のりさん牧師のブログ

恵庭福音キリスト教会の牧師をしています。おもに日常で気がついたことや、聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「罪人を赦す主の憐み」

 ヨナ書3章1節10節
 
序論
 皆さんにとって神様とはどんな方でしょうか。優しい方でしょうか。それとも怖い方でしょうか。よく旧約聖書の神様は厳しくて恐ろしい神様だけれども、新約聖書の神様は寛容で優しい神様だと言われることがあります。
 ところが、このヨナ書を見る限り、その厳しくて恐ろしい神様というよりも、憐れみ深く、忍耐強いお方だと思わされます。
 まず、イスラエルの敵であるアッシリア帝国の人々にみことばを語って救おうとされました。そして主の御顔を避けて逃げた預言者ヨナを厳しく罰したり、首にするのでもなく、試練を通してもう一度用いようとします。
 先週まで、ヨナの失敗した姿から学ぶと同時に、そのような大変寛容な神様の姿も見てまいりました。その神様は、敵にも味方にも非常に恵み豊かで、繰り返しチャンスを与えて待つお方として、今日も私たちの前に立っておられます。今日はあらためて、旧約聖書の小さな預言書から、憐れ意深い神様に出会ってまいりたいと思います。
 
 前回まで、ヨナは神様によって備えられた大きな魚に呑まれて、地獄に入れられたような経験をしました。真っ暗で、息ができない孤独の世界。同じような境遇の人が一人でもいたら、まだ良かったかも知れません。しかし、そんな人はおりません。ここが、ヨナが体験したリアルな「よみ」の世界でした。
 死ぬほどの苦しみが続く真っ暗な世界。しかも、そこには自分だけです。地獄もそうです。他に地獄に行った仲間がいると思ってはなりません。そのような気休めさえもない状態だから地獄なのです。しかし、ヨナは一つだけ地獄ではありえない経験をします。それは、神様との会話。それは祈りです。しかも、それは一方的なヨナからの告白のようでありながら、祈っているうちに、感謝が込み上げるほどに、無言の神様からの答えが与えられた、まさに神様との安らぎのひと時となったのです。
 ヨナは、自分は死んで地獄に行ったのだと思っていました。主のみことばに聞き従わないで、勝手に逃げ出し、しかも、まるっきり反対の場所へ行こうとしていた。そこで海に投げ入れられて、海の水をたらふく飲んで、暗い世界へと行ってしまった。ここは、地獄なのだと確信していました。
 ところが、まだ暗い世界にいるうちから、心に希望が与えられて、主のためにもう一度働ける。主に自分が生贄となって、命がけで預言者としての誓いを果たそう。なぜならば、「救いは主のもの」だから。預言者はただ語るだけ。救うかどうかは神にかかっている。そのことをヨナが感謝とともに確信したとき。そう告白したとき、主はヨナを魚の腹の中から救い出したのでした。ここを主イエスは十字架で死んで三日間よみに下り復活したことと重ねたほど、この出来事は奇蹟であり、またヨナ自身が一度死んでよみがえったことと同じ経験をさせられたということでもあります。
 
