のりさん牧師のブログ

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2022年11月6日 白石教会礼拝

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https://youtu.be/LSUVr7aJNzU                 

説教題 「正義はどちらに」
聖書箇所 創世記34章18節~31節
 
 
序論
 ロシアのウクライナ軍事侵攻、北朝鮮のミサイル発射。現在、日本だけでなく世界中を脅かすようなことが毎日続いています。ニュースを観て、プーチン金正恩は何て悪い奴なのかと思ってしまいます。それは、私の正義感でそう思うわけです。しかし、プーチン金正恩にしてみると、それぞれにも「自分の正義」に基づく理由があるのです。
 
 プーチンにとっては、ベルリンの壁が壊され、東西冷戦が終結し、これまでソ連として、その傘下にあった東ヨーロッパの国々がどんどんNATOEUに加盟したり、友好国になっていくことが、とても怖いことです。だから、ある意味、最後の砦のようなウクライナが西側につくことは、意地でも阻止したい。そのようにロシアという国を守ることこそ大統領である自分の仕事として、そういう正義もあるのです。
 
 金正恩も、最近アメリカと韓国、また日本も含めて行っている合同軍事演習によって威嚇されたという理由で、それならばこちらも黙ってはいないということを、国内外に示す意味でミサイルを発射します。それもまた北朝鮮の指導者である金正恩の正義かも知れません。
 
 今日の説教題は「正義はどちらに」としました。それは、ロシアとウクライナ、また西側諸国、日本、北朝鮮のうち、どの正義が真実なのか、という意味ではありません。それらのことは、今、目の前にある出来事の一つに過ぎません。というのも、私達の人生、私たちのまわりでは、ニュースにならなくても、いつも、多くの正義というものによって、物事が図られ、選ばれ、決められていく出来事に溢れているからです。
 
 その中で、やはり正義とは何かを、いつも問われながら生きていると言えるのではないでしょうか。特に、プーチン金正恩を悪く思うときに、そこに私という正義があって、そう思っているわけですが、その正義は、私の中のどのような基準によってそう思っているのか、やはり吟味する必要があると思うのです。皆さんはいかがでしょうか。皆さんの正義感、その価値基準は本当に正しいと言えるでしょうか。その根拠を何に置いて、そう言えるでしょうか。
 
 多くの人間は、やはり自分という物差しがあって、その基準で物事を測っているのではないでしょうか。先週の説教は「罪」についてお話しましたが、私たちは、アダムとエバの堕落の影響を受けて、もともと神様のかたちに造られた、非常に良いものであったのに、今はダメージを受けていると言いました。事故を起こしたまま辛うじて走っている自動車のように、です。だから、私たちのうちに造られていた「正義」も歪んでおり、そのダメージによって、他の人との関係にも大きな影響を及ぼすのです。
 
 今日、お読みした聖書箇所は先々週からの続きとなります。神様から「生まれ故郷に帰りなさい」とみことばが与えられて、いよいよ目前というときに、ヤコブカナン人の土地を購入して、そこに滞在することにしました。そこに大変つらい事件が襲います。
 
 それは、愛娘ディナが、シェケムという男に強姦されるというおぞましい出来事でした。そのシェケムという男は、ヤコブが買った土地の地主の家の息子でした。しかしヤコブは娘が大変な目に合わされていながら抗議することもなく、事がわかっているのに黙っていました。そこに、今度は、ディナを辱めたシェケム本人と父親がディナを嫁にしたいとやって来ます。あとは、ヤコブがどうしたのかは書かれておらず、今日、お読みした最後に一言出て来るだけです。
 
 結果的に、ヤコブの息子たちが、シェケムをはじめ、その父親ハモルなどそこに住む男性をすべて殺したのです。今朝は、このシェケム親子、ヤコブの息子たち、そしてヤコブという三者の正義を観ながら、私たちの正義を考えていきたいと思います。
 
 
1.シェケムとハモルの正義
 まず、シェケムとハモルの正義について見たいと思います。今日の箇所では、このシェケムという人物が、敬われていたことがわかります。そう。彼は、この町の中で良い人だと思われていたのです。彼が呼びかけると、ヤコブの息子たちに言われた割礼を受けるように、というお願いも皆が言う事を聞くほどです。19節
「この若者は、ためらわずにこのことを実行した。彼はヤコブの娘を愛しており、また父の家のだれよりも彼は敬われていたからである。」
 
 なるほど、彼は礼儀正しい人物。だから、ディナと結婚するために父親に相談してから、父親を伴ってヤコブに会いに来ています。つまり、最大限の礼儀を尽くすという正義によって、ディナと結婚するために努力しているのです。だから、言われた通りに、シェケム自身も父親も割礼を受けて、傷が痛んでいたわけです。そこをヤコブの息子たちに襲われ殺されてしまう。
 
 このように、今、私は、シェケムの正義をアピールするために、彼の良いところだけを言いましたが、やはり、彼の正義の欠点に触れずにここを過ぎることはできません。それは、そんなに尊敬されるくらいの人で、礼儀正しく、礼を尽くそうとするような人なのに、どうして、一人で散歩しているディナに乱暴したのか。ここに、彼の、そして、彼の父親ハモルも含めて、その言動に違和感を覚えます。前回のときも言いましたが、彼らの常識、正義が歪んでいるようです。
 
