のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年4月24日 礼拝説教

説教題 「聖書は権威ある神のことば」
聖書箇所 ヨハネ福音書5章39節~40節
 
 

 春になると山菜取りに行く人が増えます。私も結婚したばかりの頃は、仕事の合間によく山に入って、ウドやタケノコを取りました。そのタケノコ採りが、実は大変危険です。どうしてかというと、タケノコ採りは、笹やぶの中を匍匐前進するように、身を低くして、笹の堅い茎をよけながら進んで行くので、迷いやすいのです。いっぱい取ったと思って立ち上がってみると、ここはどこかということが何度もありました。そのように、山菜採りは、迷うことがあるので要注意です。
 毎年、何人もの方々が、山菜採りで迷子になりニュースになっています。今、ちょうど山菜取りの季節になって来ましたので、皆さんもご注意ください。このように、山歩きも、注意しないと迷子になり、時には崖から滑り落ちて大怪我をすることになることもあります。そうならないためには、何が必要かと言いますと、まず事前に、入る山の特徴、安全な散策するためのガイドなどの情報と地図があると、より良い山歩きができます。
 
 同じ様に、聖書という山も、無計画に、手当たり次第に読まずに、地図をもって読むことが大切です。その地図が、教理です。教理というのは、まさに私たちが信仰告白で告白しているように、聖書が言っている大事な教えを手身近に言い表す、信仰の内容のことです。
「あなたは何を信じていますか」と質問されて、端的に答えられる、その教えです。白石教会では、その告白を14の項目に分けてまとめました。それは、それを手掛かりに聖書を読むと、迷わずに、間違わずに読み進めますということでもあるのです。
 私がこれまで毎週の礼拝で続けているのは聖書を順番に読み、解き明かす、講解説教ですが、そのためにも、私は、前提とする聖書の教理から外れないように行っています。まさに、それは、地図を用いて山を安全に歩くのと同じなのです。
 
 そういうことで、これから月一回は、教理説教をしたいと考えています。講解説教が毎日の食事であるならば、教理説教はサプリメントと言えるかも知れません。美味しく食事を味わうというよりも、主食は何かとか、デザートは何かとか、その食卓を構成する品目や素材、栄養素に注目して栄養を補うということに似ています。ですから、教理説教では、なかなか、聖書のストーリーや登場人物の息遣いは伝わりませんが、森を歩く時の安全確保と交通整理ができるのです。
それで、今朝はその一番目。「聖書」についてみことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.神の霊感によって
 まず白石教会の信仰告白の第1項目目を読みましょう。
「【聖書】聖書は、すべて神の霊感によるもので、神の救いの計画を啓示する権威ある神のことばであり、信仰と生活の誤りなき規範です。」
今回の教理説教は、白石教会の信仰告白に基づく説教なので、この告白の意味するところを中心に味わいたいと思います。それで、最初に確認したいのが、なぜ一番目に聖書なのかということです。北米のメノナイトの信仰告白では、4番目に「聖書」があるのに、どうして白石教会の信仰告白では最初なのか。
 
 その理由は簡単です。それは、聖書が神様のことばであって、神様が私達に知らせようとするすべてのことが、この聖書によって明らかにされるからです。神もイエス・キリスト聖霊も、この聖書によって、その意味を具体的に知ることができるからです。そのためには、聖書が私たちにとって何なのか、その価値について確認することが大事です。それは、その前提が誤っていると、そのあとのすべての教えが誤るからです。
 
 だからイエス様は、今日、お読みしたヨハネ福音書の中で、「その聖書が、わたしについて証言しているのです」とお語りになり、聖書の証言の確かさを明らかにしています。なぜならば、36節にあるように「わたしを遣わした父ご自身がわたしについて証言しておられます」と、天のお父様の証言があることを語り、それが聖書によって証言されていると、言われているからです。そのように、神様はご自身の御心、ご意志を聖書によってお示しになったのです。
 
