のりさん牧師のブログ

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2022年10月30日 白石教会礼拝説教

説教題 「どの道を選ぶのか」
聖書箇所 創世記3章1章7節
 
 

【罪】「人は、アダムとエバをはじめとして、神に背き、罪の道を選び取りました。罪のゆえに、すべての人は創造主の御心にかなわず、造られたときの神の似姿を損ない、世界の秩序を混乱させ、悪と死に隷属させるもろもろの霊に身をゆだねました。」
 
 今朝は、私たちの信仰告白に基いて、「罪」について考える教理説教の日です。全知全能の愛なる神様が、とても素晴らしい世界と人間とを創造してくださいました。しかし、どうしてこの世界には罪があるのでしょうか。どうして私たち人間は悪いことを考えたり、行ったりするのでしょうか。
 
前回の教理説教では、「人と被造物」というテーマを取り上げました。それで、聖書のこのようなみことばを確認しました。
「神は人を御自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された」創世記1:27
 
 私たちが「神のかたち」として創造されたことは、神様のご性質である知性・感情・意志を与えられ、神様とつながる者として造られたということです。だから、私たちが色々考えたり、感じたり、一つのことをやり抜いたりできるのは、私たちが「神のかたち」として造られているからです。また、私たちは神様とつながる者として造られているので、私たちが神様を礼拝して仕えることこそ、人間の本当の生き方なのです。
 
 私たちには「神のかたち」として創造されたので、一人ひとりには尊い価値があります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)。だから、神様の目に尊い存在である人を傷つけること、たとえばいじめのような行為は、神様が悲しまれます。自分の事を変えないで、神様の目に尊い存在である他の人を変えてコントロールにようとする、利己的な考え方、そのように行うことも悲しまれます。
 
 また、私たちには良心が与えられていて善悪の判断ができます。他の人を愛し、この世界を正しく平和に治めていくことができるのも、私たちが「神のかたち」に造られているからです。このように、もともと神様は私たちを「非常に良かった」者として創造してくださったのです。そのことを、前回の教理説教で受け取ってまいりました。
 
 
1.罪
 そこに罪が入ってきます最初に創造されたアダムとエバは、神様と良い関係を持っていました。神様も二人を愛し、必要なものをすべて与えてくださいました。しかし、二人は、自分たちが神様のようになりたくなって、神様の信頼を裏切り、命令を守りませんでした。今日の聖書箇所のように、です。そのようにして、人間は罪を犯すようになってしまいました。それが告白文にある「人は、アダムとエバをはじめとして」の意味です。そして、「神の背き、罪の道を選び取りました」と続きます。つまり、人間は自分の意思で、神様に背き、自分の意思で罪の道を選び取ったのです。その責任は、アダムとエバから始まりましたが、その罪の道を選び取った責任は、その一人ひとりにあるということです。
 
 罪とは、神様が私たちに期待している生き方からずれることです。皆さんの内側には、他の人を妬んだり、嫌ったりする思いはないでしょうか。人をいじめたり、無視したりすることはないでしょうか。人が嫌がることを言ったり、メールや手紙に酷いことを書いて、人を傷つけたことはないでしょうか。また、人を外見や学歴や職業などで評価することはないでしょうか。
また、自分の生活や事情は変えないのに、人のことや教会のことを変えようとすることはないでしょうか。それは、自分が中心、他の人の支配者になっているということです。このようなことはすべて、神様が私たちに期待している生き方からずれている罪です。
 
 罪の中心は、神様を神様として認めないことです。一番大切にしなければならない神様よりも他のものを大切にすることが罪の中心です。モーセ十戒の第一戒には「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と教えられています。つまり、神様以上に大切にするものはすべて偶像礼拝になるのです。自分の願い、趣味、仕事、生活、こだわり、時には家族すら、神様以上に価値を置くものがあるなら、神様を神様として認めない罪なのです。
 
 それが、罪の道です。神様への背きであり、罪の現実です。しかも、その罪の道を、私たちは生まれた時から、すでに歩んでいる一人ひとりであることを聖書は教えています。すべての人が例外なしに罪人なのです。使徒パウロは「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)と言っています。また、罪は私たちの全人格、つまり肉体・理性・感情・意志などすべてに影響しています。罪によって「神のかたち」がなくなったわけではありませんが、大きなダメージを受けて、歪んでしまって、神様の事よりも自分中心の思いに支配されるようになってしまいました。
 それが「主の御心にかなわず、造られたときの神の似姿を損なっている」ということです。
 
 
2.罪による他の人、世界への影響
 そのように、罪が入ってしまった人間は、交通事故を起こしたまま、かろうじて走っている自動車のように、自分だけでなく、周囲へも大きな影響を及ぼすようになりました。それは、まず他の人との関係においてです。
 
 私たちは、他の人を愛せるように神様によって造られました。ところが、罪によって自己中心的になればなるほど、他の人との争いが起こります。他の人の立場に立って共感したり、愛することもできなくなります。
 
 ヤコブの手紙を書いた主の兄弟ヤコブはこのように言っています。
「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。」ヤコブ4:1~2
 
 このように、罪によって他の人とも平和的に過ごすことが困難になったことは、私たちの周辺の小さな社会にとどまらず、世界規模に、宇宙規模に深い影響を与えています。
 神様は、この世界をすばらしいものとして創造され、私たちにその世界を耕し、正しく治める責任を与えられました。ところが私たちに罪が入ってしまったために、人間が築いてきた社会も、罪に誘いやすく、神様から遠ざけやすい仕組みを持っています。
 
 神様から与えられている「性」を社会や家庭の祝福のために用いるのではなく、快楽やお金のために使うことが多く見られます。また、世界を正しく管理するのではなく、資源を浪費し環境を破壊し、他の国や人々から奪い取ることも行われています。
 
