のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年12月11日 白石教会礼拝

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https://youtu.be/U5q4LI0H7cI

説教題 「高慢は破滅への道」
聖書箇所 オバデヤ書1節~21節
 
 

 なぜ、このようなアドヴェントの時期にオバデヤ書なのでしょうか。クリスマスが近いのだから、せめてイザヤ書とかミカ書でしょうと仰る方がいるかも知れません。しかし、先週申し上げたように、エサウの歴史もそうでしたが、このオバデヤ書もアドヴェントにふさわしいと思います。というのも、このオバデヤ書と「エサウの歴史」は繋がっているからです。
 
 そうです。今日、お読みした箇所にはエドムやエサウの名前が何度も出ていました。しかも1節で「エドムについてこうおおせられる」とあり、このオバデヤ書というのは、エサウの子孫であるエドム人のことが語られている書だと、この書の中ではっきりと言われています。神様が預言者オバデヤを通して語った預言。それもエドムの滅亡についての預言なのです。
 
 先週までは、エサウのような聖書において本流ではない傍流のような人にこそ、神様が目を留めておられるという、神様のその恵みに応えていこうというお話をしました。それがクリスマスのメッセージだからです。つまり、エサウヤコブを受け入れて良かった、また聖書にも系図を残して、神様はエサウにも目を留めておられた。それで終ったはずなのですが、実は、その後、エサウの子孫、つまりエドム人が、その祝福から逸れていき、結果滅亡するということです。
 
 せっかく神様から目を留めていただいているのに、その祝福を軽んじる。結局、その祝福を失う。その原因が「高慢」でした。5節に「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた」という神様の言葉が語られていますが、まさに「高慢」によってエサウの子孫であるエドム人が破滅へと向かってしまったのでした。
 
 主のみことばのとおりにするときに、イスラエルとともにエサウの子孫も祝福を得られるはずだった。ところが、主の御心である、弟に仕えることにある霊的価値を蔑み、祝福を棒に振ってしまったのでした。それが俗悪な者と呼ばれてしまう要因でしょう。この高慢が命取り。この高慢が神様からの恵みの価値を曇らせてしまいます。
 
 私たちに高慢はないか。高慢は神様の敵です。それはサタンの性質だからです。今朝の招きの詞に「主は…高ぶる者にはきびしく報いをされる」とありました。それは、高慢が破滅へ向かう道だからです。今朝アドヴェント第三主日は、そのことを覚えつつ、みことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.高ぶる者とその末路
 1節「オバデヤの幻。神である主は、エドムについてこう仰せられる。私たちは主から知らせを聞いた。使者が国々の間に送られた。『立ち上がれ。エドムに立ち向かい戦おう。』」
 
 このオバデヤという預言者が誰なのかは不明です。聖書に13回オバデヤという名前が出てきますが、だれがこのオバデヤ書を書いたのか、または別の人物なのかは、わかっていません。その名前の意味は「ヤハウェのしもべ」(エベド=奴隷、ヤハ=ヤハウェ)です。翻って「ヤハウェの礼拝者」という意味もあります。書かれた年代は、旧約聖書の預言書の中でも古いものだと言われています。このオバデヤ書の記述が後代に書かれたエレミヤ書やヨエル書などの預言書にも引用されているからです。ですからエルサレム陥落前、バビロン捕囚前で紀元前800年ごろとか600年頃とも言われています。
 
 いずれにしれも、その時にはイスラエル王国は北と南に分裂し、それまでダビデやソロモンによって支配されて来たセイルの地、すなわちエドム人の国は、イスラエルに反旗を翻し、イスラエルを攻めるアッシリアやバビロンなどの敵側の国に加担していたと思われます。出エジプトの時にも、エドム人たちは約束の地に向かうモーセ率いるイスラエルの民を妨害したことでも知られています。しかし、先週までのお話だと、弟ヤコブに仕えるならば主の祝福を得られるはずでした。でも、彼らは弟の子孫であるイスラエル人たちを妨害するようになった。その理由が、高慢になったからということです。どうしてエドム人たちは高慢になったのか。そのことが3節で言われています。
 
 3節「あなたの心の高慢は自分自身を欺いた。あなたは岩の裂け目に住み、高い所を住まいとし、『だれが私を地に引きずり降ろせようか』とこころの内に言っている。」
彼らはセイル山という高地に住んでいました。しかも、この聖書の記述通り、切り立った岩山が並んでいて、そこに近づこうものならば、必ず谷間の細い道を通らなければならないので、簡単にエドム人たちの攻撃に会ってしまう地形をしていました。自然要塞と言って良いでしょう。
 