 本来ならば、乱暴せずに、先に父親に相談し、ヤコブに会いに来て、結婚の約束を果たすべきでした。しかし、そういう価値観は彼らには無いので、ヤコブに会いに来ても、謝罪のことば一つなく、ただ結婚させてほしいというお願いだけです。ここに、彼らの結婚、女性、性に対する歪みを観ます。乱暴してから「愛しています」と言われても、ディナの心の傷は治らないでしょう。このカナン人たちについては、このときから約800年後に、彼らを聖絶せよ(滅ぼし尽くしなさい)という命令が神様から出されることになります。それは、子どもを犠牲にするモレク信仰や、神殿娼婦や神殿男娼のような、乱れた性を煽るような不道徳で暴力的な宗教文化が根付いていたからでした。
 
つまり、このときの歪みがその後もエスカレートして、そのような不道徳なことを公然と行うようになったのかも知れません。いずれにしても、シェケムのディナを愛し、心から嫁にしたいという気持ちと、その誠意は分かりますが、彼のその正義には、自分が犯した罪に気が付いていない。聖書がはっきり言っている7節の「このようなことは許せないことである」とする神の前に、その罪が置き去りにされている誤りがあるのです。
 
 
2.息子たちの正義
 次にヤコブの息子たちの正義について見ます。彼らは父親ヤコブの旅に伴って来ましたが、ディナと同じように、この町にとどまって、どのように暮らすのか、思い巡らしていたでしょう。その矢先に、自分たちの姉妹であるディナがシェケムによって辱められた。しかも、父親であるヤコブは何にも動いてくれない。怒ってくれない。抗議してくれない。もし、ヤコブがこの一族の長として、シェケム親子にきちんと抗議していたら、皆殺しは避けられたかも知れません。しかし、30節までヤコブのセリフはありません。
 
 ディナの兄弟たち、特に母親を同じくするシメオンとレビが中心となって、シェケムの罪に対して怒り、自分たちで刑罰を与えようとするのです。それは、だれも、彼らをさばくものがなく、取り締まるルールも常識もないからです。
 
 この状況は、現在のロシアによるウクライナ軍事侵攻にも通ずる課題だと思います。他の国を武力によって威嚇、武力行使を慎まなければならないという国際的な常識はあります。国連憲章で、それははっきりと謳っています。しかしロシアはウクライナに武力で威嚇し、現に武力によって軍事侵攻を行って、目の前でウクライナの人たちが殺されていることを私たちは毎日ニュースを通して目の当たりにしている訳です。それは、自分たちの前で傷つけられ傷んでいるディナを観る、この兄たちのようです。
 
 戦争の場合はまだ続いているので、早く止めないと、どんどん人が殺されていくのです。そして、他の国を犯していることは明白なのに、だれもその罪に対して手が出せないというもどかしさを覚えます。ロシア人が一人でウクライナにやって来て暴れればすぐにウクライナの警察で対処できます。そして、ウクライナの裁判でさばくことができます。しかし、何千人も何万人の軍隊で来られたら警察では歯が立ちませんから、当然、軍隊が出て来て阻止します。そのところを西側諸国が応援して物資や武器を送り、ロシアの軍事侵攻が広がらないようにしているのです。
 
 しかし、ここでウクライナのゼレンスキー大統領が理性を失い、怒りに任せて、ロシアとの国境を越えて攻撃、またロシア国内に進軍すると、ことは大きくなっていきます。それはロシアにとっては侵略されたことになりますから、ロシアの正義が更に動き出すことになるからです。
 
 ヤコブの息子たちも、彼らのもともとの正義感は正しかったでしょう。7節では「心を痛め、ひどく怒った」とあります。無垢な妹が乱暴されたという思い、家族ならば誰もが抱く思いでしょう。しかし、この怒りがもともとあった正義感を歪めていきます。新約聖書にこのような言葉があります。
「人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです」ヤコブ1:19,20
 ここにヤコブの息子たちの正義にある弱さに気づかされます。正しいことのために怒るという感情自体は罪ではありませんが、怒りっぽいことや怒り続けることについては警告されています。
 
 ヤコブの息子たちは、この怒りを抑え切れず、怒りに任せてシェケムを殺し、その父親も殺し、その町の男子すべてを殺したのです。もしかりに死刑にすべき罪であったとしても死ぬのはシェケムだけで良かったはずです。しかし、従順に割礼を受けてくれた無関係な男性全員を皆殺しにするというやりすぎ、しかも、略奪までしています。これは、ガソリンに火がついたように、その勢いは本来関係のないものまで命を奪い、また新たな問題が起こって行くのです。これがヤコブの息子たちの正義でした。
 
 
3.ヤコブの正義
 最後にヤコブの正義はどうでしょうか。彼は、徹底して平和主義でした。娘が乱暴されても、怒ることをせず、相手の男も、親も受け入れています。そして、ずっと黙って余計なことを言っていません。無抵抗です。もし、息子たちがヤコブの姿勢を真似ていたら、おそらくこのような皆殺し事件にはならなかったでしょう。
 
 では、彼の無抵抗な平和主義が一番正しい正義なのでしょうか。血が一滴も流されずに済むのですから、ヤコブの正義がこの中で最も優れている正義なのでしょうか。そうではないでしょう。やっと開いたヤコブの言葉をご覧ください。
30節「それでヤコブはシメオンとレビに言った。『あなたがたは、困ったことをしてくれて、私をこの地の住民カナン人とペリジ人の憎まれ者にしてしまった。私には少人数しかいない。彼らがいっしょに集まって私を攻め、私を打つならば、私も私の家の者も根絶やしにされるであろう。』」
 
