のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

2022年12月4日 白石教会礼拝

説教題 「主が目を留めてくださった恵み」
聖書箇所 創世記36章1節~9節(10~43)
 
 
序論
 アドヴェント第二週を迎えて、ここで一度、創世記を終わりにしようと思います。創世記の区切りとして、ここで終ることで、次回はヤコブの歴史から始められるからです。それで、また新約聖書のマタイの福音書に戻るのですが、クリスマスを挟んでいますので、今年いっぱいは、そのことを意識したメッセージとなります。
 もうすでにアドヴェントですから、先週からイエス様の降誕に備える説教になっています。先週は教理説教で「救い」についてでした。救い主として来られたイエス様を待ち望むのにふさわしかったと思います。そして、今日の箇所もまたふさわしいと思います。それは、これまでイサクの歴史がずっとあって、次こそ「ヤコブの歴史」だと思わせておいて、ここに「エサウの歴史」を挟んでくる聖書の面白さ。
 
聖書は私たちに神様の救いを啓示している書物ですから、その本流はアブラハム、イサク、ヤコブから続くイスラエルの歴史であり、そこからお生まれになるイエス・キリストの歴史であることは、前々回の説教でお話しました。しかし、聖書は本流ではない歴史、ある意味、アウトサイダー的な、その系図もきちんと記録しているのです。それは、神様がそのように意図して、この記録を聖書に残したということです。
それは、道から逸れてしまった人、光の当たらない暗やみを歩く人にこそキリストが来てくださったというクリスマスメッセージがここにあるからです。そういう意味で、エサウの歴史をアドヴェントに読むのはふさわしいと思います。今年一年、説教のスケジュールもきちんと決められなかっただけに、このタイミングでこの箇所からのメッセージとなったことを感謝しています。
 
それで、今日、読んでいただいたのは36章の1節から9節ですが、説教箇所としては43節までとなります。系図も聖書の言葉なので全部読みたいところですが、時間の都合上、読むのは9節までにしました。
ですから、ここに羅列するエサウの歴史全部が射程範囲です。それは、ここに書かれている全てのエサウの子孫に、そしてエサウ自身に神様は目を留めておられるからです。私たちにとっては、つい読み飛ばしたくなる箇所、読みづらいので飛ばすような、そういう人々こそ、主は招いておられるからです。このアドヴェントのとき、そのことを覚えながら、今日もみことばに聴いてまいりましょう。
 
 
1.なかなかうまくいかない人生という旅
 さて聖書は、エサウの歴史をどのように書き始めているでしょうか。1節~3節を読みましょう。
「これはエサウ、すなわちエドムの歴史である。エサウはカナンの女の中から妻をめとった。すなわちヘテ人エロンの娘アダと、ヒビ人ツィブオンの子アナの娘オホリバマ。それにイシュマエルの娘でネバヨテの妹バセマテである。」
 エサウの歴史で、最初に取り上げられているのは、「すなわちエドムの歴史」であると、エサウエドムと言い換えられているということです。それは既にエサウが、弟ヤコブが料理していた赤い豆を食べたときに、その語源が示されていました。つまりエドムとは「赤い」(アドム)という意味から来ている名前だということです。そして、この創世記が書かれた時代には、エドムという呼び名の方が一般的であったということがわかります。「エドム」は後に、エサウの祖先とするエドム人という部族名となっていくからです。
 
 そこであらためて、エサウという人を振り返りたいと思います。エサウアブラハムの孫で、アブラハムの子イサクとリベカの間に生まれた双子の兄弟の兄の方です。弟が、これまでの主人公であったヤコブでした。
 エサウという人を端的に言うと、神様の祝福を軽んじる、霊的な価値観を持ち合わせていない人だったと言えます。また、性格的には純朴で大雑把な性格であったという事ができます。せっかく神様からいただいた長男としての祝福をいとも簡単に、弟ヤコブにやってしまいます。聖書では「長子の権利」は、神様からの賜物として扱われています。それは、自分自身では選べない、生まれつき備わっているものだからです。
 
 しかし、エサウはその祝福のしるしを、一杯の豆料理と交換してしまったのです。一時いっときの空腹を満たすため、その一時的な欲求を満たすために、神様の祝福を自ら放棄したということです。そのことを新約聖書のへブル書の記者は、このように言っています。
ヘブル12:16、17「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」
 