 その聖書は、旧約聖書新約聖書に分けられますが、紀元前1300年頃から紀元100年くらいまで、約1500年の間に40名以上の人間によって書かれました。今は1冊の本ですが、66の本に分けられます。また書かれた時代もまちまちで、その書いた人の職業も社会的地位も様々です。羊飼いもいれば、王様もいます。祭司や預言者、漁師もいます。しかし、その内容においては、イエス様ご自身がここで証言しているように、「わたし(イエス・キリスト)についてあかししている」のです。
 
 つまり、創世記から黙示録まで、イエス・キリストをあかししている。それが聖書です。では、どうして時代も書いた人の仕事も、社会的な地位も違うのに、相談もしていないにも関わらず、一致したテーマで書くことができるのか。それは、私たちが告白しているように、「すべて神の霊感によるもの」だからです。神による霊感とは、ロボットのように操られて書く御筆書きとは違って、書いた人物の特徴を生かしながら、その経験や癖を用いながら、神様が特別に守り導かれて、その人々によって書かせたということです。だから、同じ福音書でも、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネで、その内容も文体も個性がありながら、それぞれの角度から、正しくイエス様を伝えています。
 
 でも、人間が書いた以上、間違っているところもあるのではないかというふうに言われる方がおられるかも知れません。また神様がなぜ聖書の原本を残さなかったのか、なぜ写本からの翻訳で良しとされたのか。わからないことはあります。しかし、それは私たちが至らない者であるから、わからないし、自分の罪人の基準で測るから聖書の方が間違っていると受けとるのであって、聖書そのものが間違っているのではないのです。詩篇の詩人はこう言っています。詩篇92:5、6
「主よ あなたのみわざはなんと大きいことでしょう。あなたの御思いはあまりにも深いのです。無思慮な者は知らず、愚か者にはこれが分かりません。」
 
 私たちが無思慮な者であるにも関わらず、高い所から聖書をこき下ろしてはなりません。主の前に愚かな者であるのに、聖書が神の霊感によって書かれたと、聖書が証言していることから逸れて、聖書を低く評価してしまうことはあってはなりません。そうなった時点で、そこに読む価値も聞く価値も、信仰告白の一番目に置く価値もなくなります。
しかし父なる神様が証言し、聖書が証言しているとイエス様ご自身が言われているのです。このイエス様のお言葉は間違いでしょうか。むしろ、この主の聖書理解を私たちの理解としていくことが、主の弟子としての常識ではないでしょうか。聖書が神の霊感によって書かれているならば、私たちも神様の霊感によって、つまり聖霊の助けによって、そのように信じていくのです。


2.神の啓示
 聖書66巻が、イエス様について証言していることが神の霊感によることを確認しましたが、次に考えたいのは、聖書が「神の救いの計画を啓示している」ということです。ここにある「神の救いの計画」は39節の「わたし(イエス様)について」と同義語であると言っても良いでしょう。神の救いとは、まさにその名の通りイエス(主は救い)様です。ですから、聖書が書かれた目的とは、一言でいうならば、人間の救いのためです。そして、そのことを私たちに明らかにして示すことを「啓示」と言います。つまり、聖書とは神様の御心が啓示されている書物だということです。
 
 では、聖書以外で神様がご自分のことを啓示しているものはないのでしょうか。あります。それは神様が造ってくださった、被造物です。パウロはそのことについてこう言っています。ローマ1:20
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
 神様が天地万物、造られたものによってご自身を現わされていることを「一般啓示」と言います。でも、その一般啓示だけで、神様のことでわかることは限られています。つまり、「救いの計画」がわからないし、どうして私たちに救いが必要なのかもわかりません。
 
 それで、神様は、一般啓示だけでなく「特別な啓示」を与えておられるのです。それが聖書です。ただし、初めから聖書があったわけではありませんでした。神様は、ご自分の御心を示すために、まずアブラハムを選び、その子孫たちによって救いの計画を示そうとされます。その中にモーセイスラエル預言者たちがいました。そして、その預言者たちを通して、ご自分のみことばを告げました。そして、それだけでなく、それらの人たちに働いて文書によって残すことをされます。それが旧約聖書です。
 
 その旧約聖書の成就として来られたのがイエス様です。だから、イエス様ご自身が究極の特別啓示です。それまで預言者たちが指し示していたお方。それがイエス様だったからです。でも旧約聖書には「イエス」としてイエス様は登場しません。あくまで、その働きについて、その救いの使命について、イエス様ご自身についての影として示されていました。イザヤ書53章の苦難のしもべの預言はその分かりやすい例として挙げることができるでしょう。
 