 このことばからヤコブの平和主義という正義の弱さを観ることができます。彼は息子たちがしたことで「私を憎まれ者にしてしまった」と言っています。それは、カナン人たちとの争いを避けるあまり、自分の家族が被害に遭っても目をつぶり、言いなりになろうとしていたということです。それは、このカナン人たちの歪んだ常識、価値観の影響を受けていくことを許容しているということでもあります。つまり神の民としてのきよさを軽く見ているということです。それは単にこの世とうまくやっていくことを大事にしたということです。
 
 平和なこと、血が流されないことは大事です。しかし、だからといって、この世と調子を合わせるような生き方をしてはいけません。そもそもヤコブの居場所はここではありません。もっと先に進むべきでした。
 
 以上のように三者の正義をざっと見てきました。どれを見ても完璧な正義はありません。そして、このような歪んだ正義すべて私も持っています。皆さんはいかがでしょうか。シェケムのように、まわりの人から良い人だと思われているかも知れません。しかし、他方で酷い罪人ではないか。私は罪人ですと公に言えても、個別の罪を赤裸々に人の前で言えるでしょうか。私は言えません。またヤコブの息子たちのように、動機は正しい怒りであっても、相手を赦せず、顔を見るのも嫌になるくらい呪ってしまうこともあります。また、ヤコブのように、この世でうまくやっていきたいので、聖書の常識よりもこの世の風潮や常識の方に聖書の解釈を変更して合わせるような誘惑にも会います。
 
 皆さんはいかがでしょうか。皆さんの正義感は正しいでしょうか。その怒りはどこに向かっているでしょうか。あなたの物差しはメートル法でしょうか、尺貫法でしょうか。1mと1尺では長さが違うように、一人ひとり、その基準は歪み、ずれているのです。では、ヤコブはどうすべきだったのでしょうか。ヤコブの息子たちもどうするべきだったのでしょうか。その答えが、今週のみことばにあります。その答えとはイエス・キリストです。
 
 
結び
 今日の箇所で、人間の唱える正義には限界があるということが見えてきます。しかも、「怒りは神の義を実現しない」とみことばにあったように、決して良いものを生み出しません。そう思う時に、私の中からは、いくらほじくり返しても、神様の義、真の正義は出て来ないのです。
 
 だから、罪のないお方であるイエス様が、「私たちの利己的な正義という罪」を負い、十字架の道を歩み死なれたのです。それは、十字架の死によって真の正義を指し示すためでした。罪を犯したことがないイエス様が反抗せずに、ローマ帝国ユダヤ人たちのそれぞれの歪んだ正義によってさばかれるままにされた。それは、それをご覧になっておられる真の裁判官である父なる神に、彼らの裁判、そして十字架刑という判決が正しかったのかをお任せになったということです。
 
 つまり、今日の場面でどうすることが最も大切なのかを身をもって体現してくださったのです。これはヤコブの平和主義とは違います。イエス様は人々に寄り添うお方ですが、この世と調子を合わせるお方ではありませんでした。パリサイ人などの聖書のプロのような人々とは特に、その間違いをはっきり示し、断罪しました。だから嫌われ、妬まれて十字架に追いやられたのです。もし、単なる無抵抗主義者であるならば、律法学者たちの教えにも反論しないで、うまくやっていく方法をとったことでしょう。しかし、主イエス様は神のみことばが曲げて語られることには真っ向から抵抗したのです。それは、神のことばが曲げられることに関しては寄り添うことができないからです。これが神の義、キリストの正義です。
 
 だから、このように、神の義として来られた主イエス・キリストを私たちが信じることによって、私たちの歪んだ正義が修復されていくのです。私たちは生まれながらにして罪を持っているので、そのままの正義感では人も自分も傷つけます。しかし、真の義である主イエス・キリストを受け入れるならば、そのキリストの義をいただいて、全てのことを正しくさばかれる神様に委ねていけるように造り変えられるのです。
 
 そういう人が一人二人と増え広がっていくならば、戦争は終わります。ミサイルはいりません。皆さんはいかがでしょうか。あなたの正義は正しいですか。その基準は何ですか。そのためにも、神様が与えてくださった義なる主イエス様を信じて、このお方の義を求めてまいりましょう。今朝は、幸いにして、礼拝式の中で聖餐があります。イエス様を信じて洗礼を受けている方は、どこの教会員であってもぜひ受けてください。それは、イエス様ご自身が命じられたことであり、イエス様ご自身を覚えるために、絶対に必要なことだからです。そうすることで、私たちの歪んだ心、愛、意志、感情、人格、正義すべてにおいて神のかたちが回復するからです。

2022年10月30日 白石教会礼拝説教

説教題 「どの道を選ぶのか」
聖書箇所 創世記3章1章7節
 
 

【罪】「人は、アダムとエバをはじめとして、神に背き、罪の道を選び取りました。罪のゆえに、すべての人は創造主の御心にかなわず、造られたときの神の似姿を損ない、世界の秩序を混乱させ、悪と死に隷属させるもろもろの霊に身をゆだねました。」
 
 今朝は、私たちの信仰告白に基いて、「罪」について考える教理説教の日です。全知全能の愛なる神様が、とても素晴らしい世界と人間とを創造してくださいました。しかし、どうしてこの世界には罪があるのでしょうか。どうして私たち人間は悪いことを考えたり、行ったりするのでしょうか。
 
