のりさん牧師のブログ

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2021年9月12日 礼拝

説教題 「あの人は元気ですか」
聖書箇所 創世記29章1節~14節
 

 今日の招きの詞は、キリストを信じる者にとって、大変励まされるみことばではないかと思います。
「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
 「だれでも」つまり、どんな人も。どんなに罪深い人も、どんなに貧しくても、これまでどんな不幸を背負って来たとしても、キリストを信じて、このキリストの中に生きる人が、新しく造られた者というのです。自分では、クリスチャンになったと言っても、ちっとも変っていない罪深い自分を見るときに、がっかりするものです。でも、みことばはそうではない。あなたは、もう新しいのだ。新しく造り変えられているのだと宣言してくれているからです。
 
 キリストを信じて、神様のことばが一番だとされた私たちにとって、みことばによって保証されていることが何よりの確信となります。みことばがそう言っている以上、私たちの感覚や判断ではなく、みことばを信じよう。みことばに信頼しよう。そういう生き方をはじめた者にとって、その価値観をもって人生の旅路を歩むことが何よりも大切です。
 
 だれかが私たちを批難しても、聖書はこのような私でも尊いと言っている。神様は、このような足りない者を愛しているとおっしゃってくださり、現実に神様の子どもとして迎え入れてくださっている。だから、みことばを信じて、たとえ過酷だとしても、この人生の旅路は希望があるのです。それは、神の子どもとされた身分と、これから行きつく場所がみことばの通りに定まっているからです。
 
 それが神様に選ばれ救いをいただいた私たちの信仰の歩みです。だから、アブラハムも自分が寄留者であり旅人であることを自覚し、意識して、天の故郷を憧れていたのです。憧れるとは、早くそこへ行きたい。早くそこで安心したい。そういう場所だということです。私たちも、私たちの人生の旅をそのように希望をもって、進みたいものです。
 
 前回からヤコブの旅が始まりました。このヤコブの旅も、まさにそのような信仰人生の旅です。兄のエサウを押しのけ、騙す罪。父親をも欺いて、祝福を奪い取った罪。何よりも、そのような人を欺くことに良心の呵責もなく、平気で行っていた罪深さは、結局、兄の恨みを買い、殺されるところまでになってしまいました。
 みことばに「罪から来る報酬は死です」とあるように、ヤコブの犯して来た罪、そして、彼の罪の性質によって受けとるヤコブへの報酬は死だったと言って良いでしょう。しかし、ヤコブは死を覚悟した逃亡の旅の中で、主なる神と出会います。石を枕に野宿して寝ていたときに、彼の上に主が現れて、アブラハム、イサクの神であると名乗り、ヤコブへの祝福を約束されたのです。このことは、ヤコブにとっての福音であり、その罪による逃亡の旅が、ただの逃亡の旅ではない、神様による祝福の旅に変えられた瞬間でもありました。
 
 それは、私たちが、人生の過酷な旅路の中で、イエス様に出会い信じて、人生が単なる罪人の旅ではなく、祝福を受けた罪人、赦された罪人の旅になったのと同じです。
 ですから、私たちの人生はこれからが勝負です。天の御国まで誠実に主だけを信じて歩むか、古い生き方を捨てきれず、せっかく与えられた祝福の人生を棒に振るか。ヤコブも、まさにこの旅はそういう意味をもっていました。神様に出会って、はじめて自分から祭壇を築いてヤコブは主を礼拝するという経験をします。そして、何よりも、まだ何も得ていない状態で、これから与えられる恵みを先取りして、十分の一をささげますと誓ったこと。それは、自分のような罪人を愛し招いてくださった神様に対する感謝と献身の証しでした。
 
 今日は、その続きで、目的地パダン・アラム近郊に着いたところから始まります。ヤコブの旅と並行して、信仰生活の旅も、今日の出来事を通して新たな局面を迎えます。ここに私たちの信仰の旅路をともに見てまいりましょう。
 
 
1.試練の中の希望
 ヤコブは旅を続けて、東の人々の国へ行ったとありますが、これが目的地近郊に到着したことを物語っています。イスラエルから見る東の国。東方の博士たちを思い出させます。そこに、ヤコブは一人、徒歩で、ようやくたどり着いたのでした。そこに、井戸があった。今でいうとガソリンスタンドのような感じでしょう。
 
