日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

「わたしが休ませてあげます」 聖書箇所 マタイの福音書11章20節~30節


 

 今年は、皆さんにとってどんな一年だったでしょうか。私は、正直に言うとかなり疲れを覚える一年であったと感じています。私は2018年の4月から白石教会の牧師として奉仕させていただいておりますが、体内時計が狂うような感覚は、今年の春からのコロナ騒動が初めてです。
 これまで、葬儀が続いたり、奉仕が続いて忙しいという疲れはありましたが、それは牧師としての日常であり、普通のことです。しかし、今年は普通ではありませんでした。
 まず週日の集会を休会にしなければならないという非日常。聖書研究会や祈祷会までも停止する、そして何よりも会堂での礼拝をやめるというのは、37年の私のクリスチャン人生の中で初めてのことです。また説教原稿を土曜日までに到着するように準備するとか、一度、事前に説教を録画して日曜日に配信するとか、これまで考えていなかった方法で主の日の備えをするというのは、私の体内時計を大きく狂わせました。
 今は、非日常が続いているとはいえ、春の時のような無理はしていませんので、随分心が軽くなりました。
 そんな一年を振り返って、ふと思ったのは、今年の年間聖句に「あなたの行く道すべてにおいて主を知れ」とありますが、本当に「すべての道」で、どんな時にも主を知っていたか。それは言い換えると、どんな困難があったとしても、また、嬉しいことが続いたときも、いつでも主を認め、主を愛し、主に栄光を帰していたのか。それが問われました。
 というのも、私たちクリスチャンは主を信じ、主の前に重荷を降ろし、主に従う者で、確かに主のくびきも負う者とされましたが、そのくびきが本当に負いやすいものだったのか。その荷は軽かったのかと言えば、そうではない気がするからです。イエス様を信じて、本当に私は休んで、疲れを癒されているのか。そして、主のくびきの売りである「負いやすさ」を味わっているのか。主の荷物の軽さを実感しているか。そのことを思わされるのです。
 そのように一年を振り返り、自分の歩みが果たして主の前に相応しかったのか。そのことを今日、このマタイ11章20節以降のみことばから学べることは、神様の摂理、そのご配慮は素晴らしいと言わざるを得ません。
 今日の中心聖句は、有名な28節のみことばですが、これは多くの教会の屋外掲示板にでもよく見るみことばです。それは、イエス様を信じたら、そのようになれますよと言う福音だからです。
 皆さんはいかがでしょうか。主の前に重荷を降ろして休んでいる一年だったでしょうか。たましいに安らぎを覚える一年だったでしょうか。
 
