のりさん牧師のブログ

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本日から2021年度の北海道聖書学院授業開始

 いよいよ2021年度の授業が始まります。私(川﨑)が担当するのは「キリスト教会史」です。

 ところが北海道聖書学院のホームページを見ると「キリスト教史」となっています。これはどちらが正しいのか。それともどちらでも良いのか。

 おそらく多くの人はどっちでも良いと思っているのではないかと推察します。しかし、私としては「キリスト教会史」にこだわりたいと思っています。

 何をこだわったいるのかと言うと、キリスト教史とは、キリスト教の歴史であるが、キリスト教会史は、キリスト教会の歴史だということです。それは人類の歴史と人間の歴史に違いがあるように、ただ歴史的に起こったことを客観的に並べて覚えるのではなく、その出来事が今の私とどのように関わっているのか解釈し考察するということまで含むということなのです。

 それだけに、今の自分の立ち位置をしっかりと確認する必要があり、その立ち位置からの歴史観があることを、まず捉えるのです。

 歴史解釈は、その史観によって随分捉え方が変わります。例えるならば、広島、長崎への原爆投下を正義とするか、悪とするかは、戦勝国と敗戦国の違いや、加害者と被害者の違いなど、その立場で、その意味が変わるように、単に一般的な世界史としてではなく、キリスト教会としてローマ帝国をどう見るかなど、その見方は大きく異なるはずです。

 

 それは単なる一教派という狭い概念ではなく、キリスト教会として、キリスト者として、これからどのように歩むかに繋がっていくと思います。

 

 そのように、私はキリスト教会史を神学生の皆さんと一緒に考えたいのです。

受難週 第40日 土曜日

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みことばによる黙想

 

その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。

以前、夜イエスのところに来たニコデモも、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを、百リトラほど持ってやって来た。
彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた。
エスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった。

その日はユダヤ人の備え日であり、その墓が近かったので、彼らはそこにイエスを納めた。
ヨハネ福音書 19章38~42節

受難週 聖金曜日

 

 

●聖書のことばからキリストの受難を味わいましょう。

"私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。
それゆえ、わたしは多くの人を彼に分け与え、彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。彼が自分のいのちを死に明け渡し、背いた者たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、背いた者たちのために、とりなしをする。」"
イザヤ書 53章1~12節

 

 

"さて、十二時になったとき、闇が全地をおおい、午後三時まで続いた。
そして三時に、イエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」訳すと「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
そばに立っていた人たちの何人かがこれを聞いて言った。「ほら、エリヤを呼んでいる。」
すると一人が駆け寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて、葦の棒に付け、「待て。エリヤが降ろしに来るか見てみよう」と言って、イエスに飲ませようとした。
しかし、イエスは大声をあげて、息を引き取られた。
すると、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。
エスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て言った。「この方は本当に神の子であった。」"
マルコの福音書 15章33~39節


 

"キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。
ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。
キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。
あなたがたは羊のようにさまよっていた。しかし今や、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰った。"
ペテロの手紙 第一 2章22~25節


●友よ歌おう11番

「ドロローサ」

 

1
私の罪のために 重い十字架負わされ

あざける人の中を耐えてゆかれたイエス

ドロローサ ドロローサ カルバリーの丘へ

ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

 

2

私の胸の中に 刻まれた主の十字架

いばらの冠つけて 祈られる主の姿

ドロローサ ドロローサ 悲しみの丘へ

ドロローサ ドロローサ のぼっていく道

 

3

私は行こう今日も 主の歩まれた道を

血汐のあとをたどり 十字架を負ってつづこう

ドロローサ ドロローサ よろこびの丘へ

ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

 

4

血汐の道はつづく 十字架の跡のこして

あがないの丘越えて 父なる神のみ座に

ドロローサ ドロローサ のぼってゆく道

 

●讃美歌136番、讃美歌21-310番

  教会福音讃美歌129番、新聖歌114番

  