前回の教理説教では、「人と被造物」というテーマを取り上げました。それで、聖書のこのようなみことばを確認しました。
「神は人を御自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」創世記1:27
 
 私たちが「神のかたち」として創造されたことは、神様のご性質である知性・感情・意志を与えられ、神様とつながる者として造られたということです。だから、私たちが色々考えたり、感じたり、一つのことをやり抜いたりできるのは、私たちが「神のかたち」として造られているからです。また、私たちは神様とつながる者として造られているので、私たちが神様を礼拝して仕えることこそ、人間の本当の生き方なのです。
 
 私たちには「神のかたち」として創造されたので、一人ひとりには尊い価値があります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)。だから、神様の目に尊い存在である人を傷つけること、たとえばいじめのような行為は、神様が悲しまれます。自分の事を変えないで、神様の目に尊い存在である他の人を変えてコントロールにようとする、利己的な考え方、そのように行うことも悲しまれます。
 
 また、私たちには良心が与えられていて善悪の判断ができます。他の人を愛し、この世界を正しく平和に治めていくことができるのも、私たちが「神のかたち」に造られているからです。このように、もともと神様は私たちを「非常に良かった」者として創造してくださったのです。そのことを、前回の教理説教で受け取ってまいりました。
 
 
1.罪
 そこに罪が入ってきます最初に創造されたアダムとエバは、神様と良い関係を持っていました。神様も二人を愛し、必要なものをすべて与えてくださいました。しかし、二人は、自分たちが神様のようになりたくなって、神様の信頼を裏切り、命令を守りませんでした。今日の聖書箇所のように、です。そのようにして、人間は罪を犯すようになってしまいました。それが告白文にある「人は、アダムとエバをはじめとして」の意味です。そして、「神の背き、罪の道を選び取りました」と続きます。つまり、人間は自分の意思で、神様に背き、自分の意思で罪の道を選び取ったのです。その責任は、アダムとエバから始まりましたが、その罪の道を選び取った責任は、その一人ひとりにあるということです。
 
 罪とは、神様が私たちに期待している生き方からずれることです。皆さんの内側には、他の人を妬んだり、嫌ったりする思いはないでしょうか。人をいじめたり、無視したりすることはないでしょうか。人が嫌がることを言ったり、メールや手紙に酷いことを書いて、人を傷つけたことはないでしょうか。また、人を外見や学歴や職業などで評価することはないでしょうか。
また、自分の生活や事情は変えないのに、人のことや教会のことを変えようとすることはないでしょうか。それは、自分が中心、他の人の支配者になっているということです。このようなことはすべて、神様が私たちに期待している生き方からずれている罪です。
 
 罪の中心は、神様を神様として認めないことです。一番大切にしなければならない神様よりも他のものを大切にすることが罪の中心です。モーセ十戒の第一戒には「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と教えられています。つまり、神様以上に大切にするものはすべて偶像礼拝になるのです。自分の願い、趣味、仕事、生活、こだわり、時には家族すら、神様以上に価値を置くものがあるなら、神様を神様として認めない罪なのです。
 
 それが、罪の道です。神様への背きであり、罪の現実です。しかも、その罪の道を、私たちは生まれた時から、すでに歩んでいる一人ひとりであることを聖書は教えています。すべての人が例外なしに罪人なのです。使徒パウロは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と言っています。また、罪は私たちの全人格、つまり肉体・理性・感情・意志などすべてに影響しています。罪によって「神のかたち」がなくなったわけではありませんが、大きなダメージを受けて、歪んでしまって、神様の事よりも自分中心の思いに支配されるようになってしまいました。
 それが「主の御心にかなわず、造られたときの神の似姿を損なっている」ということです。
 
 
2.罪による他の人、世界への影響
 そのように、罪が入ってしまった人間は、交通事故を起こしたまま、かろうじて走っている自動車のように、自分だけでなく、周囲へも大きな影響を及ぼすようになりました。それは、まず他の人との関係においてです。
 
 私たちは、他の人を愛せるように神様によって造られました。ところが、罪によって自己中心的になればなるほど、他の人との争いが起こります。他の人の立場に立って共感したり、愛することもできなくなります。
 
 ヤコブの手紙を書いた主の兄弟ヤコブはこのように言っています。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」ヤコブ4:1~2
 
 このように、罪によって他の人とも平和的に過ごすことが困難になったことは、私たちの周辺の小さな社会にとどまらず、世界規模に、宇宙規模に深い影響を与えています。
 神様は、この世界をすばらしいものとして創造され、私たちにその世界を耕し、正しく治める責任を与えられました。ところが私たちに罪が入ってしまったために、人間が築いてきた社会も、罪に誘いやすく、神様から遠ざけやすい仕組みを持っています。
 
 神様から与えられている「性」を社会や家庭の祝福のために用いるのではなく、快楽やお金のために使うことが多く見られます。また、世界を正しく管理するのではなく、資源を浪費し環境を破壊し、他の国や人々から奪い取ることも行われています。
 
 皆さんの社会には、差別や不公平はないでしょうか。自分が働いている職場が不正をしていることがあるかもしれません。あるいは、私たちが属しているこの日本という国が、他の貧しい国の資源や労働力を利用して豊かになっている面もあります。そのようなことが世界中にあり、悲しいことですが「この世」全体が、罪の影響を受けているのです。事故を起こした車はすぐに整備工場に入れて修理しなければ、どんどん周囲をも巻き込んで、危険が広がっていくように、罪の影響は多方面にまで広がって行く力を持ちながら未来に進んでいるのです。
 