 その難攻不落の場所にいることで、自分には敵がいないという自負が生まれたのでしょう。他の国にはない、軍事的に有利なものというのは、現代においても高慢のもとになるのかも知れません。彼らの高慢が自分を欺いているとは、そもそも小さく貧しく、愚かであるのに、高慢によって自分の惨めさがわからなくなっているということです。前回のメッセージでは、「この卑しいはしために目を留めてくださった」とマリアが告白していましたが、その視点を見失わせているということです。
 
 その岩の裂け目に住み、その高さに誰も近づけないだろう。自分を引き降ろせないだろうと、高慢が傲慢になり、4節を見ると、彼らが神の位置にまで上り詰めようとしていたことがわかります。鷲のように高くとは、そういう意味です。星の間に巣をつくるという動作も、バベルの塔を建てようとした人と同じ天に届く所に迄、神の御座にまで上り詰めようとしているほど高ぶっているという比喩です。
 
 3節後半にある彼らの言葉を見ると、悪魔の姿を彷彿させます。悪魔も、天使でありながら高慢になって神になろうとしたと言われています。自分の力を過信している者の姿です。「だれが私を地に引きずり降ろせようか」
 
 私たちも、高慢には注意が必要です。それは誇りとかプライドと言い換えられるでしょう。私にもプライドがあって、その価値観が自分を支配しているときがあります。たとえば経験値というプライドは、自分は知っているとか、既に経験済みなど、まだ知らない人や経験していない人に対して高慢になることがあります。社会的地位はどうでしょうか。今は牧師なので、日本では特に高い地位ではありませんが、かつて個人事業主であったとき、たまに社長と言われると嬉しかったことがあります。
 
 そんなこの世の誇りを教会に持ってきたら大変なことになります。そこに経験値とか信仰歴というプライドも合わせると、とんでもない天狗が教会を支配するようになるのです。ですから、そのあと首が回らなくなるほど落ちぶれて、自己破産にまで追い込まれたことは結果的に良かったと思います。神様が、それ以上私が図に乗らないように、そのような方法を通してストップしてくださったのだと思います。皆さんはいかがでしょうか。
 
 エドムはそのような神様からの警告に耳を貸さなかったのです。かえって高慢が加速し、兄弟であるイスラエルが困っているときにも妨害したり、敵に攻められているときも、敵に加担したり、その態度は、まさにエサウが一杯の食べ物と引き替えに長子の権利を軽蔑したのと同様に、その子孫エドム人たちも神様からの祝福のしるしである兄弟イスラエルを見捨てたのでした。そのことが10節から14節に書かれています。一つだけピックアップすると12節。
「あなたの兄弟の日、その災難の日を、あなたはただ、ながめているな。ユダの子らの滅びの日に、彼らのことで喜ぶな。その苦難の日に大口を開くな。」
 
 この言葉は、神様からエドムに対する抗議です。あんなに泣いて抱き合って、再会を喜び合えた兄弟同士の民族なのに、ユダが滅びようとしているときに、ながめているだけでなく、喜んで見ていた。そのふてぶてしい姿を神様がユダに代わって批難し、さばきのメッセージを告げているのです。神様の方で溢れるほどの恵みを用意され、それを味わいながらも軽んじる者への主の怒り。
 
 
2.主の日に備え道を選ぶ
 その主のさばきがある日のことを「主の日」と聖書は呼びます。15節を読みます。
「主の日はすべての国々の上に近づいている。あなたがしたように、あなたもされる。あなたの報いは、あなたの頭上に返る。」
 主の日とは、聖書では基本的に主(ヤハウェ)が世界をさばく日です。もっと具体的にいうと、いくつもの主の日が重なっている重要な日のことです。
 
 旧約聖書的には、まずイスラエル民族がメシアによって救われる日です。それが実際のイスラエル民族なのか、イエス・キリストを信じる霊的なイスラエルのことなのか、ここにも二重のニュアンスがあると思います。そして、終末の最後の審判の日も主の日と言えるでしょう。または、私たち個人においても主の日があると思います。それは、地上の歩みが終わって、天に召される日です。
 
 つまり、主の日を迎える人には大きく二種類の人がいるということがわかります。15節に「あなたがしたように、あなたにもされる」とありますが、ここには主の日に起こる二つの立場が隠されています。それは、もし主を愛していたならば、その人を主も愛されるということであり、もう一つの立場は、神様との断絶を選んだ人は、主の日にも神様との断絶が待っているということです。
 