 へブル書では「エサウのような俗悪な者」と、かなり厳しい言い方をしています。それは、「一杯の食物」と「長子の権利」を両天秤にかけて、比較にならないほど価値のある方を手放したからです。それは、すなわち神様を軽んじたということなのです。創世記に戻ってエサウについての記事を読み返しても、創世記の記者もエサウについては、このように言っています。
創世記25:34「ヤコブエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えたので、エサウは食べたり、飲んだりして、立ち去った。こうしてエサウは長子の権利を軽蔑したのである。」
 それは、つまり「神様を軽蔑した」に等しいということです。また、彼は結婚するときに、軽はずみに現地の女性たちと結婚しました。そのことが「イサクとリベカの悩みの種となった」(創世記26:35)と聖書は言います。
 
私たちはどうでしょうか。神様から頂いているものを軽んじていることはないでしょうか。自分が何番目に生まれたか、ということもそうですが、誰が親なのか、誰が子どもなのか、自分では選べないものがあります。性別もそうでしょう。それは自分では選べないし、変えられません。それは神様が与えてくださったギフトだからです。そのことを感謝し尊ぶことは、イコール、神様を尊び、感謝することなのです。「あなたの父母を敬いなさい」ということも、神様からの賜物であるという価値に基づいています。
 
 
2.祝福を与えようと見ておられるお方の眼差しを知る
 ではエサウがすべて悪いのでしょうか。そうではありません。実は、親であるイサクとリベカにも問題がありました。既に読んで来たところですが、創世記25:28にこう書いていました。
「イサクはエサウを愛していた。それは彼が猟の獲物を好んでいたからである。リベカはヤコブを愛していた。」
 
 実はエサウヤコブも、親から等しく愛されていなかったことがわかります。つまり、エサウの俗悪さというのは、彼自身の責任ではあるけれども、決して彼だけの問題ではありませんでした。彼は親の愛をきちんと受けていなかった。この問題は大きいです。現在でも、その生い立ちが、その人の人格形成や、性癖に大きく関わっていることは、多くの事件等の分析などで取り上げられていることです。
 それは、私自身の性格や思考回路を考えても、私の家庭環境や親との関係性が大きく関わっているなと自覚できることが多くあります。そこを考えすぎると、あれもこれも、自分の育った環境が悪かった、親が悪かった、人生のすべてが取り返しのつかない、絶望であるというドツボにはまって、大変苦しくなります。
 
 先ほどの、ヘブル書のみことばに「彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても」と、エサウが涙を流して相続を取り戻したいと求めた姿が言われていましたが、そのエサウの涙を思うと、彼自身にも責任はあるのだけれども、彼が負っていた生い立ちにある悲しみ、苦しさという、どうしようもない重荷に同情せざるを得ません。
 
 しかも、そこに神様のご計画も絡んでいたことを思うと、いたたまれなくなってきます。エサウが生まれるときに母リベカのお腹の中で双子同士がぶつかり合うので、リベカが神様の御心を求めに行く場面がありました。そのとき神様はこう言われました。
「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」
 それは、兄であるエサウが弟ヤコブに仕えるということは、神様の御心だったということです。ここには、神様のご計画として、エサウは兄でありつつ、弟に従うという御心があったのです。そこには代え難い運命があったのか、と読むこともできます。そう思うとエサウが益々、哀れに思えて来るのです。その神様の御心はリベカが聞いたことだったので、エサウはそれを知らなかったかも知れませんが、このみことばを読むときに、そのような思いが湧いてきます。
 
 結果的に、彼はアブラハムの子孫でありながら本流から外れてしまったような存在になってしまいました。約束の地であるヨルダン川を挟む肥沃な土地ではなく、かつてイサクが預言したように塩の海と言われる死海の南東部の砂漠、荒野に住むことになりました。
 では、エサウには希望はないのか。彼は神様に見捨てられてしまったのか。そうではありません。彼は、そのあと、これまで皆さんと一緒に見てきたように、20年の歳月の中で、ヤコブを許していました。ヤコブを受け入れて、抱き合って泣いて、一緒に暮らそうとまで言っていました。そして、自分が長子の権利を譲ったことを認めていたからこそ、そのまま、その砂漠のような土地に戻って行ったのです。そして、その砂漠に住んでも、家族が増やされて、後にエドム人と呼ばれる民族の父祖になっていくのです。そのことを、今日のエサウの歴史、特に9節以降からのエサウ系図は証ししています。
 