 そのことを私たちも聖書から認めている事実です。私たちはそのことを、「世界の秩序を混乱させ」と告白しています。その末路は、もろもろの霊、つまり悪魔とその配下にある悪霊たちの手下となって、やがて起こる最後の審判の時に、その悪魔と共に永遠の滅びへと向かいます。それが、罪の結果です。罪の道を歩む、その結果はもろもろの悪霊と同じように扱われていく、大変厳しい結果があることも聖書は割り引かず記しています。
 
 今週のみことばは、まさにそのことを端的に述べています。
「罪から来る報酬は死です」
 この死とは、肉体の死のことだけではありません。罪によって、私たちの人格すべてが神様から離れてしまいました。これを霊的な死と言います。神様から離れると、神様を認めたり、正しい判断をすることができなくなります。
 
 神様は愛なるお方であると同時に、最も聖く正しいお方です。ですから、罪を罰しないままにされることはありません。ときに、この罪で呪われた中で起こる禍を通して、神様は私たちに間違いを気づかせることもあります。それは、その罪の道から離れさせ、神様に立ち返ることを望んでおられるからです。
 
 私たち人間は、罪深いです。ですから、自分の力で自分を救い出すことは不可能です。溺れている人が自分で自分を助けられないように、罪の沼で溺れている私たちは、自力で脱出できないのです。罪から来る報酬である死とは、そのように、この世にあっても実は既に死んだも同然であるという意味なのです。
 
そして、更に、そのあとに待つ、肉体の死を迎え、最後の審判において神の前に出た時に、どの道を選んだのかが問われます。そのときに罪の道を選んでいたならば、そこに神との永遠の断絶が待っているということです。これは、脅しているのではなく、罪の結果の話をしています。私たちが告白している「罪の道を選び取りました」という言葉は、その影響、結果、行き先をも指し示しているのです。
 
 
結び
私たち人間は、最初に「神のかたち」として神様に素晴らしく創造されたのですが、神様に背き、逆らって、罪の道を選び取ってしまいました。罪は、個人にも人との関係にも、この世界にも、全宇宙、被造物にも大きな影響を与えています。罪あるままでは私たちは霊的な死(滅び)に至ります。
 
しかし、今週のみことばの後半にあるように、この「しかし」からが大切な救いのメッセージです。それは次回の教理説教で扱いますが、この罪の悲惨の中に神様はひとり子であるイエス・キリストを賜物として与えてくださいました。その救いの御子が与えられた恵みの大きさは、その事実だけでも偉大な神の御業です。しかし、私たちは、今朝、あらためて罪について向き合い、世界の罪、日本の罪、そして自分の罪に向き合いました。
 
もう救われたのだから罪の話はしないでほしいという人がいるかも知れません。気持ちが暗く重くなるので、さばきの話もしないでほしいという人もおられるかも知れません。でも、あえて罪を学ぶのは、私たちがもともとどのような者であったのかを知ることで、今、いただいている救いの恵みが当たり前でないことを悟り、神への感謝に溢れるためだからです。パウロもエパソ教会の人たちに、「あなたがたは自分の罪過と罪の中との中に死んでいた者」であり、(悪霊)に従って歩んでいた。生まれながらに御怒りを受けるべき子らでしたと、エペソ教会の人たちのもともとの姿をあえて指し示しました。
 
それは、次のみことばの持つ大きな恵みに気づかせるためだったからです。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」エペソ2:4,5
 
「あなた方が救われたのは恵みによるのです。」
 
 このことを忘れてはいけません。罪人であったことを忘れてはなりません。そして、そこから一方的な神様の愛によって、今、選ばれ、救われていることがどれほど大きな恵みなのか、そのことを決して忘れてはなりません。風化させてはなりません。当たり前になってはなりません。なぜならば、もろもろの霊たちは、すでに救われている私たちをもう一度仲間にしようと戸口で待っており、いつも友人のように誘惑しているからです。
 
 そのために、悪魔に立ち向かうためみことばを御霊が与える剣として、きちんと持っていなければなりません。
 
 悪魔の誘惑は天地創造のときから変わっていません。自分たちが恐れる神のことばという剣を使えないように、私たちを惑わすことが、彼らの誘惑の中心です。もしアダムとエバが神様からのみことばを正しく覚えて語っていたら悪魔は退散したでしょう。でも、それができずに罪が入ってしまった。しかし、第二のアダムであるキリストは、荒野の誘惑で、ことごとく正確に聖書のみことばそのもので、悪魔を退けました。そこに、この罪の道にいざなう世界において、どのように生きるかが示されています。
 
 せっかくキリストを信じたのならば、罪の道に戻るのではなく、神のみことばによって勝ち進む勝利の道を選び取りましょう。だから、聖書のことばに日々触れて、同時にみことばを正しく覚えることをお勧めします。旧約のイスラエルの民にモーセは言いました。
 