1.さばきの日には罰が
 今日の説教は、20節から24節と25節から30節に分けることができますが、実はこの25節から30節が11章全体の結論となっています。
 この11章の中心的テーマはバプテスマのヨハネの質問から始まりましたが、主の業、主のしるしによってイエスこそキリストなのだということを判断するということだと言えます。だからイエス様は、ヨハネに対しては5節にあるように、聖書で預言されてきたメシア(キリスト)はわたしで間違いないのだと信じなさいと言われたのです。また、群衆に対しても、神様がヨハネ預言者エリヤの再来として遣わし、そしてメシアとして主イエスを遣わすというしるしを明らかに示しているのに、なぜそのまま信じないのかと言われました。「笛吹けど踊らず」と、神様がせっかく吹いている救いの笛の音でなぜ踊らないのかと嘆かれたのです。
 そして、今日の20節以降で、主イエスの「力ある業」というしるしによって悔い改めないとどうなるのかが語られます。それは、悔い改めなかったら滅びる。そのことが、主イエスの嘆きのことばからはっきり知ることができます。聖書は決してカルト宗教のように怖がらせて信じさせようとはしません。でも、このような主イエスの嘆きの言葉を通して、私たちに対する神様の求めを知ることができます。
 ここまで神様がお膳立てして、誰でもわかるようにはっきりと示されていながら、どうして罪を悔い改め、主イエスを信じないのか。そのように20節では、悔い改めない町々をイエス様が責め始められたと言われています。どのような町々をイエス様は責めたのでしょうか。21節~24節。
「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行なわれた力あるわざが、もしもツロとシドンで行なわれたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
 ここでイエス様は、コラジン、ベツサイダ。そしてカペナウムという町に対して嘆かれているのがわかります。それも、ツロとシドン、そしてソドムという町の方がマシだと言っているのです。これはどういう意味でしょうか。
 コラジン、ベツサイダ、そしてカペナウムというのは、イエス様が育ったナザレも含むガリラヤ湖沿岸の町々です。それは、この11章が語られている時点で、主イエスの教えを聴き、病人や悪霊に憑かれた人を癒す業を見てきた地域の町々です。一方、ツロとかシドンというのは、地中海沿いの異邦人の町です。それは、当時、ユダヤ人たちからは偶像崇拝の罪人として蔑まれていたまた異邦人が住む町でした。またソドムというのは、アブラハムの時代にその堕落のために火と硫黄によって滅ぼされた、主のさばきによって滅ぼされた代表のような町です。
 でもイエス様は、ガリラヤ湖周辺の人たちよりも、そのツロ、シドン、そしてソドムの人たちの方が、罰が軽いと言うのです。それは、ガリラヤ湖周辺の人たちは、神のしるしである主イエスに既に出会い、その教えを聴き、その力ある業を見たからです。力ある業というのは、5節で言われているメシアとしての証拠になる業のことですが、その証拠を見たのに信じない。ここに、罪の重さ、その罰の重さがあるということです。
 そのくらい、神が明らかにしたことを受け取らない責任が重いことを言っています。それも、単なる預言者ではない、神ご自身が、肉眼でわかるように人間となって来てくださったという、そこまでされてもなお信じないのか。その責任は重いぞと主イエスは仰っているのです。
 私たちも、いつも主イエスご自身に敏感でありたいと思います。特に、クリスチャンになってからの方が危険です。それは主からの祝福が毎日続くので、恵みに慣れてしまうからです。23節のカペナウムが自分たちは天にあげられる。つまり天国に行けると自負していたことがわかります。でも、その救いに対する神への感謝もなく、自分たちの功績であるかのように思い上がっているのならば、それはハデス。つまり地獄行きだと言われているくらい厳しいことばです。
 私たちも、本来ならば、滅ぼされても仕方のない者であるという自覚が大切です。そこに気が付かなければ、罪の悔い改めができないからです。私たちは信仰告白でこのように罪を告白しています。
「人は、アダムとエバをはじめとして、神に背き、罪の道を選び取りました。罪のゆえに、すべての人は創造主の御心にかなわず、造られたときの神の似姿を損ない、世界の秩序を混乱させ、悪と死に隷属させるもろもろの霊に身をゆだねました。」
 これは神を離れてあるもともとの私たちの現実を言い表していると思います。この現実が自分にあると気が付くとき、そこに待っているのは「滅び」であると自覚するのです。だから、次の行動を主は待っておられる。笛の音を聴いて踊る子どものように、主によって示されたしるしに応答することに繋がっていきます。それが自分の罪を悔い改めることなのです。
 