 特に31節以降を見ると、何とヤコブの子孫イスラエル民族から王様が出るよりも前に、エサウの子孫から王様が現れたことが記されています。これは、イスラエルよりも先にエサウの王国が建てられたということです。そして、神様によって、このように聖書にその名前が、その一族の系図も一緒に記録されているのです。このことを見る時に、決して神様は、エサウのことを見捨ててはいないことがわかります。むしろ、彼の闇のような人生に関わっていてくださって、エサウが自分の罪だけでなく、その生い立ちを恨んで絶望で終らないように、祝福の道に導いてくださったのです。
 むしろ「兄が弟に仕える」という御心は、決してエサウヤコブを差別するためのものではなく、エサウの祝福のために、そして人類救済のために、神様がお決めになった救いの計画であり、ヤコブにはヤコブの役目を、エサウにはエサウの役目を与えつつ、ここまで導いて来られたということです。そして、悩みの多い人生だったエサウですが、そのような、一見残念そうに思える歴史にも、主はきちんと祝福を与えて、この先も、弟ヤコブ、すなわちイスラエルに仕え、主なる神様を礼拝する民に加わるように、神様が配慮されていたということです。
 
 
結び
 エサウ自身は、ヤコブと和解し、あとは真の神様に心から立ち返ることが、これからの彼と彼の子孫の使命であったでしょう。そのためにも、このエサウ系図はよき励ましになっていると思います。聖書に度々出て来る系図の意味の一つは、私たちには馴染みがなくても、主は一人ひとりの名を呼び、一人ひとりに目を留めておられるということです。そして、その事実に気づいて、すべての人々が主を崇めるようになることを待っておられるのです。
 
 今日はアドヴェント第二主日ですが、まさにイエス様の母マリアは、天使ガブリエルから救い主を身ごもるという預言を受けたときに、まだ事が起こる前から、神様に信頼し賛美して、その信仰を告白しました。それが、今週のみことばに選んだ、ルカの福音書1章46節~48節です。
 ここにマリアは、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったから」と、自分が神様を賛美する理由を述べています。マリアの心の高揚をこの言葉から受けとることができます。彼女の喜びの泉が溢れ出ている、その様子が伝わってきます。ここに、主が待ち望んでおられる信仰があります。この卑しい者に主が目を留めてくださった恵み。何よりも代えがたい、主の憐みを受けた者として、最も喜ばしい姿です。
 
 マリアの生い立ちについては、聖書は何も言いません。しかし、この祈りは、自分がどのような者であるか、主の前に、どんな存在であるか。自分の罪深さ、聖なる神に似つかわしくない者であることを認めているという告白になっています。自分の罪穢れを知っているからこそ出て来る信仰者の祈りです。
 主が、アウトサイダーのように見えるエサウにも目を留めてくださって、この歴史、この系図を聖書に記して、イスラエルの神こそ彼の名を呼ぶ、真の神であることを、私たちに示してくださいました。今日の招きの詞のとおりです。
 
 そのために神様の内に秘められていた財宝、ひそかな所の隠された宝である御子イエス様が与えられました。それは、あなたの人生もエサウのように、自分の弱さや性格で失敗しているかも知れない。また、その生い立ちが影響して、悲惨な歩みであったかも知れない。しかし、エサウヤコブが与えられたように、私たちには、イエス・キリストが与えられているのです。
 エサウヤコブを、涙を流して受け入れました。それは主がエサウに目を留めて下さっていたからです。聖書にその名前が記され覚えられているように、あなたにも神様は目を留めてくださっています。あとは、そのことを恵みであると受け取るだけです。マリアのように、主はこの卑しいはしために目を留めてくださっている事実に、今度は、あなたが目を留める番です。
 
証しと勧め
私は3人兄弟の真ん中でした。上に姉がいて、下に弟がいます。一応、私は長男ですが、姉が上にいるので弟でもあります。そして、姉と下の弟がいつも仲良しだったので、私は自分のポジションが嫌でした。また、父親が嫌いでした。父は借金癖があって、いつも色々なものを買って来て、私たちを喜ばそうとするのですが、必ずあとから請求書が束で来たり、借金取りが来りと、その後始末が大変でした。
 その借金を母が昼間の仕事をしながら、夜はレストランで働いて返しているのを見て、自分の父親が嫌いでした。そして、その影響で貧しい生活をしていることがわかるようになると、毎日喉が痛くなるような思いで過ごしていました。遠足の日に水筒がなくて、その朝に母が何とか近所の商店から買って来たことがありました。今思うと、母は大変だったと感謝していますが、そのときは、毎日緊張して過ごしていて、何でこんな家に生まれて来たのだろうと、悲しくなる子ども時代でした。
 