みことばを「心に刻みなさい。子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱に書き記しなさい」と。
 
 今週も、罪の道ではなく、いのちの道、キリストの道こそ選び取って、神様が期待される祝福の歩みを続けてまいりましょう。

2022年10月23日 白石教会礼拝

説教題 「途中下車の結果」
聖書箇所 創世記34章1節~17節
 
 
序論
 先週、3日間の特別公開講座が北海道聖書学院で行われました。テーマは「遣わされた地に立つ教会論」と言って、教会の会計とか宗教法人、牧師の待遇などの実務的なことを教会的視点から考えるという講座でした。私はまさに、お金の計算とか事務的な分野が苦手なので、とても良い学びになりました。法人格と社会保険などは教会としてどのように取り組むのか、そのことも学ぶことができました。
 
 皆さんにも学んで来たことを共有したいと思いますが、今日のところは、教会の実務における中心的な心構えだけを、まずお伝えしたいと思います。それは、教会のすべての業に共通することではありますが、教会の諸問題に対して福音の光を当てて、解決、回復の道筋を立てるということです。特に、教会の戦いとは、教会外にあるこの世との戦い以上に、教会の中から出て来る、この世的な基準、常識、振る舞いとのせめぎ合いであるということです。
 
 このことには、大変教えられました。私たちはこの世に置かれたクリスチャンです。それは、この世。つまり神を認めない、罪で歪んだ世界において、世の光、地の塩としての使命があるということですが、教会の内部から、この世的な常識がまかり通っていたり、きれいごとだけではこの世は渡れないなどという、神のきよさから程遠い考えが出て来ることがあるからです。私たちは、教会に居る時間よりも、外の社会にいる時間の方が長く、聖書の言葉に触れる時間よりも、この世の情報に弄ばれる時間の方が長いので、知らないうちに、この世の物言いになったり、この世の価値観を優先させてしまったりするものです。
 
 気をつけていても、知らないうちに、教会の中にこの世の価値観、やり方を持ち込んでしまう。そのことに注意しなければならない。そのことを、今回の講座で学びました。宗教法人という制度は良いかも知れません。しかし、だからと言って、会社法人に簡単に置き換えて考えてはいけない側面があるという事です。教会が雇用者で牧師が労働者という置き換えはNG。牧師の就業規則の是非など、ついこの世の基準と置き換えてしまうところに、今回の講座でメスが入れられたということです。今回の講師が牧師などの教職ではなく、信徒であり、一教会の役員という立場の方でした。だから牧師ならば言いづらいことを、率直に述べておられたと思います。
 
 このように、私たちも、いつも自分の思考回路、または言葉にして出すときに、この世の価値観ややり方で考えていないか吟味が必要だなと思わされました。ことば遣い一つから、そのことを考えていく。その意識付けの大切さと、いつも祈りとみことばを優先する生き方に、そのことが培われることも学びました。実は、このことと、今日から学ぶ創世記34章の出来事はよく似ています。
 
 神と格闘し、神様への信仰が深められ、主の前にも人の前にもへりくだる人とされたヤコブ。そして、苦手意識を持っていたエサウとの和解ができ、事は一件落着という場面ですが、今日、読んだところを皆さんはどのように判断するでしょうか。
 せっかくエサウと仲直りして、ホッとしていたら、大変な事件に発展していくヤコブ一家。いったいヤコブ一家に何があったのか。ヤコブ自身が何をしたのか。彼にどんな理由があって、今日の事件になったのか、そのことを見ていきたいと思います。
 
 
1.ヤコブ一家を襲う不幸
 今日は、34章1節から読みましたが、このストーリーは33章17節以降から繋がっています。今日の説教題が「途中下車の結果」としているのは、ヤコブのこの足取り、行動はこれで良かったのですか、という問いがここにあるからです。つまり、神様から「あなたの生まれた国に帰りなさい」というみことばをいただいていながら、そんな場所の土地まで買って、定住して良いのかということです。
 
 なぜヤコブは、生まれ故郷へ急がずに、こんなところで足踏みしてしまったのか。しかも休憩というレベルではなく、土地を購入したってことは、これから先へ進むにしても、それが足かせになるというリスクを伴います。このヤコブの姿がかつての私と重なります。つまり、緊張感が続いたあとの、ホッとしたときに、それまでの献身的な思いや、神様への信仰は失っていないと思われる中で、どんどん不幸なことが起こるという部分で、です。どうして、こんなことになるのか。これは、単なる偶然の連続なのか。それとも、神様からの罰なのか、警告なのか、教育なのか、一体何なのか。
 
 私が26歳のときに、献身のみことばが与えられて、その時の私は益々、住む家は賃貸に限ると思っていました。やはり持ち家では、この世では旅人であり寄留者であるという生き方は難しくなると思っていたからです。しかし、教会の執事としても、信徒説教者としても充実した教会生活が与えられたり、札幌での暮らしも慣れてきて、子どもたちも成長し、仕事の上でも多くの仕事を任されるようになって収入が増えていったときに、つまり安定した生活を感じていたとき、マンションを買っても大丈夫ではないかと考えるようになり、結局、マンションを買うことに決めました。
 
 私は、そのあたりから実際に伝道者としての訓練を受けるために神学校に入るのではなく、信徒として教会を支えていく意味での召しかも知れないなどとも思い、自分の目指すべきものがぶれていきました。その背景には、滝川から札幌へ移って来た緊張感、新しい仕事環境が変わったという緊張感、教会を転入会することの緊張感があってからの、というプロセスがありました。まさにエサウとの再会という緊張を通ったあとのヤコブのようです。
 
