。だから、教会はキリストご自身が直接牧会した方が良いに決まっている。しかし、キリストはそうなされなかった。キリストはこう仰せられて天に帰られたのである。
「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
つまり、牧会だけでなく、この地上における宣教の業すべてを弟子たちに託されたのである。その事実にまず驚かなければならない。神ご自身で全ておできになることを人間に任せるという、その真意は何か。「光、あれ」とおことば一つで無から有を創造できるお方が、あえて有限な被造物である人間に栄光の業をゆだねるというその理由は何か。
その視点に立って、「健全な教会と教職者」について考察する。この考察をわかりやすくするため、「健全な教会」と「健全な教職者」に項目を分けて考察し、最後にまとめようと思う。
1.健全な教会
イエスは、ピリポ・カイザリヤに行かれたときに弟子たちにこう尋ねられた。
「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
この質問に対して、弟子たちは周囲で聞いた様々な意見を披露するが、どれも憶測であり、何れも正しくはなかった。しかし、シモン・ペテロが告白する。
「あなたは、生ける神の御子キリストです。」そこでイエスは言われる。
「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
イエスが言われたこの教会こそ「健全な教会」と言えるのではないだろうか。純粋にイエスとはどなたかを明確に告白する群れこそ、第一に健全であると言える。現在、多くの教会では使徒信条が告白されている。ここでその使徒信条を解説はしないが、客観的な視点では、その告白によってその教会自らが「健全な教会」を主張していると見ることができる。
その信条を告白することが何故「健全な教会」であることに繋がるのか。それは、大雑把に言って、教会の主が人間ではないということを主張していることが一つの理由であると言えると思う。それは、人間を告白するものではなく、その教会が信じる神。別な言い方をするなら、その教会が礼拝をささげるべきお方がどういうお方なのかが言い表されているかである。それは、父なる神、御子なるイエス・キリスト、聖霊なる神について、その唯一性と各位格について明らかにし、各個教会が地域教会でありつつ、公同の教会として、同じ告白に立つ群れとの一体性を現わすことによって、神の栄光が証しされるのである。イエスは言われた。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
イエスの名において集まり、イエスを告白するところには、イエスがおられるとイエスご自身が約束さ れたように、「健全な教会」にはイエスご自身の臨在がある。なぜ、イエスの臨在に価値を置くのか。それは、人間に任された業としての牧会、また宣教の働きは、実はイエスが不在で行なわれるものではなく、イエスの霊である聖霊の業としてなされるからである。だから、終末において、イエス不在となる教会が預言されている。
「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
イエスが教会の外に追いやられ、教会のドアをノックするのである。しかし、それでもなお、主はご自分の教会に関わろうとされる。何度でも入ろうと試みて下さるのである。そこには現実的にイエス不在の教会。つまり不健全な教会があることを示している。
以上のように、「健全な教会」を定義づけすると同時に、「不健全な教会」が必然的に浮かび上がってくる。また、あえて「健全な教会」を定義づけしなければならないこと自体が、同時に健全ではない教会の存在を明示していることがわかる。つまり、上記の言葉を借りるなら、真の神を告白せずに人間自身に栄光を帰す集団、真の神への理解を故意的に歪める集団は、たとえキリスト教会を名乗っていたとしても十分に警戒しなければならないし、自らもキリストを追い出してはいないか、常に吟味する必要がある。神の教会は、どんなときも、信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離してはならないのである。
2.健全な教職者
そこで、健全な教会を守り、養い、生かすために「健全な教職者」が必要とされる。
それでは「健全な教職者」とは何か。この言葉を言い換えるなら「健全な牧者」と言えるかもしれない。それは、神の教会において、そこに集う聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだである教会を建て上げることが教職者たる牧者の役割だからである。それを「キリストご自身が」立てられたという意義は大きい。