 でも、イエス様も十字架と復活という救いの業を完了したあとは、天に帰られたので、そのあとは、弟子たちが聖霊を受けて、聖霊によって、イエス様の救いの業と、その教えを宣べ伝えます。そして、そこにも神様は働いてくださって、書いたものを残すように導かれたのです。それが新約聖書となって、今も直接的にイエス様のことを証言しています。
 
 では、どうして、神様は聖書という方法によって啓示することを、よしとされているのでしょうか。どうして、預言者ではだめなのでしょうか。また、どうして、また12使徒のような、またパウロのような使徒を残さないで、聖書を完成させたのでしょうか。それも、答えは簡単です。それは、異端など新しい教えを勝手に語って神様の御心を曲げる人が大勢現れるからです。もし、私が預言者のように、神様に示されたからと言って語ったとしたら、それが本当に神様の御心であると、皆さんはどのように判断したら良いのでしょう。
 
 私がこの講壇で語るメッセージがいつも私の見た夢からであったら、それが、本当に神様が言われているとどのようにわかるのでしょうか。それをどのように吟味したら良いのでしょう。
 
 実は、初代教会時代、まだ新約聖書が完成していないときに、既に多くの異端が生まれました。キリスト教会が始まって間もなく、異端は生まれるのです。そのとき、当時の教会は何によって、それが異端であると見分けたでしょう。それは、今、私たちが聖書として読んでいる、パウロの手紙であったり、使徒たちの教えだったのです。それが、保存され書き写されて、異端防止、偽預言者防止に役立ちました。
 
 そして、現代でも、聖書が完成しても異端はなくなりません。それでも、その人が異端的な人か、その教会が異端なのかは、また異端とまでは言わなくても、正しい信仰かどうかは、やはり聖書によって明らかにされます。つまり、キリスト教会は、聖書を信仰と生活の誤りなき規範として、大切にしてきました。だから、同じ新約時代の私たちも、説教者の思い付きのメッセージではなく、必ず聖書を語ります。聖書そのものを伝えられるように努力します。だから、聖書の講解説教は大事なのです。それは聖書そのもの、つまり神のことばなるイエス・キリストを語ることが、この新約時代の教会の使命だからです。
 
 だから、今日のような主題を決めて語る説教は修養会とか学びにおいては良いですが、これが日常的だと危険だと私は思います。それは、主題を決めてから聖書のみことばを選ぶと言うふうに、自分の言いたいことに聖書のことばを合わせて語るからです。それは前提である私の言いたいことが間違っているのに、聖書を利用して正当化することにもなる可能性もあるからです。もし私がロシアの軍事侵攻を支持していたら、それを聖書のことばを使って正当化できるのです。そうであってはいけません。神様のみことばが先にあって、そこに御心を探り求めながら、神様が語られている御心を聞き取ること。それこそが、私たち、神様に造られた者の恵みの受け方です。
 
 
3.誤りなき・全領域の規範・権威・神のことば
 白石教会の信仰告白の一番目「聖書」。この主題は神様の御心だと確信して、私は今日も講壇に立っています。それは、聖書が神のことばであるということは聖書が言っている真理だからです。それで、今日の説教題も「聖書は権威ある神のことば」であると、信仰告白の最も大切な部分を切り取って説教題にしました。
 
 私たちの信仰告白はすべて、関連聖句があることを裏のページに示してあります。それは、その信仰告白が、すべて聖書に基づいて言っていることだということです。それで、今日のテーマである「聖書」についても、4か所の聖書箇所が掲載されています。これは、「聖書」について4か所しか書いていないということではなく、聖書全体から言えるけれども、書ききれないので、4か所に絞って載せているに過ぎないと言うことです。ですから、聖書全体から、聖書とは「すべて神の霊感によるもので…云々…」と、この告白文が生まれたのです。そして、この告白文を更に短く、端的に言うとしたらどのように言うか。それが今日の説教題です。しかし、もっと短く言うならば、それは「聖書は神のことば」で本来は充分だと思います。
 
