のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2021年2月7日 白石教会礼拝説教

説教題 「見よ まことのメシアを」
聖書箇所 マタイの福音書12章38節~45節
 
 

 先週、何が心に満ちているかという題でメッセージしました。悪霊か、聖霊か。そのことによって、イエス・キリストというお方を見る目も変わって来るからです。その目を先入観と言ったり、不信仰と言ったりもすると思います。
 聖書も、読む私たちに、いつもチャレンジを与えています。このようなことが本当に起こるのか。本当に起きたのか。神は本当におられるのか。私達は本当に罪を持っているのか。イエスというお方は神なのか、人間なのか。聖書は真実か。本当に神の言葉なのか。ある神学者が言いました。聖書の疑問を解くのは簡単なことだ。それは、神を信じ、全能の神が与えた啓示として、へりくだってそのまま信じることだと。
そこに、人間の理性で理解できないこと、受け入れられないことだと言って、人間の理解の中に引き込んで解釈しようとするから矛盾に見えたり、誤った先入観によって誤った仮説をもとに誤った解釈が生まれるのです。
 
 イエス様の周囲にいるパリサイ人たちも、同じような思いになっていたと考えられます。目の前で、中風の人が癒されて立ち上がることや、悪霊につかれて目も口もきかない人がいやされたりすることを目の当たりにして、本当は、そのような癒しや悪霊の追い出しの奇蹟こそが真のメシアである証明であったのに、信じないばかりか、悪霊の力によって行っているのだとケチをつけるありさまでした。
 前回は、そのようにメシアとしての証明にケチをつけ、信じるように導く聖霊を冒瀆していることを見てまいりました。
 
 今朝の箇所は、これまでのイエス様のしるしとしての奇蹟をさんざん見て来た人たちの言葉からのお話です。彼らはイエス様のなさることを群衆に混ざってしるしを見ていた人たちです。そのしるしを行うイエスこそ真のメシアである証拠だと、福音書記者マタイはイザヤ書42章を用いて指し示していましたが、ここに来て、あらためて、そのことを主イエスご自身が語られる。そういう場面です。「見よ、わたしこそまことのメシアなのだ。」そのことをともに味わってまいりたいと思います。
 
 
1.しるしを求める姦淫の時代
 38節
そのとき、律法学者、パリサイ人たちのうちのある者がイエスに答えて言った。「先生。私たちは、あなたからしるしを見せていただきたいのです。」
 
群衆に紛れていた律法学者、パリサイ人たちがイエス様に求めました。「しるしを見せてほしい」と。この彼らの態度は、もっと、誰もが納得する刺激的な奇蹟を見せてくれたら真のメシアであると認めようということです。それも自分たちの理解に合ったしるしです。これまで、さんざん癒し、奇蹟を目の当たりにしてきたはずなのに、それだけでは足りないということです。
 
ここに、人間の罪深さを見ます。人は見えない神様を見るようにして生きるように造られました。しかし、神から離れ、神の御心よりも自分の心を第一にしていったときに、人は自分の目に見える神々を作るようになったのです。もともとは、神の息が鼻から吹き入れられて生き物となって、霊によって神と交わるようにされていたのに、肉眼で見えるものが全てという物質的な動物に堕落したのです。
 
だから、目に見えることでのみ判断するのです。本来は与えられていた霊によって、霊の目、霊の耳によって知っていくべきなのに、神から離れた結果、霊性が壊れてしまいました。だから、聖霊の助けが必要なのです。しかし、それさえも拒んで、冒瀆し、さらに目に見える刺激を求める。ここに、私達にもある、肉の心、物質主義を覚えさせられます。
 
エス様は山上の教えで言われました。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです」と。そのきよさが失われているからこそ、神様が聖霊によって助け舟を与えてくださっていることを、もう一度覚えたいと思います。
ここでイエス様はお答えになりました。39節、40節。
しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。
 イエス様は、そのしるしを求める姿勢を「悪い、姦淫の時代」であると強いお言葉で言及されています。それは、律法学者やパリサイ人たちは表向き聖書を学び、ユダヤ人たちの指導者でもあり、だれよりも神に対して信仰が篤いと思われていながら、実は神を信じているのではなく、宗教者としてのプライドに立っているに過ぎない。それは神を愛しているのではなく、おきてをきちんと守っている自分が凄いという、自己中心の偶像に仕えていることへの指摘です。神以外のものに執着しているならば、それが偶像礼拝であり、神様に対する姦淫の罪です。この世を愛するか神を愛するか。自分を愛するか神を愛するか。
 