 それぞれ連れているらくだや羊などの家畜に水を飲ませるのです。このような場面は、アブラハムのしもべがヤコブの父イサクの嫁探しの場面でもありました。そのくらい、当時ではよくある風景です。ヤコブも旅の疲れを引きずりつつ、しかし、もうそこが、自分が目指していたパダン・アラムであり、親類のいるハランという町の近郊であることがわかっていたようです。
4節を見るとヤコブが現地の人たちに挨拶していますが、その言葉から、孤独の旅を続けて来たヤコブの一筋の安堵感が伝わってきます。
「兄弟たちよ。あなたがたはどこの方ですか。」
 ヤコブは「兄弟たちよ」と、親近感をもってそう呼びかけるのです。それは、その人たちが、自分の家族の近くで暮らしている人たちだと思ったから、親しみを込めて「兄弟たちよ」と呼びかけたのです。また、それだけでなく、これまで独りぼっちで危険な旅を続けて来た身であるからこそ、出会う人その存在自体がどれほど自分を慰めてくれているか分かったのではないでしょうか。
 
 孤独を経験した人ほど、出会いを喜び、出会う人の存在を喜ぶものです。誰が自分にとって益になるかではなく、その存在が尊いのだという価値観です。まさに、ヤコブは人を欺く罪人から、神様の視点へと変えられて行っているのです。神様は、私のことも、皆さんのことも、誰が何ができるから愛しているというのではありません。何か、他の人よりも秀でた能力があるから愛しているのでもありません。
 
 神様の価値基準は、神様につくられた私たちの存在そのものです。だから「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛してる」と言ってくださっているのです。だから、その愛する神様を信じて歩む者たちのことを、しっかりと弁護してくださる。それが、このようなまだ罪ばかりの私のことも、「見よ。すべてが新しくなりました」と宣言してくださるのです。それは、私の存在そのものを神様が愛してくださっている証拠です。その神様はあなたのこともその存在を愛しておられるのです。その思いをヤコブも抱くことができたのでした。
 
 
2.祝福に出会わせる神の配慮
 そして、この挨拶を皮切りに、本題に突入します。自分の母の兄ラバンのことを尋ねます。「あなたがたはナホルの子ラバンをご存知ですか。」
彼らはそれに答える。「知っています。」
  ヤコブは一呼吸置くこともせずに、さらに畳みかけるように、また尋ねます。
「あの人は元気ですか」
 すると彼らも、よそ者であるはずのヤコブを受け入れ、すぐに答えてくれる。
「元気です。」
 しかも、驚きのニュースをを教えてくれたのです。
「ご覧なさい。あの人の娘ラケルが羊を連れて来ています。」
 ヤコブは本当に驚いたことでしょう。この現地の人たちに会えただけでも、この上もなく嬉しかったでしょうが、まさか、このタイミングでこの約750kmの旅の、まず最初の目的である念願の親類に会える。もう目の前に来ている。これは、急に心臓が高鳴り、居てもたってもいられないほど嬉しかったでしょう。
 それでヤコブは、ぜひ、今、ここに来るラケルと二人きりで会いたくなったのでしょう。先に来ているその人たちに、井戸の方へ行ってもっと羊に水を飲ませてくださいと、人払いさせようとします。でも、井戸のルールがあって、他の羊飼いたちが集まってからでないとできないのだと、うまくいかない様子が描かれているのが面白いです。
 
 そうこうしているうちに、ラケルが羊たちを引き連れてやって来ました。彼女が羊飼いだったからであると、わざわざ、彼女が羊飼いであることを教えているのも面白いですね。これは深読みかも知れませんが、人の存在を喜ぶという神様の目線を経験したヤコブと、「主はわが飼い主、われは羊」と歌ったように、ラケルは羊飼いという仕事を通して、神様の目線を経験しているのです。
 
 そして、このタイミング。ここには一切、神とか主という言葉が出てきませんが、やはり、この絶妙な出会い方、彼らの経験と聖書の描き方。どこをとっても。これは偶然ではないでしょと思わないでしょうか。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
 神様は、実に色々なことを用いて、物事を祝福へと導いてくださるお方です。私たちの存在そのものを愛して受け入れてくださる神様は、神様を信じて生きようとする者の歩みを必ず確かにしてくださいます。これまで、どのような罪深い歩みをしていたとしても、またどのような不幸な生き方であったとしても、その起きてしまった最悪のことすら、あとで振り返ったときに、それがこの世の旅路を終えるときになるかも知れませんが、色々あったけれどもイエス様を信じることができて良かったと感謝するようになるのです。ヤコブは、今、そのことをまずここで一度体験します。
 