それは、聖霊の助けの中でキリストの責任で行なわれる神の業だからである。その神の業に教職者は召されているということである。「健全な教職者」はその業を遂行すべく真の牧者であるキリストから学ばなければならない。使徒ペテロはこう言っている。
「あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
教職者がキリストによって召しだされたのは、キリストの模範に倣うことである。キリストが教会のためにいのちをささげられたように、キリストに任命された教職者もまたキリストが命を捨てるほどに愛された教会のためにいのちを差し出すことが求められている。ここでの慰めは、キリストご自身が十字架の上で私たちの罪を負われたということと、そのゆえにまず私たちが真の牧者であり監督者である神のもとに帰ることができたことである。
そのキリストの牧者として歩まれた足跡のゆえに、私たちもまた、その生き方に、またその死に方に招かれているのである。
以上のことから「健全な教職者」は、真の牧者であるキリストに倣う者であることがわかる。それでは、具体的にはどのように教会と関わっていくべきなのか。理想はわかってもそこに向かうには、困難 を覚えるものである。
しかし、そのような自分自身ではなく聖書を開くとき、その困難は自分を偶像化しているゆえの困難であって、聖書が求めているものではないことがわかる。使徒パウロはこう言っている。
「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。」
パウロは、かつてキリストに逆らっていた自分。教会を迫害していた自分に向き合い、その罪深さをキリストの前に確認し、だからこそ神のあわれみを受けたことを証ししている。それは、パウロ自身が「死者の中からよみがえったイエス・キリスト」をいつも思っているからである。そのキリストの光に照らされるとき、自分自身の醜さが浮き彫りにされ、ただ神の憐れみによって立たされている恵みだけが残るのである。パウロは言う。
「私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。」
神の前に赦された罪人としての自覚と、そのようなものを顧みてくださり、ご自身の憐れみと赦しの霊の中に置かれている恵みに生かされるとき、教職者はこう言わざるをえなくなる。
「私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。」
神の前に感謝が溢れる歩み。自分を誇るのではなく、神に赦され、しかもその神の業を担うようにと選んでくださった恵み。その現実に向き合わされるとき、教職者はキリストの弟子として健全であると言えるのではないだろうか。だれも自分で自分のことを健全だとは言えない。しかし、聖書によってそのみことばを眼鏡にして物事を捉えようとするなら、健全な教職者とされていくのではないだろうか。
3.まとめ
健全な教会と教職者について考えてきたが、冒頭での問いであった、神が人間にその栄光の業を委ねたその答えの一つが見えてきたと思う。それは「栄光の福音」を私たちに委ねた神は、かの日に農夫が収穫の分け前に預かるように、労苦をともに味わった同労者としてその喜びを愛する者たちと分かち合いたいのだということである。つまり、神の喜びを我が喜びとすることである。健全な教会はそのために神に最善を尽くしてキリストを告白し礼拝をささげる群れであり、健全な教職者はその教会から神への感謝とともに生み出されていく。そして、生み出された教職者は健全な教会の維持に努める。そこに相互作用があり健全化スパイラルが生まれる。そして、その業はパウロからテモテへとその業が受け継がれていったように、更に次の世代にその健全ささえも受け継がれるのである。その維持に欠かせないのが、神のことば「聖書」である。
「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」Ⅱテモテ3:16~17
【参考文献】舟喜順一『聖書の教える教会について』日本日曜学校助成協会,1987年
主こそ疫病からあなたを救い出される
詩篇
91篇
1,いと高き方の隠れ場に住む者その人は全能者の陰に宿る。
2,私は主に申し上げよう。「私の避け所私の砦私が信頼する私の神」と。
3,主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。
4,主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。