 つまり、へりくだって主を選んだのか、それとも傲慢を続けて破滅の道を選んだのか。その人の選んだように主の日の意味も変わって来るということです。主の日が喜びの日なのか恐怖の日なのか。エドム人が、ことさらに兄弟国であるイスラエルを見捨て嘲笑い、神様の祝福を受け取らない方を選び続けるのであれば、主の日にはそのまま破滅へ直行しますということです。
 しかし、高慢を捨て、へりくだって狭き門から入るならば、主の日には、主が王である神の国へと迎え入れられるのです。21節には、こう書いてあります。
エサウの山をさばくために、シオンの山に上り、王権は主のものとなる。」
 
 紀元64年か63年頃、ローマ帝国エドムが誇るセイル山を攻め、エドムを滅ぼしました。その日がエドムにとっての主の日となったのでした。
 
 しかし主は、エサウすなわちエドムの高慢を打ち砕き、へりくだって神を愛する者を招くために、神様はもう一つの主の日を与えてくださいました。それは、神様ご自身が、この地上に来て、そのさばきをご自分に受けるという主の日です。それは、赤ちゃんの姿で人間としてお生まれになり、人の痛みも悲しみも、人間のからだで味わい、また高慢にならせようとする悪魔の試みにもあって、この世を生きることの難しさ、苦しさを神自ら体験してくださったのです。
 
 そして、最後にエドムが滅ぼされたように、神様からさばかれることの苦痛をも主は味わってくださり、より多くの罪人が高ぶることをやめて、神に立ち返り、この主イエスの身代わりの死を信じることで、主の日が恐怖ではなく、喜びの日となる道を備えてくださったのです。
  
 それがクリスマスから始まり十字架において完了された主の日です。この主の日は、誰も知りませんでした。まさか、最初の礼拝者が羊飼いであり、イスラエル人ではない東方の博士という外国人であるとは、誰が考えついたでしょう。まさか、そんな方法で救いが与えられるとは。そして、神様は実は、まだまだエドム人が救われることをあきらめていませんでした。確かに、この預言通りに、この岩地であるセイル山を誇っていたエドム人の国は滅亡します。
 
 しかし、その後生き残りがいました。それは、のちにイスラエルの王となるヘロデでした。つまり、そのヘロデに神様がチャンスを与えるのです。それが来週の東方の博士とヘロデ王の場面です。神様の深い愛、救いへの招きの熱心さを知らされます。
 
 まずは、今日のオバデヤ書の預言。高慢の罪が神に敵対する罪であり、それが悪魔の性質であることを、今日の箇所から知ることができました。
 
 エドム人にとって、セイル山の岩だらけの高い場所が誇りであり、その場所の堅固さによって、彼らは負けないと思っていました。そのような中で、どうして頭をさげてイスラエルに仕えられるか。しかし、彼らが誇るその堅固な自然要塞は、大きな欠点がありました。何でしょうか。それは、水源が乏しいということです。そもそも砂漠であり、荒れ地です。水源が豊かな土地ではありませんでした。その弱点を彼らは気付かなかった。なぜか。
 
 自分は強い、自分は大丈夫と過信していたからです。自分が強い、自分が間違いない、自分が正しいと思う時こそ危険です。その思い上がりが、自分の弱点を見失わせるのです。その弱点を紀元前64年頃ローマ帝国の将軍ポンペイウスは攻めて、いとも簡単に水源が絶たれてエドムは一気にセイルから姿を消したのです。
 
 
結び
 彼らの誇りであったセイルの岩地は、彼らの弱点でもあったということです。このエドムの背後に主の厳しいさばきと救いへの招きがあります。主の日の意味も、そのどちら側に立つかで変わってきます。
 
 その選びは私たちにかかっています。自分の誇りという「岩」を握りしめているのか、それとも神が与えてくださった「石」であるキリストに信頼するか。ペテロはその手紙でこう言っています。Ⅰペテロ2:6
「なぜなら、聖書にこうあるからです。『見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。』」
 
 私たちのセイル山は何でしょうか。私たちの岩の裂け目はなんでしょうか。そのプライドは教会では不要です。むしろ捨てるべきものです。しかし、十字架のキリストに信頼するならば失望させられることはない。それが、本当に私たちが信頼すべき真の岩、教会の礎の石だからです。この方だけに信頼する教会は崩れません。しかし、人間的なプライド、経験、地位、経済力、学歴、健康、自己義認、怒り、憎しみ…色々な岩が教会の成長を邪魔します。しかし、キリストは選ばれた石、尊い礎石として私たちの前に置かれました。自分という高慢を捨て、そのキリストを土台とする人生を選び取るならば、決して失望させられることはない。言い方を変えると、そこに真の希望があるということです。
 
 そのプライドを捨てるとき、私が、あなたが貧しい羊飼いになることができます。その高慢を捨てるとき、私が、あなたが東方の博士になるのです。私たちもクリスマスの礼拝に招かれる。それこそ真の主の礼拝者、主のしもべ「オバデヤ」だからです。