そこから数年たって、生活が軌道に乗り出して、ホッとしていた時期でした。そういう時に、収入が増えて、休みも週休二日制となって、段々と信仰よりも、この世の基準の安定が私の平安の中心になっていきました。仕事が丁度よくあって、休みもそこそこあって、家族と外食も出来て、幸せだという、その幸せ感を支えるものが、神様からの恵みであるという価値観から、自分が頑張って家族を養っているのだという思い上がりがあったのだと思います。そして、いつしかお金がこのくらいあれば大丈夫だという、この世的な思考になっていたと思います。
 
 ですから、家を買うことが悪いのではなく、そこに至る判断基準はどうだったのかが問われるということです。つまり、私がマンション購入を決めた基準には、お金があれば大丈夫という、まったくこの世の価値観があり、さもそのマンションをささげて伝道の場にするという名目を掲げつつも、やはりその判断にはこの世的な価値観という混ぜ物がありますから、それは神様の前にはきよくありません。
そういうところに信仰の破れ口があり、その信仰のほころびから、崩れるように、様々な出来事が襲って来るのです。
 
 
2.さらに泥沼へ~救いはどこへ
 ヤコブもそうでした。ヤコブには、一人の娘がいました。ディナという、ヤコブの二人の妻のうちのレアとの間に生まれた愛娘です。ディナはこれまでのハランからの長い逃亡の旅があって、ここで久しぶりに落ち着いていられたようです。そこで自分と同じような世代の地元の娘たちと友達になろうと散歩に出かけます。ある意味、無防備であり、柵から外に出た子羊です。すると、そこに、ヤコブが土地を購入した相手側の人間であるシェケムが、まさに狼が子羊を襲うように、乱暴し、ディナを辱めてしまったのでした。
 
ところが、このシェケムは自分が犯した罪を償うのではなく、自分が襲った相手であるディナのことを好きになり、愛するようになったとあります。それで、自分の父親に相談して、ディナを嫁にもらいたいと願うのです。ここを見ると、このシェケムの人たちの何か常識が歪んでいることに気づかされます。暴力で女性を辱めておいて、そのあと礼儀正しく親を通じて結婚を申し出て来るという、不思議な非常識な文化を感じます。
 
もし、当時のこの地域の女性に対する扱い方として、このような結婚方法が当たり前のことであったとしても、聖書はそうは言っていません。7節を読みます。
ヤコブの息子たちが、野から帰って来て、これを聞いた。人々は心を痛め、ひどく怒った。シェケムがヤコブの娘と寝て、イスラエルの中で恥ずべきことを行ったからである。このようなことは許せないことである。」
 
 この創世記の記者自身が「このようなことは許せないことである」と、神のことばとして、神様の常識をはっきりと書き残しています。これはあってはならない、酷い出来事であって、これを当時の常識として認めて良いものではないのです。ディナ本人もヤコブの家族全員が心を痛め、怒ったのです。この蛮行を見過ごしてはならないと。
 
 そこで、ヤコブの息子たち、つまりディナの兄弟たちの矛先は妹を辱めたシェケムとその一族全員に向けられます。ヤコブの息子たちは、どうしても結婚させてほしいと願うシェケムとその父親ハモルに対して、割礼を受ければ、結婚させてやっても良いと言います。それは割礼を受けるということは、このヤコブ一族、つまりアブラハムの契約の民として扱われることになるからです。しかし、それは表向きの理由であり、その本心は、ディナを辱めたシェケムと一族もろとも皆殺しにするという企みがあったのです。
 
 ここに、被害を受けた側にとって非常に大きな試練があります。それは、暴力で辱められたのだから、暴力をもってその責任をとってもらうという刑罰による解決と、暴力は良くないから、お金を払ってもらって、賠償金で良いことにするという穏健策。特に、この時代、きちんとした行政や司法警察機関がないときに、誰がこれをさばくのか。そしてディナの受けた傷を癒すことができるのか。結婚させればそれで良いのか。彼らの罪を放置して良いのか、という悩みが生まれます。
 
 これはロシアのウクライナ侵攻においても同じテーマがあります。毎日、目の前でロシアによってミサイルやドローンが落とされて命を失っている人がいる。国家が国家に対して行っているので、ロシアの蛮行を止める法的機関はありません。では、このまま見過ごしていて良いのか。そのことについては、この次の説教の中で触れたいと思いますが、今日のところでは、どうしてこのような悲しい出来事に繋がっていったのか。この出来事はエスカレートしていき、今度はシェケムとその一族の皆殺し事件にまで発展します。この彼らの怒り、そして聖書記者が語る「許せないことである」という言葉は、ヤコブ一家にとって大きな試練となった。その原因が、やはりヤコブの途中下車に問題がある。そのことを、今日の箇所から知ることができるのです。
 
 
3.祝福は神のみことばを第一にすること
 私は、みことばを伝える伝道者として召されていながら、この世の価値観を優先させ、そのあと、どんどん奈落の底に落とされるように、ローンが払えない、税金も納められない、どん底を経験します。私は、今日のヤコブのお話から、やはりヤコブがみことばを後回しにするのではなく、先ず主の言われたとおりに、「生まれた国に帰る」ことを第一にしていたら、ディナはこのようなことにならなかったと考えられます。
 
 そして、このあとの悲惨なことも起きなかったでしょう。ここに、この出来事が聖書の言葉として残されている意味があります。主の救いに預かった者は、主のみことばに忠実に従うことが最も大切だということをヤコブの出来を通して教えているのです。聖書は徹底しています。聖書は、神様のみことばを軽んじることについて、大変厳しく警告しています。だから、みことばを取り次ぐ者の責任はかなり重いです。
 