「血潮したたる」

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血しおしたたる 主のみかしら
とげに刺されし 主のみかしら。
悩みと恥に やつれし主の
痛ましきさま だれのためぞ。


2
主の苦しみは わがためなり。
われこそ罪に 死すべきなり。
かかるわが身に 代わりましし
主のあわれみは いととうとし。


3
慕しき主よ、 わが牧者よ、
はかり知られぬ 愛の泉。
迷うこの身を たずねもとめ
導きましし 日ぞなつかし


4
主よ、 主のもとに 帰る日まで、
十字架のかげに 立たせたまえ。
かくも悩める 主をはなれて
われはいずこに 去り行くべき。


5
なつかしき主よ、 はかり知れぬ
十字架の愛に いかに応えん。
苦しみ悩む わが主のため
この身といのち すべて捧げん。


6
死すべき者を あがなう主よ、
十字架の光 見させたまえ。
み傷をあおぎ み手によらば
いまわのときも 安けくあらん。

 

"このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。"
エペソ人への手紙 1章7節

 

 

受難週 第37日 水曜日

イザヤ書26章20節、21節

20  さあ、私の民よ。 Is. 26:20  さあ、私の民よ。  あなたの部屋に入り、うしろの戸を閉じよ。  憤りが過ぎるまで、  ほんのしばらく身を隠せ。

21  それは、主がまさにご自分のところから出て、  地に住む者の咎を罰せられるからだ。  地は、その上に流された血をあらわにし、  そこで殺された者たちを再びおおうことはない。

 

ルカの福音書22章1~6節

1 さて、過越の祭りと言われる、種なしパンの祭りが近づいていた。
2 祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を探していた。彼らは民を恐れていたのである。
3 ところで、十二人の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンが入った。
4 ユダは行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡すか相談した。
5 彼らは喜んで、ユダに金を与える約束をした。
6 ユダは承知し、群衆がいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会を狙っていた。

 

 ダンテの「神曲」では9つの地獄の中のもっとも下位の地獄は、裏切り者の地獄です。それがさらに4つに区切られていて、一番内側の部分は主人を裏切った者の地獄です。その地獄の名は、主イエスを裏切った弟子ユダの名前からとって「ジュデッカ」と言います。その中心には神を裏切った堕天使ルシファーが氷漬けにされており、その口にイスカリオテのユダを銜えているのです。ユダこそが裏切りの最悪人と言いたいのだと思いますが、裏切ることは、ユダに限らず私たちにもよくあることではないでしょうか。私たちも神を裏切り、主イエスを裏切る者なのです。

 しかし、神は私たちを裏切ることはなさいません。神のその真実な愛を「慈しみ」と言います。

 同時に聖なる神は、罪を激しく怒り、「地に住む者の咎を罰せられるからだ。 地に住む者の咎を罰せられるからだ。  地は、その上に流された血をあらわにし、  そこで殺された者たちを再びおおうことはない」(イザヤ26:21)お方でもあります。

 その聖なる怒りを御子の上に置かれたのです。

 

バルトロマイ1世(1940~)の祈り

コンスタンディヌーポリ総主教

 

主イエスよ、あなたは罪穢れのないお方です。

 罪をきよめられることを、私たちはどんなに渇望していることでしょう。私たちは  

 日々、あなたの愛を傷つけ汚しています。

キリストにおける愚かな者たち、あなた以外には何も知らない人たち、あるいはまた、信仰のゆえに、ガス室に、凍えるような収容所に投げ込まれ拷問に耐え、一生がたびたび拷問室となっている人たち、そういう人たちと一心同体にならせてください。

 

主よ、あなたは救うために来られました。

私たちの霊的な戦いを、私たちの愛を、家庭を、あなたのきよさで覆い、

包んでください。

 

私たちのまなざしをお守りください。人々の顔にあなたを認めることができますように。

 

【参考文献】

小泉健「十字架への道」(日本キリスト教団出版局、2019年)