5,あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。
6,暗闇に忍び寄る疫病も真昼に荒らす滅びをも。
7,千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。
8,あなたはただそれを目にし悪者への報いを見るだけである。
9,それはわが避け所主をいと高き方をあなたが自分の住まいとしたからである。
10,わざわいはあなたに降りかからず疫病もあなたの天幕に近づかない。
11,主があなたのために御使いたちに命じてあなたのすべての道であなたを守られるからだ。
12,彼らはその両手にあなたをのせあなたの足が石に打ち当たらないようにする。
13,あなたは獅子とコブラを踏みつけ若獅子と蛇を踏みにじる。
14,「彼がわたしを愛しているからわたしは彼を助け出す。彼がわたしの名を知っているからわたしは彼を高く上げる。
15,彼がわたしを呼び求めればわたしは彼に答える。わたしは苦しみのときに彼とともにいて彼を救い彼に誉れを与える。
16,わたしは彼をとこしえのいのちで満ち足らせわたしの救いを彼に見せる。」
大切なことは、私たちが、いつも主を愛していることである。(14節)
この詩篇91篇を今年の道標としよう。主を愛し、主に信頼する者を、主は溢れるばかりの祝福と恵みをもって守ってくださる。疫病すら主の敵ではない。むしろ、このような目に見えない疫病が蔓延しているときだからこそ、絶対者なるお方。完全なるお方。唯一の主なる神に信頼すべきである。
今日も、全能者なる主の御翼の陰に宿ろう。母鳥の翼の陰で安らぐひな鳥のように、からだに母の温もりをはらませて、まるく膨らむひな鳥のように、主の愛を私たちの全身に帯びて、今日一日だけでなく、今年一年、これからの全ての人生において、そのように歩んでいこう。
「わたしが休ませてあげます」 聖書箇所 マタイの福音書11章20節~30節
序
今年は、皆さんにとってどんな一年だったでしょうか。私は、正直に言うとかなり疲れを覚える一年であったと感じています。私は2018年の4月から白石教会の牧師として奉仕させていただいておりますが、体内時計が狂うような感覚は、今年の春からのコロナ騒動が初めてです。
これまで、葬儀が続いたり、奉仕が続いて忙しいという疲れはありましたが、それは牧師としての日常であり、普通のことです。しかし、今年は普通ではありませんでした。
まず週日の集会を休会にしなければならないという非日常。聖書研究会や祈祷会までも停止する、そして何よりも会堂での礼拝をやめるというのは、37年の私のクリスチャン人生の中で初めてのことです。また説教原稿を土曜日までに到着するように準備するとか、一度、事前に説教を録画して日曜日に配信するとか、これまで考えていなかった方法で主の日の備えをするというのは、私の体内時計を大きく狂わせました。
今は、非日常が続いているとはいえ、春の時のような無理はしていませんので、随分心が軽くなりました。
そんな一年を振り返って、ふと思ったのは、今年の年間聖句に「あなたの行く道すべてにおいて主を知れ」とありますが、本当に「すべての道」で、どんな時にも主を知っていたか。それは言い換えると、どんな困難があったとしても、また、嬉しいことが続いたときも、いつでも主を認め、主を愛し、主に栄光を帰していたのか。それが問われました。
というのも、私たちクリスチャンは主を信じ、主の前に重荷を降ろし、主に従う者で、確かに主のくびきも負う者とされましたが、そのくびきが本当に負いやすいものだったのか。その荷は軽かったのかと言えば、そうではない気がするからです。イエス様を信じて、本当に私は休んで、疲れを癒されているのか。そして、主のくびきの売りである「負いやすさ」を味わっているのか。主の荷物の軽さを実感しているか。そのことを思わされるのです。
そのように一年を振り返り、自分の歩みが果たして主の前に相応しかったのか。そのことを今日、このマタイ11章20節以降のみことばから学べることは、神様の摂理、そのご配慮は素晴らしいと言わざるを得ません。
今日の中心聖句は、有名な28節のみことばですが、これは多くの教会の屋外掲示板にでもよく見るみことばです。それは、イエス様を信じたら、そのようになれますよと言う福音だからです。
皆さんはいかがでしょうか。主の前に重荷を降ろして休んでいる一年だったでしょうか。たましいに安らぎを覚える一年だったでしょうか。
1.さばきの日には罰が
今日の説教は、20節から24節と25節から30節に分けることができますが、実はこの25節から30節が11章全体の結論となっています。