パリサイ人たちは自分の行いに立っていました。律法を守っているという自分を誇っていました。そのような行いに立つ信仰には、いつも目に見える成果主義が伴います。きちんとできているか、見えるようにその成果を誇るのです。それこそ、自分が信仰者であるしるしなのだと。だから、より刺激の強い、目に見える業を求めます。際立つしるしを要求するのです。
 
 しかし、イエス様は、ここでメシアのメシアである究極のしるしについて言及を始めるのです。それが「預言者ヨナのしるし」です。
 昨年、11月にヨナ書を4回に分けて講解説教しましたが、その2回目の時に、預言者ヨナが体験した魚に呑みこまれたことをお話しました。それは本来ならばありえない出来事です。人が3日間もたとえ大きかったとはいえ、魚の腹の中で生き続けることは。だからしるしなのです。つまり、そのことはイエス様の十字架の死を表す出来事でした。しかし、モデルに過ぎませんからヨナは実際には死んでいません。三日間、死のような経験を通して神様に再献身して吐き出されるのです。
 
 その出来事こそ、まことのメシアとしてのしるしなのだ。それは、「人の子も三日三晩、地の中にいる」とあるからです。このことは、十字架刑のあと墓に葬られることと、その霊がよみにまでくだることを意味していると考えられます。真のメシアこそ、実は死とよみがえりを通して救いをもたらすお方であるということです。
 
 事実イエス様は、私たち罪人の身代わりに十字架に磔にされ死んで、墓に葬られ、よみに下り、三日目に死人のうちよりよみがえりました。しかし、このときのパリサイ人たちにはわからなかったでしょう。まことのメシアが苦難のしもべであることを。
 イエス様はそのように聖書の先生でありながら、聖書に掲示されている本当のメシアを正しく知らず、信じないパリサイ人たちに、さらに聖書を用いて、ご自分こそメシアであることを述べられます。
 
2.まことのメシアを受け入れる
 41節、42節を読みます。
ニネベの人々が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。
 イエス様は、ここでさばきのとき、つまり「言い開きをする場面」でイスラエル人であるあなたがたよりも、異邦人であるニネベの人たちや、ソロモンの時代の南の女王があなたがたにまさっているのだ。むしろ彼らの方が天の御国にふさわしいことを告げます。
 それはどうしてでしょうか。それは、ニネベの人たちはヨナの説教だけで信じて悔い改めたからです。南の女王も、ソロモンの噂を聞いて、その知恵を聴くために遠路はるばる時間もお金も、労力も使って、自分を犠牲にしてもやって来たということです。
 それなのにパリサイ人たちは目の前にまことのメシアが現れても信じないどころか疑い、蔑み、冒瀆した。信じようとしている人をも妨害していました。
 
 ここでイエス様が仰りたいことは何でしょうか。それは、この41節と42節で繰り返されていることです。つまり、「しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」「しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」
 それは、見よ、わたしこそ真のメシアなのだということです。ニネベの人たちは、イスラエル預言者であるヨナの説教だけでも悔い改めた。南の女王は、小さなイスラエル王国の王様ソロモンの知恵が聞きたいというだけで、遠い道のりをわざわざやって来た。しかし、目の前に本物の救い主が現れているというのに、これ以上のしるしはないはずなのに、あなたがたは信じない。
 