 どうして、そう言えるか。それは、「神のことば=権威ある=信仰と生活の規範=誤りなき」と言う風に、神のことばには三重の意味が既に込められているということです。「神のことば」だから、本来は権威あると言わなくても、すでに「権威」は含まれます。また、「神のことば」だから、本来は私たちの全領域においての「規範」になり得るのです。聖書は、私たちの人生すべてにおいて欠かせないのです。また、「神のことば」だから「誤りがない」のです。それが、神のことばが持つ大切な三重の意味です。
 
 
結び
 しかし、どうして、私たちの信仰告白では「神のことば」と言っているのに、「権威ある」とか、「信仰と生活の規範」とか、「誤りなき」と、わざわざ付け加えたように告白するのでしょうか。それは、聖書のことを神のことばであると言いながら、その権威を貶めたり、生活や仕事やこの世の常識とは合わないと分けて、信仰においてのみの規範としか認めないとか、初めの方で言いましたが、自分の物差しで勝手に聖書は間違いだらけだと蔑むことが、私たちキリスト教会の中でも起こっているからです。また、神のことばですらないと言うくらいにまで、軽く見られるようになってきているからです。
 
 しかし、ここに関しては、いくら多様性を認め、愛し合うキリスト教会であったとしても、この聖書を何と定義し、何と告白するのかは、大変重要な問題です。それは、この聖書に神のことばとしての価値を認めないということは、神様が人間に与えてくださっている神様からの啓示を自分の物差しで測るということになるからです。それは、神、イエス・キリスト聖霊など大切なテーマを、聖書ではなく、人間の考えで定義することになるからです。それは赤信号でも自分は渡りたいから進むのだと言っているのと同じです。そのような利己的な態度を通そうとするならば、必ず交通事故になります。
 
 同じように、この聖書に関する規準が違うと、平和、自由、愛、平等など、様々な大切なテーマにおける理解や解釈が変わって来るでしょう。それが、神、罪、救い、永遠のいのちなど教理における違いにまで発展するならば、キリスト教会と名乗っていてもいのちのない、単に平和を唱える政治団体と何ら変わらない集団になってしまいます。霊的な交通事故になるのです。
 
 しかし、今日、主イエス様ご自身が、「聖書が、わたしについて証言している」と語っておられるのです。そのイエス様が、聖書を神の言葉として認めているのです。そして、その神のことばには、当然神様の権威があり、私たちのすべての領域における規範であり、誤りがないのです。だからこそ、私たちに永遠のいのちをもたらす神の啓示なのです。
 
 今朝、あらためて、もう皆さんにとっては当たり前の事かも知れませんが、聖書についてともに考えました。どうか、このこれからも神の霊感によって書かれた聖書のことばによって養われ、強められ、この大切な真理を、これからも確信をもって告白できるよう、益々、聖書に聴いてまいりましょう。

イースター礼拝メッセージ

説教題 「信じていのちを得る主イエスの復活」
聖書箇所 ヨハネ福音書20章24節~31節
 
 

 時々、イエス様のことは信じているのだけど、復活が信じられないというお話をお聴きします。でも、今日の聖書の箇所を見ると、これを書いたヨハネは、31節で「これらのことが書かれたのは」と言っていて、これはヨハネ1章1節の「初めにことばがあった」から、このイエス様の復活の場面までのすべての業、教えの中で、と言うことです。復活だけ省いて、ではなく、復活まで含めて、主イエスを信じることが大事だと言っているのです。すなわち、イエスが神の子であり、キリストであることが、天地の初め以前から、これまでの業、教え、最後に復活によって明らかであるという事です。
 
 もし復活がなかったら、イエス様のことを神の子キリストとして信じられない。そのくらい、復活が欠けるとイエス様のこれまでの業、教えも良い教え、道徳にしかならないでしょう。しかし、聖書の目的はそこ止まりではありません。イエスを信じていのちを得るところまで、たどり着かなければ、聖書の書かれた目的は果たされないのです。皆さんは、イエスの御名を信じていのちを持っているでしょうか。その復活のいのちを生きているでしょうか。
 