 モーセはたった一回、岩を打っただけで約束の地へ入ることが許されませんでした。それは、指導者がみことばを軽んじるところから、この世の基準が群れに入り込む破れ口となるからです。だから、現代の教会の中で牧師の責任は重大です。新約聖書にこのようなみことばがあります。
「私の兄弟たち、多くの人が教師になってはいけません。あなたがたが知っているように、私たち教師は、より厳しいさばきを受けます。」ヤコブ3:1
 
 ヤコブは、真の神である主を証しするイスラエル民族の祖先として、主のみことばに忠実である使命がありました。それだけに、この出来事は重いです。ヤコブはきっと、エサウとのことでホッとして、神様のみことばを後回しにすることを、そうとは思わないで、この場所にとどまったと思われます。ここに至るまで、祭壇を築いたとはありますが、神様に具体的に祈って途中下車したとは書いていません。彼はみことばでなく、自分の判断でこのくらいなら良いだろうと、この場所を買ってとどまったのでしょう。しかし、アブラハムの神、イサクの神は、今ヤコブの神として、そのヤコブを契約の民の祖先としてきよめます。
 
 私たちも、教会にこの世の基準、この世の考え方、やり方を無意識のうちに持って来るので注意が必要です。聖書に書いていないことだから、この世のやり方でやる。よくある判断です。でも、本当にそうでしょうか。それは、神様の言葉には限界があると言っているに等しいことです。聖書は信仰のことだけで、一般社会のことは一般社会のルールでやりましょう。本当にそれで良いのでしょうか。
 
 いつも聖書に聴き、聖書の言葉に触れるとは、この世のあらゆることを考えるときに、聖書的視点を与えて、どんなことも教会的に行動する生き方を生み出します。例えば車の運転の仕方そのものは文言としては聖書には書いていません。でも、聖書をいつも読み、神さまとの交わりを持っている人は、どのような運転が神を愛し、人を愛するのか、その目的に則った神のしもべとしての判断と行動を与えます。
 
 
結び
 教会の活動の中心は何でしょうか。それは礼拝です。それは、この礼拝式の時間だけのことを言っているのではありません。この礼拝式の延長上に礼拝という生き方があるのです。ヤコブは確かに要所要所に祭壇を築き礼拝しました。でも大事なのは、その祭壇を築いたという礼拝が、そのあとの生き方になっているかどうかです。私たちも日曜日ごとに礼拝式において礼拝しています。しかし、後奏が終わったら、そこで礼拝が終わりではありません。厳密に言えば、報告・歓迎の時も礼拝式の一部です。やれやれという時間ではありません。
 
 ヨーロッパのある教会に行くと、報告の時間は後奏の前に置かれていて、後奏が流れている間に、それぞれが家に帰って行くそうです。それは、ここから遣わされるという信仰がそこにあるからです。一週間の信仰の歩みがこの礼拝式から始まったということです。最近、前奏、後奏の曲名を週報に載せているのは、その曲にその意味のみことばが流れていることを、私たちが知るためです。ですから、今朝であれば、この礼拝式の恵みを携えつつ「神の国と神の義」を第一にして生きようというメッセージがあるのです。そのことも考えて、奏楽者の兄弟姉妹は祈り備えています。それは曲を通して説教しているのと同じだからです。ただの伴奏ではありません。すべて礼拝はみことばなのです。だから、そこまで受け取って、ぜひこの礼拝から遣わされたいと思うのです。
 
つまり、私たちの歩み、すべてにおいて神への礼拝、感謝、献身であること。それが福音に生きることであり、その生き方でキリストを証しする伝道です。だから、教会の活動一つ一つにおいても、礼拝は続いています。総会も教会員会も礼拝です。言い換えると礼拝で語られた御言葉の恵みへの応答です。
 
 今回の公開講座でも言われていましたが、教会の会議の持ち方、あり方、言葉遣い、態度、すべてにおいて、それは主への礼拝かどうかが問われるということです。そう考えるならば、そのどこにこの世の価値観が入る隙間があるでしょう。私たちが神様の御顔を仰ぎ、賛美し、みことばに生きようとする、そのどこにこの世の常識が挟まってくるでしょう。確かに罪は戸口で待ち伏せしているしたたかなものです。しかし、一人ひとりが主のみことばを預かっている者として、礼拝に生きるならば、まず教会が変えられます。礼拝式以外の活動も変えられます。
 
 そして、私たちが遣わされる、家庭、職場、学校、町内、その置かれたところでの社会が変えられます。あなたが遣わされる、その場所が天の御国と繋がるのです。それは、神に感謝して生きるあなたからキリストの香りがあふれ出るからです。そこに神の国が建てられるのです。だから、この世の価値観や常識ではなく、主からいただいたみことばで満たされ、破れ口に神の国が、神の支配があるようにお祈りしたいと思います。
 
祈り 「天にまします。我らの父よ。御名を崇めさせたまえ。御国を来らせたまえ」

2022年10月16日

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この日は講壇交換で、東栄福音キリスト教会の副牧師である斎藤雄一先生が白石教会へ。川﨑憲久牧師は東栄福音キリスト教会で説教奉仕でした。

 

その東栄福音キリスト教会での説教動画のリンクを貼らせていただきました。

Facebookの動画です。

 

https://fb.watch/gcNN6e6BmT/