 それは、どうしてか。それは、先週のお話に繋がりますが、何に心が満ちているか、支配されているか。その問いがまだ続いているからです。
 そのことをあらためてイエス様は喩えを用いて語られます。43節から45節。
「汚れた霊が人から出て行って、水のない地をさまよいながら休み場を捜しますが、見つかりません。そこで、『出て来た自分の家に帰ろう。』と言って、帰って見ると、家はあいていて、掃除してきちんとかたづいていました。そこで、出かけて行って、自分よりも悪いほかの霊を七つ連れて来て、みなはいり込んでそこに住みつくのです。そうなると、その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります。邪悪なこの時代もまた、そういうことになるのです。」
 
 それは、私達自身の心の中を家に譬えています。心の中というよりも、私達の体も含めた人格と言った方が良いのかも知れません。それは、支配されるときは、それが心だけの問題ではなくなるからです。神様に支配されたとしても、悪霊に支配されたとしても、その支配は必ず言動に現れるからです。
 
 もともと私にも悪霊が住んでいました。その状態は、以前にお話したエクソシストの映画のようにオカルト的な状態ばかりが悪霊の支配ではありません。一見、善良そうに振る舞っているように見えて、実はいつも腹黒いこと、淫らなこと、そして神は必要ないとする価値観で満たされているということもそうです。それで、とりあえずは自由だと思っていました。しかし、悪霊に満たされているとは言っても、そのお部屋のかたちは神のかたちをしていますから、いくら悪霊で充満しているように見えても、決して満たされません。
 そこであるときに、聖書に出会いました。すると聖書を読み教会に行っているうちに、段々と私という部屋が家畜小屋のように汚れていることが分かってきました。みことばの光に照らされて、汚いところがよく見えるようになりました。しかも、その掃除をするために来て下さったのがイエス様だとわかると、イエス様をお迎えして、悪霊は出て行き、きれいになりました。
 
 でも、悪魔はほえたける獅子のように食い尽くすべきものを探し求めながら動きまわっていますから、ときどき、ピンポーンとやって来て、消火器買いませんかとか、布団買いませんかとかやってくるわけです。必要なものだと思わせて買わせようとするのと同じように、礼拝しなくてもいいんじゃないとか、聖書は毎日読まなくても大丈夫とか、楽で自由だと思わせて、骨抜きにします。
 家が片付いていますから、消火器でも布団でもインターネットでもどんどん買っても置けてしまいます。そのうちにせっかく片付いていた部屋が、以前よりもごちゃごちゃになって、家畜小屋よりもひどいゴミ屋敷になるのです。「その人の後の状態は、初めよりもさらに悪くなります」と言われている通りです。
 
結び
 ここで、大切なのはきれいに片付いているうちに、きちんと次の行動を始めることです。具体的に言うならば、イエス様を信じてきれいにしてもらったら、洗礼を受けて礼拝に来続けることです。そして、毎日、お祈りして聖書を読んで神様と交わることです。さらには教会の平日の集会にも参加して、悪霊が住むスキを与えないことです。そうすれば、主のみことばがあなたを守ってくれます。
 使徒パウロはこのように言っています。
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽して互いに教え、
互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝に溢れて心から神に向かって歌いなさい。」
コロサイ3:16
 これは、キリストを信じてきよめていただいたときに、素直にキリストをお迎えし、キリストでいっぱいにしようということです。パリサイ人たちは、その人格さえも悪霊に支配されてしまいました。それは聖霊の助けを拒み、神のみことばよりも自分の価値観や判断を優先させ続けたからです。それでもイエス様は、彼らにこのように語っているということは、彼らの目が開かれることを願っているということです。イエス様は、どんな罪人も頑なな人をも招いておられるということです。
 
 それは、単に病気を治したり、悪霊を追い出す力を持っているだけでなく、そのような罪人、神を冒涜するような人だからこそ救うために、その罪を負って、十字架で殺されるために来られた救い主だからです。そういう、私のため、あなたのために死んで黄泉にまで下り、神様の裁きをその身に受けることで救う真のメシアだからです。だから、主イエスを信じるならば、どんな罪も赦されて神のこどもにしていただけるのです。
 これが、真のメシアであるしるしです。真のメシア、キリスト救い主は、あなたのために死ぬお方。そして、三日目によみがえるお方。これが真のメシアのしるしです。
 
 今日、イエス様は言われました。
しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。見よ。真のメシアを。

 

祈り