 皆さんの社会には、差別や不公平はないでしょうか。自分が働いている職場が不正をしていることがあるかもしれません。あるいは、私たちが属しているこの日本という国が、他の貧しい国の資源や労働力を利用して豊かになっている面もあります。そのようなことが世界中にあり、悲しいことですが「この世」全体が、罪の影響を受けているのです。事故を起こした車はすぐに整備工場に入れて修理しなければ、どんどん周囲をも巻き込んで、危険が広がっていくように、罪の影響は多方面にまで広がって行く力を持ちながら未来に進んでいるのです。
 
 そのことを私たちも聖書から認めている事実です。私たちはそのことを、「世界の秩序を混乱させ」と告白しています。その末路は、もろもろの霊、つまり悪魔とその配下にある悪霊たちの手下となって、やがて起こる最後の審判の時に、その悪魔と共に永遠の滅びへと向かいます。それが、罪の結果です。罪の道を歩む、その結果はもろもろの悪霊と同じように扱われていく、大変厳しい結果があることも聖書は割り引かず記しています。
 
 今週のみことばは、まさにそのことを端的に述べています。
「罪から来る報酬は死です」
 この死とは、肉体の死のことだけではありません。罪によって、私たちの人格すべてが神様から離れてしまいました。これを霊的な死と言います。神様から離れると、神様を認めたり、正しい判断をすることができなくなります。
 
 神様は愛なるお方であると同時に、最も聖く正しいお方です。ですから、罪を罰しないままにされることはありません。ときに、この罪で呪われた中で起こる禍を通して、神様は私たちに間違いを気づかせることもあります。それは、その罪の道から離れさせ、神様に立ち返ることを望んでおられるからです。
 
 私たち人間は、罪深いです。ですから、自分の力で自分を救い出すことは不可能です。溺れている人が自分で自分を助けられないように、罪の沼で溺れている私たちは、自力で脱出できないのです。罪から来る報酬である死とは、そのように、この世にあっても実は既に死んだも同然であるという意味なのです。
 
そして、更に、そのあとに待つ、肉体の死を迎え、最後の審判において神の前に出た時に、どの道を選んだのかが問われます。そのときに罪の道を選んでいたならば、そこに神との永遠の断絶が待っているということです。これは、脅しているのではなく、罪の結果の話をしています。私たちが告白している「罪の道を選び取りました」という言葉は、その影響、結果、行き先をも指し示しているのです。
 
 
結び
私たち人間は、最初に「神のかたち」として神様に素晴らしく創造されたのですが、神様に背き、逆らって、罪の道を選び取ってしまいました。罪は、個人にも人との関係にも、この世界にも、全宇宙、被造物にも大きな影響を与えています。罪あるままでは私たちは霊的な死(滅び)に至ります。
 
しかし、今週のみことばの後半にあるように、この「しかし」からが大切な救いのメッセージです。それは次回の教理説教で扱いますが、この罪の悲惨の中に神様はひとり子であるイエス・キリストを賜物として与えてくださいました。その救いの御子が与えられた恵みの大きさは、その事実だけでも偉大な神の御業です。しかし、私たちは、今朝、あらためて罪について向き合い、世界の罪、日本の罪、そして自分の罪に向き合いました。
 
もう救われたのだから罪の話はしないでほしいという人がいるかも知れません。気持ちが暗く重くなるので、さばきの話もしないでほしいという人もおられるかも知れません。でも、あえて罪を学ぶのは、私たちがもともとどのような者であったのかを知ることで、今、いただいている救いの恵みが当たり前でないことを悟り、神への感謝に溢れるためだからです。パウロもエパソ教会の人たちに、「あなたがたは自分の罪過と罪の中との中に死んでいた者」であり、(悪霊)に従って歩んでいた。生まれながらに御怒りを受けるべき子らでしたと、エペソ教会の人たちのもともとの姿をあえて指し示しました。
 
それは、次のみことばの持つ大きな恵みに気づかせるためだったからです。
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。」エペソ2:4,5
 
「あなた方が救われたのは恵みによるのです。」
 
 このことを忘れてはいけません。罪人であったことを忘れてはなりません。そして、そこから一方的な神様の愛によって、今、選ばれ、救われていることがどれほど大きな恵みなのか、そのことを決して忘れてはなりません。風化させてはなりません。当たり前になってはなりません。なぜならば、もろもろの霊たちは、すでに救われている私たちをもう一度仲間にしようと戸口で待っており、いつも友人のように誘惑しているからです。
 
 そのために、悪魔に立ち向かうためみことばを御霊が与える剣として、きちんと持っていなければなりません。
 
 悪魔の誘惑は天地創造のときから変わっていません。自分たちが恐れる神のことばという剣を使えないように、私たちを惑わすことが、彼らの誘惑の中心です。もしアダムとエバが神様からのみことばを正しく覚えて語っていたら悪魔は退散したでしょう。でも、それができずに罪が入ってしまった。しかし、第二のアダムであるキリストは、荒野の誘惑で、ことごとく正確に聖書のみことばそのもので、悪魔を退けました。そこに、この罪の道にいざなう世界において、どのように生きるかが示されています。
 
 せっかくキリストを信じたのならば、罪の道に戻るのではなく、神のみことばによって勝ち進む勝利の道を選び取りましょう。だから、聖書のことばに日々触れて、同時にみことばを正しく覚えることをお勧めします。旧約のイスラエルの民にモーセは言いました。
 
みことばを「心に刻みなさい。子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱に書き記しなさい」と。
 
 今週も、罪の道ではなく、いのちの道、キリストの道こそ選び取って、神様が期待される祝福の歩みを続けてまいりましょう。