 しかし、そんな私のことも神様は目を留めてくださって、小さい頃からイエス様に興味を持つように導いてくださり、中学生のときに、聖書が欲しいという思いを与えてくださって教会に導いてくださり、高校生のときにイエス様を信じることができて救われました。私自身の愚かさ、弱さもあり、生い立ちにも問題があると思っていましたが、今は、かつてはどうだったかではなく、今、神様の子どもにされ、今、このようにクリスチャンとして福音を伝えることができる。今は、本当に幸せです。麗しい妻も与えられ、子どもたちも与えられ、まだまだ色々失敗はあるけれども、こんな私に目を留めてくださった神様の眼差しを覚えるときに、心から感謝できる人生に変えられたと確信します。
 
 皆さんはいかがでしょうか。エサウに目を留めてくださった神様は、あなたにも目を留めてくださって、救い主を与えてくださいました。ぜひ、このアドヴェントのとき、マリアのように心を開きましょう。「主はこの卑しいはしために目を留めてくださった」 神様に感謝が溢れる幸せな人生がここにあるからです。

2022年11月20日 白石教会礼拝

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説教題 「イサクの歴史の終わり」
聖書箇所 創世記35章16節~29節
 
 
序論
 今日でイサクの歴史が終わります。どういう意味でしょうか。それは、創世記は「○○の歴史」で区切られている本ですから、これまで読んで来た箇所が「イサクの歴史」であったということです。それは25章19節から35章29節までが「イサクの歴史」だったのです。
 
 だから、ここで「イサクの歴史」が終わるので、次回36章は「エサウの歴史」とあり、37章からは「ヤコブの歴史」として区切られているのです。それを数えると、創世記は10個の歴史に分けられていることがわかります。ただし、そのお話の分量はまちまちです。次回の「エサウの歴史」とこれまでの「イサクの歴史」を比較しても、その書いてある文章の内容や量には大きな開きがあることがわかります。
 
 創世記では、この「○○の歴史」の中で、どの歴史が一番長いでしょうか。それは、37章から始まる「ヤコブの歴史」が一番長いです。2位は「テラの歴史」です。すると、何か共通する特徴に気が付かないでしょうか。この創世記における「○○の歴史」の特徴に気づかないでしょうか。それは、「○○の歴史」の内容が、その名前の人のことではなく、ほとんど、その息子のことが書かれているということです。「テラの歴史」がどうして2位なのか。それは、そのほとんどがテラの息子である信仰の父アブラハムについて書かれているからです。これは「テラの歴史」からそのような特徴が見えてきます。それ以外は「ノアの歴史」を除いては、だいたい系図そのもので終っています。
 
 だから、今日で終わる「イサクの歴史」も、これまでのお話の内容は、その半分以上は、息子であるヤコブについてでした。また一番長い「ヤコブの歴史」も、そのお話の中心は誰でしょうか。それはヤコブの息子のヨセフです。面白いですね。聖書のこだわりというか、特徴、ユニークさが伝わってきます。英語で歴史のことをヒストリー
history)というのは、それは“His story”のこと。つまり「神のストーリー」だからと、よく言われます。
 
 私たちの歴史、それは同時に神の歴史なのだ。そういう視点で見るときに、ヤコブの歴史かと思っていたら実はイサクの歴史だったという、聖書のユニークさとの共通の意味が見えてきます。それで今日は、その聖書が語る歴史を意識しながら、イサクの歴史の終わりに語られている神のことばに聴いていきたいと思います。
 
 
1.まず二つの出来事
 今日の箇所は、前回までと大きく違うことは、短いエピソードが2つと、ヤコブの息子たちの名簿、そしてイサクの死が、まとめて語られているということです。その一つひとつを深く詳しく考察するならば、もっとヤコブの信仰とそのあり方を知ることができると思います。しかし、聖書は、イサクの歴史をここで終えるために、少し駆け足になっていることが伝わってきます。
ラケルの死とベニヤミン誕生
16節をご覧ください。
「彼がベテルを旅立って、エフラテまで行くにはまだかなりの道のりがあるとき、ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ。」
 