 今朝はイースター礼拝です。主の復活によってもたらされている恵みがどれほど素晴らしいかを、短い時間ではありますが、ともに味わってまいりましょう。
 
 
1.そこにいなかったトマス~彼らの中に立たれる主
 イエス様がよみがえられたのは、日曜日の明け方でした。子ども賛美歌に「夜明けの空の明らむころに、主イエス墓より、よみがえりたもう」という歌があります。今日の出来事は、その同じ日の夕方です。 そのことが19節に記録されています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった」
ユダヤの一日の数え歌方は、日没から日没までですので、週の初めの日の夕方というのは、もうすぐ日没なので、一日が終わる時間帯ということです。
 
 そのとき弟子たちは、「ユダヤ人たちを恐れて戸がしめてあった」とあるように隠れていました。それは、イエス様が復活されたという他の弟子たちの証言を聞いても、信じられずにいたということです。だから、死刑になった犯罪人イエスの手下と見られ捕まることを恐れていたのです。
 しかし、そこにイエス様が来られました。まさに「彼らの中に立って」、ご自分の場所である弟子たちの真ん中に立って、「シャローム」と語られるのです。ここで、弟子たちみんなが復活されたイエス様にお会いしました。それが23節までの出来事です。
 
 ところが、せっかくイエス様が来られたのに、たった一人だけ、その現場にいなかった弟子がいました。それが、トマスです。このトマスだけが、このとき席を外していた。このことが、今日のお話の前提になっています。自分だけがイエス様に会っていない。復活のイエス様を経験していない。自分だけが、取り残された感じ。
 
 トマスの事をよく「疑い深いトマス」と言いますが、疑い深いというよりも、自分だけがそこにいなかったことの寂しさが、彼の心を狭くしていたのではないかと思います。何よりも、以前、イエス様がユダヤ地方に戻ろうとするときに、トマスは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(ヨハネ11:16)と殉教するまで主に従うと公言していた人です。しかし、実際には、イエス様が逮捕されるときに、トマスは、他の弟子たちと同じように逃げていました。だから、そのような大口を叩いた人が、ここで、一人だけイエス様に会えなかったということは、もしかしたら、あんな大口をたたいたにも関わらず逃げてしまったので、もし本当にイエス様が復活して来られたとしたら、イエス様はきっと自分を避けて、自分がいないときに来られたのかも知れない、という想いもよぎったはずです。
 
 ここに、信仰者のありがちなテーマがあります。誰かと比べて、寂しい気持ち。取り残された気持ち。自分だけが知らないという悲しさ。24節を読むとその寂しさが伝わってきます。
「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。」
 
 私が小学校1年生のとき、運動会の練習で、給食後に、教室ではなくて、外の運動場に集まるときがありました。でも、その頃の私は先生の話をよく聞いていない子どもだったので、給食を食べて、トイレに行ってから教室に戻ってみるとだれもいなくてびっくりしたことがあります。みんなどこへ行ったのだろうかと、半泣きになって探しまくって、30分くらいかかり、ようやく運動場に着いた時の嫌な気持ち。30分も遅れて、先生からも「どこ行ってたんだお前」ときつい言葉で言われて、さらに泣きそうになりました。
 
 このときのトマスを見ていると、そのときの自分を思い出します。自分以外のみんなはちゃんと知っているのに、なんで自分だけ、運動場に集まることを知らなかったのだろう。自分が聞き逃していたなどとは思っていなかったので、取り残されたような寂しい気持ちになりました。そうすると、そのあと、いくら友達に慰められたとしても、どうして教えてくれなかったのかと、慰めてくれる友達にすら責める思いが出て来て、すっかり心が狭くなっていた自分を思い出します。
 
 だから、そんな寂しい気持ちのトマスから出た言葉には棘を感じます。25節です。
「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」
 
 他の弟子たちは口々に「私たちは主を見た」と言いました。おそらく興奮気味で言ったと思います。死んだと思っていたイエス様がよみがえったのですから。だからトマスが弟子たちのいる部屋に戻ったときの雰囲気自体、トマスを、益々取り残された思いにしたでしょう。
 