2.たましいの安らぎ
 だから主イエスは、その悔い改めた人々に語り掛けます。28節
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
 ここでイエス様は、「すべて」の人に語られているように思えますが、この「すべて」は「疲れた人、重荷を負っている人」にかかっている「すべて」です。それが悔い改めた人がようやく気付かされる自分の現実です。
 神様はすべての人が真理を知って救われることを望んでおられますが、実際にイエス様を信じて休息を得ることができるのは、すべての人ではありません。自分が神様の前にどんな存在か。だからこそ、神様の憐みにすがるほかない。その現実を知って、そういう自分を受け入れるためには、先ほどのカペナウムの人々が思っていた自分の力で天国に行けるという思い上がり、神の憐みは必要ない。神の救いは必要がないという高慢に気付き、悔い改めなければならないのです。
 その高慢な気持ちが拭えていないと、イエス様のこの招きのことばに正しく応答することができません。29節をご覧ください。イエス様はこのように仰っています。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
 イエス様が「わたしは心優しく、へりくだっている」と言われた。この言葉を聞いて、違和感がある人は、高慢が拭いきれていないと思います。この言葉を私が言ったのであれば、なんだこいつは高慢だなと思われても仕方がないのですが、本当にへりくだって来てくださったイエス様が、そのことを教えるためにあえてこう仰っていることに対しても引っかかるとしたら、それは、まだ自分の罪の重さ、主の前に高ぶっていることになるのです。実は、私が中学生のときに、ここを初めて読んだときに、キリストって偉そうだなと思いました。
 本当にへりくだっている人は、こんなことを言えるはずがないと思いました。でも、そういう捉えが間違いだと、あとで気付かされました。それは、全知全能の神であるお方なのに、神としての在り方を捨てて、ご自分を無にして、とことん仕える者となってくださった。何よりも、私という罪人の罪を負って、つまりご自分を罪人と同じように卑しいところに置き、死んでくださったことを知ったからです。私のために十字架の死にまで従われた。
 そのことがわかったときに、この主のへりくだりは真実だ。私のような不真実な者が「私はへりくだっている」と言うのとは全く意味が違う。イエス様こそ、真実なお方。わたしは道であり真理でありいのちです」と言われたお方。そのお方が私の神なのだと分かった時、私の心に平安が訪れました。そうすればたましいに安らぎが来ますと言われた、そのみことばが自分にうちに現実のものとなったのです。
 そこで、ようやく私が主の前に疲れている者であり、重荷を負っている者であったことに気付かされたのです。
 みなさんはいかがでしょうか。
 この主イエスの招きは、これまで多くの人々を救い、真の休息を与え、真の安らぎを与えてきました。つまり救われてきたのです。でも、この言葉は、救いを信じたあとも、大切なみことば。主の招きです。
 
結び
 今年、新型コロナウィルスで忙しかったことを冒頭でお話しました。体内時計が狂ったとも言いました。それで、かなり疲れを覚え、今もその疲労感は続いています。
 そこで、このみことばが今日、私自身を励ましてくれています。そうだ、主の許に降ろせば良いのだ。主のくびきは負いやすく、その荷は軽いのだ。そのことを思い巡らして、そこにへりくだって働いていられる主を仰ぐとき、また新しい力が湧いてきて、次の一歩があるのです。
 私たちは主の許に重荷を降ろして休んでも良いのに、つい重荷を持ったまま頑張っているときがあります。それは、荷持ついっぱい風呂敷に詰めて担いだまま電車に乗るのと似ています。電車に乗ったのだから降ろせば楽になるのに、降ろさないで歯を食いしばって担いだまま。そんなことが、主イエスを信じたあとも起こって来る。
 でも、ある時に気づかされるのです。その荷物と私ごとイエス様が背負ってくださっていることに。だから、わたしのくびきは負いやすい。わたしの荷は軽いのです。
 主が私の重荷ごと負ってくださっているから。その究極的な出来事が十字架でした。十字架を背負って歩まれる主は、私、そしてあなたの罪の重荷ごと負われたのです。主が十字架に磔にされたのは、私のすべての罪の重荷までその身に帯びて、釘付けになったのです。
 そして、そのように主の招き応答したもののことを、主は、それは天のお父様が選んで定めていたのだと太鼓判を押してくださっておられる。25節から27節のことばは、まさに私たちの救いには神様の選びがあって、その救いが私自身の至らなさでなくなることがないことを保証しています。
 神様は、ここまでしてまで、あなたを愛し、その救いに、この恵みに、このイエス・キリストに気付いてほしい。わかってほしい。信じてほしいと迫ってくださっているのです。その神の愛を、あらためてこの2020年の最後に覚えて、また新しい年に向かわせていただきたいと思います。