この11章の中心的テーマはバプテスマのヨハネの質問から始まりましたが、主の業、主のしるしによってイエスこそキリストなのだということを判断するということだと言えます。だからイエス様は、ヨハネに対しては5節にあるように、聖書で預言されてきたメシア(キリスト)はわたしで間違いないのだと信じなさいと言われたのです。また、群衆に対しても、神様がヨハネを預言者エリヤの再来として遣わし、そしてメシアとして主イエスを遣わすというしるしを明らかに示しているのに、なぜそのまま信じないのかと言われました。「笛吹けど踊らず」と、神様がせっかく吹いている救いの笛の音でなぜ踊らないのかと嘆かれたのです。
そして、今日の20節以降で、主イエスの「力ある業」というしるしによって悔い改めないとどうなるのかが語られます。それは、悔い改めなかったら滅びる。そのことが、主イエスの嘆きのことばからはっきり知ることができます。聖書は決してカルト宗教のように怖がらせて信じさせようとはしません。でも、このような主イエスの嘆きの言葉を通して、私たちに対する神様の求めを知ることができます。
ここまで神様がお膳立てして、誰でもわかるようにはっきりと示されていながら、どうして罪を悔い改め、主イエスを信じないのか。そのように20節では、悔い改めない町々をイエス様が責め始められたと言われています。どのような町々をイエス様は責めたのでしょうか。21節~24節。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
ここでイエス様は、コラジン、ベツサイダ。そしてカペナウムという町に対して嘆かれているのがわかります。それも、ツロとシドン、そしてソドムという町の方がマシだと言っているのです。これはどういう意味でしょうか。
コラジン、ベツサイダ、そしてカペナウムというのは、イエス様が育ったナザレも含むガリラヤ湖沿岸の町々です。それは、この11章が語られている時点で、主イエスの教えを聴き、病人や悪霊に憑かれた人を癒す業を見てきた地域の町々です。一方、ツロとかシドンというのは、地中海沿いの異邦人の町です。それは、当時、ユダヤ人たちからは偶像崇拝の罪人として蔑まれていたまた異邦人が住む町でした。またソドムというのは、アブラハムの時代にその堕落のために火と硫黄によって滅ぼされた、主のさばきによって滅ぼされた代表のような町です。
でもイエス様は、ガリラヤ湖周辺の人たちよりも、そのツロ、シドン、そしてソドムの人たちの方が、罰が軽いと言うのです。それは、ガリラヤ湖周辺の人たちは、神のしるしである主イエスに既に出会い、その教えを聴き、その力ある業を見たからです。力ある業というのは、5節で言われているメシアとしての証拠になる業のことですが、その証拠を見たのに信じない。ここに、罪の重さ、その罰の重さがあるということです。
そのくらい、神が明らかにしたことを受け取らない責任が重いことを言っています。それも、単なる預言者ではない、神ご自身が、肉眼でわかるように人間となって来てくださったという、そこまでされてもなお信じないのか。その責任は重いぞと主イエスは仰っているのです。
私たちも、いつも主イエスご自身に敏感でありたいと思います。特に、クリスチャンになってからの方が危険です。それは主からの祝福が毎日続くので、恵みに慣れてしまうからです。23節のカペナウムが自分たちは天にあげられる。つまり天国に行けると自負していたことがわかります。でも、その救いに対する神への感謝もなく、自分たちの功績であるかのように思い上がっているのならば、それはハデス。つまり地獄行きだと言われているくらい厳しいことばです。
私たちも、本来ならば、滅ぼされても仕方のない者であるという自覚が大切です。そこに気が付かなければ、罪の悔い改めができないからです。私たちは信仰告白でこのように罪を告白しています。
「人は、アダムとエバをはじめとして、神に背き、罪の道を選び取りました。罪のゆえに、すべての人は創造主の御心にかなわず、造られたときの神の似姿を損ない、世界の秩序を混乱させ、悪と死に隷属させるもろもろの霊に身をゆだねました。」
これは神を離れてあるもともとの私たちの現実を言い表していると思います。この現実が自分にあると気が付くとき、そこに待っているのは「滅び」であると自覚するのです。だから、次の行動を主は待っておられる。笛の音を聴いて踊る子どものように、主によって示されたしるしに応答することに繋がっていきます。それが自分の罪を悔い改めることなのです。
2.たましいの安らぎ
だから主イエスは、その悔い改めた人々に語り掛けます。28節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