 だから、すっかりトマスの心は、その他の弟子達とは違う方向を向いてしまっています。このときのトマスには、ひとりだけ、その喜びを共有できていない寂しさがありました。だから、もし、イエス様に会ったとしても、その釘の傷跡をしっかり見て、そこに自分の指を差し入れないと信じない。脇の傷にも手を差し入れないと信じないと、あまりにも恐ろしいことをトマスは信じる条件にするのです。
 
 私たちも、寂しい気持ちがあるとき、注意が必要です。寂しさに駆られて、孤独感に襲われて、教会にいても、ちっとも嬉しくない。そういうことが起こって来ます。弟子たちの集まり、教会において、人間を意識しすぎると必ず躓きます。教会の中で人間に期待すると必ず躓きます。私たちは、神の国の完成まで、赦された罪人の集まりですから、キリスト教会とは言え、不完全です。だから不完全な人間に依存した教会生活は長続きしません。必ず競争心や、落ちこぼれ感、劣等感、相手への嫉妬、恨み、憎しみ、苦々しさなど、様々な思いに支配されて、信仰が元気を失うのです。教会が楽しくなくなります。
 
 だから、イエス様は、どうなさっておられるでしょうか。
26節後半「イエスが来て、彼らの中に立って『平安があなたがたにあるように』と言われた。」
 これは前回マタイ18章でも触れました。弟子たちの真ん中はイエス様の場所だと。
もとの言葉で見ると、マタイの福音書18章で読んだ、小さな子どもを立たせた弟子たちの真ん中とは違う書き方をしているので、このヨハネ福音書では「彼らの中」と訳していますが、意味合い的には同じです。イエス様は、「来て、彼らの中に立って」とある。このイエス様の立たれる場所が大切です。だから、19節でもまったく同じようにされています。
 
 イエス様は、戸が閉まってある部屋の入り口付近に立ったのではありません。弟子たちの中、ただ中に立ってシャロームを言われる。この状態が、キリスト教会の基本です。私たちは、イエス様をいつも真ん中に置いているか。牧師やその他の人間たちが真ん中にいないか、自分が真ん中に立っていないか、吟味が必要です。もし、礼拝に来ていても、イエス様ではなく人間に心を向けているならば、修正が必要です。その人のことが好きでも嫌いでも、イエス様以上に心に浮かんでくるならば、そこに本当の喜びは生まれません。
 
 しかし、イエス様をいつも私たちの教会の中心に来ていただき、イエス様を中心するならば、嫉妬も、寂しい気持ちも、劣等感も、競争心も起こりません。それは、イエス様が中心にいてくだされば、いつもイエス様を通して相手を見ることになるからです。まず、イエス様を中心におき、主との交わり、礼拝を大切にする教会。礼拝を楽しみにする信仰生活。これが教会に必要なイエス様の位置であり、私たちの立つべき場所です。そのとき、私たち個々においても、その心の中心にイエス様がおられることが実感できます。
 
 だから、へそを曲げて不信仰になっているトマスのために、イエス様は、19節のときと同じように、もう一度、弟子たちの中に立ってくださり、主の平安に満たされるように(シャローム)と挨拶をされたのでした。
 
 
2.わたしの手、わきを見、手を差し入れよ~私の主、私の神
そして、すかさず、イエス様は言われます。27節
「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。」
 
 ここで、「トマスよ。あなたはわたしの復活を疑った。不信仰だから弟子失格だ」とは言われませんでした。どうぞ、あなたの言ったように、その指をわたしの手の釘が刺さっていた穴に入れてごらん。脇の槍の傷に手を差し入れてごらんと言われるのです。そしてトマスに欠けている不信仰をきちんと指摘するのです。
「信じない者にならないで信じる者になりなさい。」
 
 ここで、トマスは崩れます。彼の抱いていた寂しい気持ち、そして、何よりも「主といっしょに死のうではないか」と言いながら、主を裏切ってしまい、逃げてしまい、今、ここにどんな面を下げて立ったら良いのか、非常に複雑な思いでいたでしょう。しかも、さっき自分で言った酷い条件をイエス様は聞いておられて、その通りやっていいよと言っておられる。「それであなたが信じられるなら、どうぞやってごらんなさい」と。
ここでトマス・・・
 