 
3.みことばの確かさを経験する
 ヤコブラケルを見ると、まず感情を抑えて、紳士として彼女に礼儀を尽します。10節「ヤコブが、自分の母の兄ラバンの娘ラケルと、母の兄ラバンの羊の群れを見ると、すぐに近寄って行って、井戸の口の上の石をころがし、母の兄ラバンの羊の群れに水を飲ませた。」
 そして11節。「そうしてヤコブラケルに口づけし、声をあげて泣いた。」
 ヤコブはダムが決壊するように、もうこれまでの試練の中から、目の前に置かれた祝福の実現に自分を抑えることをやめたのです。その祝福を現実のこととして、味わったのです。もちろん、まだまだ、この信仰の旅は始まったばかりです。
 しかし、今日の聖書箇所の中で言えることは、ヤコブは、罪の歩みから、祝福の歩みに変えてくださった神様のご配慮を体験したということです。本来であれば、罪人は滅ぼされても文句は言えないし、事実、ヤコブはそのような罪人でした。人にも神様にも罪を犯していました。
 
 しかし、神様はヤコブに出会ってくださり、ヤコブもベテルの荒野で神様を信じてからは、彼の人生が変えられたということをここに見ることができます。その人生は、ヤコブに語ってくださった神様のみことばが実現していくという経験の連続です。それは、信仰者ヤコブをこれまでのような人を騙す者から、神の視点をもって歩む者へと変えられるためでもあります。
 
 
結び
 これは、私たちもそうです。イエス様を信じてクリスチャンになって、これまでの罪の人生、また滅びへ向かう歩みは、神様によって修正され、これからも経験するすべての良いことも災いと思えることも、そのすべてが「私はそれで神さまのおきてを学びました。みことばを学びました」となり、「私にとってしあわせでした」という人生へと変えられて行くのです。
 
 しかも、それだけではない。ヤコブラケルが神様の視点を学ぶことになったように、私たちも、出会う人たちの存在を愛していくことや、そのように神を信じて愛していく人たちをみことばで養い、助け、救いに導くという尊い役目があるということではないでしょうか。これは、牧師や宣教師だけではなく、すべての神の子どもとされた私たちが与えられている使命なのです。
 
 ヤコブは、そのような使命があることをまだ知らなかったようですが、でも彼の言動から、彼が既にそのように造り変えられていることを見ることができます。それは、6節のところ。
「あの人は元気ですか」と自分にとって、まさに骨肉の親類ラバンおじさんのことを、気遣った言い方をしています。これまでは自分のためならば、親兄弟を騙しても良いという価値観の人間だったヤコブ。しかし、主に出会ってから、彼の価値観が変えられてきているのです。
 
 この「元気」という単語は、原語ではシャロームです。他の箇所では平和とか平安と訳されていることばです。それを、ここでは「元気ですか」と訳しています。この「元気」の意味は、私たちがよく社交辞令で使っている「元気ですか」という言葉ではなく、心からの気遣いであり、神様のご支配の中にある平和、平安に満たされているか。つまり、自分が荒野の旅で経験した、あの石の枕を祭壇にしてまで礼拝をささげた神のシャロームがあるのか。その心遣いであり、ヤコブからラバンへのエールではないのかと思うのです。だから13節、14節のラバンとの出会いは、放蕩息子のお父さんと弟息子を彷彿させる美しい場面です。
 
 私たちの人生も、多くの山や谷を経験するものです。その中には、自分の罪や失敗が招いた出来事もあるでしょう。しかし、神様はヤコブにそうであったように、私たちにも現れてこうして礼拝する者としてくださいました。そして、この人生という旅路を、主イエス・キリストの十字架の恵みのゆえに、見よ、すべてが新しくなりましたと、新しくしてくださったのです。だから、もう過去のことで、またこれからのことに不安を覚える必要はありません。主を愛し、主に従おうとする者を主は決してないがしろにしません。
 
 私たちも、この与えられている人生には、それぞれに多くの苦難が待ち受けているかも知れませんが、その都度与えられる恵みに感謝しながら、さらに出会う方々に、特に今、コロナ禍でなかなか教会に来られない兄弟姉妹のことを、神様にあって元気であるように、シャロームであるように祈りつつ、この新しい一週間も歩ませていただきましょう。