ここでイエス様は、「すべて」の人に語られているように思えますが、この「すべて」は「疲れた人、重荷を負っている人」にかかっている「すべて」です。それが悔い改めた人がようやく気付かされる自分の現実です。
神様はすべての人が真理を知って救われることを望んでおられますが、実際にイエス様を信じて休息を得ることができるのは、すべての人ではありません。自分が神様の前にどんな存在か。だからこそ、神様の憐みにすがるほかない。その現実を知って、そういう自分を受け入れるためには、先ほどのカペナウムの人々が思っていた自分の力で天国に行けるという思い上がり、神の憐みは必要ない。神の救いは必要がないという高慢に気付き、悔い改めなければならないのです。
その高慢な気持ちが拭えていないと、イエス様のこの招きのことばに正しく応答することができません。29節をご覧ください。イエス様はこのように仰っています。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
イエス様が「わたしは心優しく、へりくだっている」と言われた。この言葉を聞いて、違和感がある人は、高慢が拭いきれていないと思います。この言葉を私が言ったのであれば、なんだこいつは高慢だなと思われても仕方がないのですが、本当にへりくだって来てくださったイエス様が、そのことを教えるためにあえてこう仰っていることに対しても引っかかるとしたら、それは、まだ自分の罪の重さ、主の前に高ぶっていることになるのです。実は、私が中学生のときに、ここを初めて読んだときに、キリストって偉そうだなと思いました。
本当にへりくだっている人は、こんなことを言えるはずがないと思いました。でも、そういう捉えが間違いだと、あとで気付かされました。それは、全知全能の神であるお方なのに、神としての在り方を捨てて、ご自分を無にして、とことん仕える者となってくださった。何よりも、私という罪人の罪を負って、つまりご自分を罪人と同じように卑しいところに置き、死んでくださったことを知ったからです。私のために十字架の死にまで従われた。
そのことがわかったときに、この主のへりくだりは真実だ。私のような不真実な者が「私はへりくだっている」と言うのとは全く意味が違う。イエス様こそ、真実なお方。わたしは道であり真理でありいのちです」と言われたお方。そのお方が私の神なのだと分かった時、私の心に平安が訪れました。そうすればたましいに安らぎが来ますと言われた、そのみことばが自分にうちに現実のものとなったのです。
そこで、ようやく私が主の前に疲れている者であり、重荷を負っている者であったことに気付かされたのです。
みなさんはいかがでしょうか。
この主イエスの招きは、これまで多くの人々を救い、真の休息を与え、真の安らぎを与えてきました。つまり救われてきたのです。でも、この言葉は、救いを信じたあとも、大切なみことば。主の招きです。
結び
今年、新型コロナウィルスで忙しかったことを冒頭でお話しました。体内時計が狂ったとも言いました。それで、かなり疲れを覚え、今もその疲労感は続いています。
そこで、このみことばが今日、私自身を励ましてくれています。そうだ、主の許に降ろせば良いのだ。主のくびきは負いやすく、その荷は軽いのだ。そのことを思い巡らして、そこにへりくだって働いていられる主を仰ぐとき、また新しい力が湧いてきて、次の一歩があるのです。
私たちは主の許に重荷を降ろして休んでも良いのに、つい重荷を持ったまま頑張っているときがあります。それは、荷持ついっぱい風呂敷に詰めて担いだまま電車に乗るのと似ています。電車に乗ったのだから降ろせば楽になるのに、降ろさないで歯を食いしばって担いだまま。そんなことが、主イエスを信じたあとも起こって来る。
でも、ある時に気づかされるのです。その荷物と私ごとイエス様が背負ってくださっていることに。だから、わたしのくびきは負いやすい。わたしの荷は軽いのです。
主が私の重荷ごと負ってくださっているから。その究極的な出来事が十字架でした。十字架を背負って歩まれる主は、私、そしてあなたの罪の重荷ごと負われたのです。主が十字架に磔にされたのは、私のすべての罪の重荷までその身に帯びて、釘付けになったのです。
そして、そのように主の招き応答したもののことを、主は、それは天のお父様が選んで定めていたのだと太鼓判を押してくださっておられる。25節から27節のことばは、まさに私たちの救いには神様の選びがあって、その救いが私自身の至らなさでなくなることがないことを保証しています。
神様は、ここまでしてまで、あなたを愛し、その救いに、この恵みに、このイエス・キリストに気付いてほしい。わかってほしい。信じてほしいと迫ってくださっているのです。その神の愛を、あらためてこの2020年の最後に覚えて、また新しい年に向かわせていただきたいと思います。