「私の主、私の神」
 もう他に言葉が出て来なかったのでしょう。彼としてはこのとき初めて、イエス様が単なる教師(ラビ)ではなく、それ以上のお方、まさに私の主(ヤハウェ)、私の神と、礼拝する対象であるという確信に導かれました。それが彼の信仰告白になったのです。 
 それは、復活されて目の前に立つイエス様に聖なる神の御子としてのお姿を見たからではないでしょうか。だからそのきよさの前に自分の醜さ、罪深さ、不信仰に気づかされ、しかし、そのような自分を見捨てずに現れてくださり、十字架で受けた傷ついたままのお姿、その傷跡を間近に示されて、それが自分のためであったことを悟ったのです。
 
 肉体に傷を持ったままのイエス様が、今、目の前に来てくださって。しかも、弟子たちのただ中に来てくださって傷を示される。そこに指を入れなさいと言われる。でも、このとき、トマスが実際にイエス様の傷跡に指を入れたとは書かれていません。そもそも、トマスだって、そんなことをリアルにしたかったわけではなかったはずです。3年間、いっしょに旅をして教えを聞き、多くの業、その生き様を見させられて、ずっとついて来た弟子が、愛する主の痛々しい様を見るだけでなく、その傷に指を入れる、触れたいなどとは、本気で思うわけがありません。
 
 決して、実際に傷に手を差し入れるなんて本気で思っていなかったはずです。しかし、本当にイエス様は復活され、一人で寂しくなっているトマスにご自身を現わしてくださったのです。そして、本当に目の前で、イエス様にお会いし、その傷を示されたトマスの心は、ただ、ひれ伏すのみです。まさにイエス様を主として、神として、崇めるしかありません。
 この瞬間が、トマスにとって、とても大切な瞬間でした。それは自分とイエス様の関係を知るということ。ただの子弟関係ではない。「私の主、私の神」と一対一で向き合うことの大切さがここにあります。この確信、この理解に導かれることがとても大切です。イエス様が確かに私たちの主、私たちの神です。しかし、さらに、それが私の主だと、私の神だと、自分自身にとって、個人的にもかけがえのないお方だと気付いたときに、そこで出る言葉は、このトマスの信仰告白です。
 
 私たちも、このトマスの告白を我が告白としているでしょうか。イエス様は、あなたにとってだれですか。あなたにとって、何ですか。2020年に白石教会は信仰告白を採択しました。その告白の主語は「私たち」です。でも、それは同時に「私」の告白でもあり、皆さんお一人お一人の告白でもあるはずです。そのことをあらためて学ぶために、4月から月一回は、白石教会の信仰告白による教理説教を始めようと思っています。
 それは、せっかく与えられた信仰告白が単なるお題目にならず、私たち一人ひとりにとって、個人的にも主を愛して、主の前に、また教会の中で心から告白できるようになるためです。
 
 最後の29節でイエス様は、見ずに信じることの幸いをお語りになります。それは、自分で見なければ信じないと、へそを曲げていたトマスへの、イエス様の憐みに満ちた注意のことばです。そして同時に、現代を生きる私たちへの励ましのことばでもあります。それは、私たちを含め、このトマス以降の時代の主の弟子たちは、誰も実際に肉眼で復活のイエス様を見ていないにも関わらず信じているからです。これは、見て信じたトマスよりも私たちの方が信仰深いとか優れているという話をしているのではありません。今の私たちは、見なくても信じられるように、聖霊によって導かれているだけだからです。
 
 現代は、神様が残してくださった聖書を通して、主イエスを知り、主イエスにお会いし、主イエスを信じます。それは、見ないで信じた私の功績ではありません。生ける神のことばが、今も聖霊を通して生きていて、よみがえりの主に出会わせてくださるという、聖霊の恵みです。その恵みの中で、今、私たちは、このトマスのように実際にイエス様を目の当たりにしなくても、みことばと聖霊によって、毎日、イエス様とお会いし、今もなお、この教会の真ん中に立っておられると心から信じることができるのです。そして、このトマスの体験をも自分の体験として悟ることができるのです。
 