1.主のみことばのとおりに
 そこで今日の1節、2節です。
「再びヨナに次のような主のことばがあった。『立って、あの大きな町ニネベに行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ。』」
 主はとても優しいお方です。ヨナを「再び」預言者として立たせました。御顔を避けて逃げたヨナを主の「預言者」として「再び」用いられるのですから。神様は本当に優しいお方です。一般の会社ならばクビになってもおかしくありません。兵隊ならば脱走は軍法会議にかけられ独房入りでしょう。私が殿様ならば、このような家来は切腹させるかも知れません。
 しかし、神様は、魚の腹の中に入れて独房のような場所の経験はさせましたが、そのことすら用いて再び預言者としたのです。それは「ヨナに次のような主のことばがあった」という言葉に証しされています。主はヨナを預言者として認め、召しているからこそ「主のことば」があったのです。偽預言者は自分で言葉を作り出しますが、本物の主の預言者は主からことばを預かります。だから預言者なのです。だから主は、ヨナに「立って…わたしがあなたに告げることばを伝えよ」と言われます。預言者はどんな試練からも立って、立ち上がって、主の告げることばをそのまま伝えなければなりません。
 それでヨナは、今度は逃げずに実行するのです。3節、4節。
「ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな町であった。ヨナはその町に入って、まず一日目の道のりを歩き回って叫び、『もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる』と言った」
 今度こそヨナは「主のことばのとおりに」ニネベに行きました。そして、「叫び」とあります。この叫びは、あの1章2節での主の命じられたみことばにも繋がる大切な行動です。主は、そもそも「あの大きな町ニネベに向かって『叫べ』」と命じていた、このニネベ宣教への最初のみことばでした。ここに、ヨナを再び立ち上がらされた主の恵みを見ます。
 主から逃げていた男を主は、もう一度、選び立たせるお方。それは、ヨナだけのことではありません。今を生きる私たちにも、主はこの大きな憐みを持って臨んでくださっています。使徒パウロもこう言っています。
「神の賜物と召命とは変わることがありません。」ローマ11:29
  このパウロのことばは、ユダヤ人たちのイスラエル民族としての神様からの召しについて述べているみことばですが、これは現代を生きる私たちクリスチャン、キリスト教会にも適用できます。
 私たちが自分勝手な言葉を優先する偽者のクリスチャンであれば別です。しかし、主のことばのとおりに語り、実行しようとする信仰があるならば、主から与えられたその召し、召命は変わることがないのです。新しい翻訳では「取り消されることがない」と書いてありました。そうです。主に召された私たちは、主に愛され選ばれているのですから、私たちの弱さ、失敗によって取り消されることはないのです。そのことを今は、聖霊を与えることによって証印を押してくださっています。
 あなたは大丈夫です。主はあなたの弱さや信仰の貧しさによって、あなたを見捨てることはないのです。
 