 
結び
 最後に、今日の箇所を通して、私が気付かされたことをお分かちして、説教を終わりたいと思います。
 今回、25節のへそを曲げたトマスの言葉を読んでいて、確かにイエス様逮捕の場面で逃げてしまったトマスですが、イエス様の十字架にかけられる場面を、彼はよく見ていたのだなと思わされました。トマスはイエス様の手に釘の跡を見、わきにも傷があることを知っていました。手の釘の跡は、十字架刑という処刑方法を知っていれば、そこに傷跡ができることは見なくてもわかります。でも、脇の傷は、その場面を見ていなければわからない情報です。他の二人の強盗たちは長く生きていたので、すねを折られて息の根を止められましたが、イエス様は早い時間に死なれたのです。だから、すねは折られなかった。けれども、兵士の一人が勝手に槍でイエス様の脇を刺したことが20章34節に書かれています。つまり、トマスは見ていたのです。主の十字架の場面、そのお姿を。釘で打たれる姿も。槍で刺されるところも。だから、尚更、その無残な姿を目撃していたので、そのお方が生き返るなんてあろうはずがない。自然死ならば蘇生するかも知れない。しかし、痛々しく死なれた傷だらけのイエス様を目撃していたのです。
 
 だから、彼は25節でぐずった子どものようなことを言いながら、その心のうちには、目の前で苦しんで死なれたイエス様の姿が思い出されて、心が苦しくなっていたのかなと推察します。イエス様の手の釘の跡、わきの傷に手を入れなければ信じないと言いながら、彼の心は十字架で死なれたお方の様子がよみがえってきて苦しかったはずです。私も苦しくなりました。そして、それが誰のためでそうなられたのか。そう思う時、あらためてイエス様が、私にも語っておられると悟らされました。
 
 そこにイエス様が来てくださった。そして、まさか、その傷跡を示されて、指を入れなさいと言われたら、本当に、出て来る言葉は、「私の主、私の神」だなと、そのトマスの思いが私の思いとなって、溢れてきました。私は実際に肉眼でイエス様は見ていませんが、この聖書のことばを通して、聖霊に導かれて、主の十字架の目撃者となり、確かに復活されたイエス様が私にも来てくださった。そして今も私に「信じない者にならないで信じる者になりなさい」と言われていることを悟ったのです。
 
 だから主は今も、生きておられ、その御傷を持ったまま、その傷を示しておられると私は確信をもって今日も告白できます。そして、そのことを今朝、私が聖書を通して、その復活の出来事を目撃した者として証ししているのは、あなたが、「イエスが神の子キリストであることを信じて、いのちを得るため」です。私たちも今朝、あらためて復活されて、この真ん中に立っておられる主の傷跡に触れていきたいと思います。霊の目を開き、その傷がなぜ、だれのためにできたのか。なぜ主はそれをよしとされたのか。そのことを、まだ主に出会っていない愛する方々にお知らせし、主の救いがもたらされるように、証ししてまいりましょう。

 


墓の中にいと低く葬られたり、ああわが主。よみより帰り、死と悪魔に勝ちし。
君こそ勝利の主なれ。君こそ、まことの主なれ。ほめよイエスを。我らの神を。

イースターおめでとうございます!

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(写真はカール・ハインリッヒ・ブロッホ作『復活』)

 

"私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。"
コリント人への手紙 第一 15章3~8節

 

 

"しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。
アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。
しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです。
それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。
すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。
最後の敵として滅ぼされるのは、死です。"
コリント人への手紙 第一 15章20~26節

 

●受難週の聖書日課:主イエスの十字架への道をともに味わいましょう。


①棕櫚の主日エルサレム入城)ヨハネ福音書12章12~19節


②月曜日(宮きよめ)マルコの福音書11章15~19節


③火曜日(終末のしるし)ル カの福音書21章 7~19節


④水曜日(ナルドの香油)マタイの福音書26章 6~13節


⑤木曜日(洗足)ヨハネ福音書13章 1~20節


⑥金曜日(十字架の死)ヨハネ福音書19章16~30節


⑦土曜日(墓に葬られる)マルコの福音書15章42~47節


イースター(よみがえり)ヨハネ福音書20章24~31節