2.悔い改める者を赦そうと待っておられるお方
 ヨナはニネベの町を歩き回って、主のことばをそのまま叫びました。すると、ニネベの人たち、そして王様はどうなったでしょうか。5節、6節。
「そこで、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで荒布を着た。このことがニネベの王の耳に入ると、彼は王座から立って、王服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中にすわった。」
 ニネベの人々は、何と神を信じたとあります。そして、断食し荒布を着たのです。王様も、その知らせを聞いて、同じように荒布をまとって灰の中にすわったとあります。この状況は、日本人の私たちには分かりにくい表現ですが、断食することや、荒布を着ること、灰の中に座るという動作は、神への悔い改めを表しています。先に神を信じたということが大切です。だから、その神様にたいして、自分がどれほど罪深いかということを知らされて、その惨めな自分を認め、悲しみ、神の祭壇の上で燃えつくされて灰となってもおかしくない存在である。そのことを彼らは身分の高い者から低い者まで、しかもその町の支配者である王様までもが、神への悔い改めを表したのです。
 この信仰、この姿勢は信仰者としての驚くべき第一歩です。よく、聖書は大きく三つのテーマで書かれていると言われます。それは、「神・罪・救い」です。この「神・罪・救い」の順序はとても大切です。聖書を通して、まず神様に出会います。神様がどんな方か見えてきます。神様がどれほど偉大で、きよく、愛に溢れているお方であるかが分かってきます。すると、私たちはどうなるでしょうか。その神様の素晴らしさが分かればわかるほど、私という人間が見えてきます。それは、まるで、夜明けの空に日が昇って、薄暗い町がはっきりと明らかにされていくように、私という人間のすべてが浮き彫りにされていく経験をします。すると、いくら自分が他の人よりも普段はいい人間だと思っている人でも、きよい神様の前には罪に汚れた人間であることがはっきりしてくるのです。
 夜、電気をつけなければ見えない部屋の中も、電気をつければちらかっているのがバレるように、神様を知る私たちも、色々なことがばれてくるのです。そこで、私たちも、もし、このニネベの人たちのように素直であれば、断食して、荒布をまとい、灰の中にすわるような悲しみを覚え、そのままでは神様の前に滅びる者であることに気づかされるのです。
 そこに、救いがある。これが聖書を通して神様が私たちに伝えている普遍的な真理です。
 しかし、今日のヨナの説教では、救いまでは語っていません。「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる」といっただけです。つまり、滅びる宣言だけです。でも、ニネベの人たちは、そのヨナの宣言を馬鹿にすることなく、非常に素直に受け入れています。自分たちの何が悪いのか、指摘されて、みんな認めたのです。これもまた奇蹟です。多くの人間は、自分の間違いを認めたくありません。特に、国を治めるリーダーは、いつも自分が正義であるかのように振る舞います。選挙に負けても人のせいにしたり、全然説明できていないのに、政府としてきちんと説明していると言い切って、独断で決めていくのは、国民としてそのリーダーに従っていく気にはなれません。
 しかし、このニネベの王は、王座にとどまり続けることをせずに、そこから立って、権威の象徴である王服すら脱いで代わりに国民と同じ目線で荒布をまとい、王として代表して灰の中に座ったのです。これは、王だけが行った行為です。それは、神の前に悔い改めを表しながらも、その罰を自分だけが受けるので、それを国民に負わせないでほしいという、王として国民を、また国を守ろうとする為政者としての執り成しの表れではないでしょうか。
 しかも、王として、国民に大切なことを布告します。Go-to 悔い改めです。あんなイスラエル預言者の話なんか気にしないで旅行にでも行きなさい。美味しいもの食べなさい。たくさん買い物しなさい…ではなく、その忠告である神のことばを受け入れて、市民全員が家畜も含めて、神の前に断食をして、荒布をまとい、それだけでなく、「おのおの悪の道と、暴虐な行いから立ち返れ」とです。7節をよく見ると「大臣たち」もこの命令に加わっています。それは、このGo-to悔い改めには造反者がなく、一致して一丸となって神に立ち返ることに努力していることがわかります。
 そして、王は、このGo-to悔い改めのメリットを一言添えます。9節。
「もしかすると、神が思い直してあわれみ、その燃える怒りをおさめ、私たちは滅びないですむかもしれない。」
 ニネベの王が期待したことは、神の憐みでした。しかも「滅びないですむかもしれない」と、やや不安げに言っているのは、救われるというのは、むしろ自分たちの努力ではなく、神の主権にあることを認めているからだという事もできます。そうです。救いは主のものです。そのことをニネベの王も、認めていたのです。
 しかし、その悔い改めの努力は努力として、決して無駄にはなりません。いや、主はそのような主に立ちかえるための私たちの努力を無視しません。それは必ず報いられるのです。10節。
「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」
  これは、神様の救いには人間の努力も半分必要だという話ではありません。ここでの主語はあくまで神です。神が主権的に、彼らの努力をご覧になって、まさに彼らが期待した、主の憐みによって滅ぼすことをやめたということです。
 結果的には、この努力すら神の賜物であることがわかってきます。そして、ただ主の憐みのゆえに、選んでくださって、罪が赦され、救いに預かっていることに感謝するのです。
 
結び
 これは、先週のヨナと同じです。私たちは、ただ主のみことばを受け取り、自分にできる最善を尽くして、語っておられる神に応えるだけです。目の前に用意され差し出されているプレゼントを受け取るだけです。その神への応答を信仰といいます。神様とのコミュニケーション。それが信仰生活です。
 ニネベの人たちは、ヨナを通して与えられた主のことばに、悔い改めの行動をもって応答しました。
 今、私たちは、主のみことばにどのように応答するでしょうか。ある人は、主への不満かも知れません。ある人たちは、このニネベの人たちのように、罪の悔い改めかも知れません。ある人は、与えられている恵みへの感謝かも知れません。また、ある人は、その感謝が溢れて、主への賛美かも知れません。また、ある人は、全生涯を主の働きのためにささげることかも知れません。
いずれにしても、罪深く、弱い私たちを、今日も憐れんでくださって、語ってくださっている主に対して、御顔を避けずに、このニネベの人たちのように、そのままの心で、素直にこたえてまいりましょう。