ヤコブたちは、ベテルからエフラテつまりベツレヘムへ向かっていたようです。来週からアドヴェントですが、今日出て来るエフラテ、つまりベツレヘムは、まだダビデの町になる前ではありますが、ベツレヘムに向かうということと、そして、途中でラケルが産気づくというところを見ると、ヨセフとマリアのクリスマスの場面を想起させます。
 
 でも、ラケルはエフラテに着く前に死んでしまいます。泊めてくれる宿屋がなかったからでしょうか。彼らはもともと遊牧民で、しかも専属の助産婦がいたくらいですから、普通の出産であれば問題なくできたはずです。しかし、ラケルは出産によって死ぬという、とても残念なことになってしまいました。「ラケルは産気づいて、ひどい陣痛で苦しんだ」とあります。つまり難産でした。助産婦が「今度も男のお子さんです」(17節)と励ましましたが、その甲斐なく、命を落としたのです。その断末魔で彼女が叫んだのが、その子の名でした。「ベン・オニ」それは「私の苦しみの子」。しかしヤコブは、その「私の苦しみの子」という言葉を聞いて、似た発音の別な意味の名前にすぐに置き換えます。ベニヤミンと。それは「右手の子」という意味でした。
 
 ラケルはエフラテに着く前に、途中で亡くなったので、そこに葬られました。ヤコブは最愛の妻を失いました。とても悲しかったでしょう。しかし、この出来事も、苦難が祝福になっていくとことに繋がっていることがわかります。
確かにラケルの死は辛い。しかも、もともと不妊の女性であったラケルがようやく二人目を身ごもり産むことができる。それも男の子。そこに名前がベン・オニからヤコブによってベニヤミンへと切り替えられた。「苦しみ君」からヤコブによって「右手君」となった。右というのは、聖書では神の力を表わす方向です。
 
 この命がけの出産が、神様の歴史という視点で見るならば、その悲しみの中にも祝福が見えてきます。それは、この出産によってイスラエル12部族に向かう準備となったからです。一見、不幸と見える出来事の中にも、確かに神が働かれているならば、悲しみの涙も喜びの涙へと変えられていくのです。また、このベニヤミンの子孫からイスラエル王国初代王であるサウルが立ち、また新約時代になって、主イエス使徒となったパウロも、このベニヤミンの子孫です。
 
②ルベンの罪と神の摂理
次のエピソードもまた、がっかりさせられる出来事です。なんで、ここでこんなことになるのか。非常に残念な気持ちにさせられる箇所ですね。21節、22節を読みます。
イスラエルは旅を続け、ミグダル・エデルのかなたに天幕を張った。イスラエルがその地に住んでいたころ、ルベンは父のそばめビルハのところに行って、これと寝た。イスラエルはこのことを聞いた。」
 
 ルベンはヤコブの長男です。本来ならば、ヤコブの後を継いでいく立場です。しかし、この姦淫によって、ルベンはヤコブからの相続権を失うことになります。まだ先のお話ですが、エジプトにおいてヤコブが死ぬときに、このルベンに対して、「わが長子」と認めつつも、家長として認められていないことが告げられます。その理由としてヤコブはこう言っています。
「もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。――彼は私の寝床に上った―ー」創世記49:4
 
 では誰がヤコブの後を継ぐのか。23節以降の記事は、ヤコブの息子たちの名簿です。この名簿は、37章以降の「ヤコブの歴史」に欠かせない登場人物の再確認と紹介のようになっています。この名簿を見るならば、長男ルベンがダメならば次男シメオン、三男レビもいます。でも、彼らは既に大きな罪を犯しています。シェケムの人たちを皆殺しにしました。だから、ヤコブの息子、長男、次男、三男までもが相続から外れているのです。この詳しい内容は創世記49章をご覧ください。
 
 では、誰がヤコブの後を継いでいくのでしょうか。それは4男のユダとなります。細かいことはここでは省きますが、このユダこそ、ダビデ王、そして約束の救い主であるイエス・キリストの祖先です。そのように、人間の視点だけでは、非常に残念な出来事の連続ですが、神の歴史という視点で見る時に、長男ルベンの醜態によるヤコブの悲しみは、それだけでは終わらず、そのようなことさえも、全人類の救いのために用いられるのです。そのことを神の摂理と言います。
 
 
2.そしてイサクの死
 そのように、ベテルを出て約束の地である故郷の地を確認するように歩いて来たヤコブですが、約20年ぶりに父イサクと再会します。すごろくでゴールに着いた気分です。実に長い20年でした。しかし、聖書は父との劇的な再会をかなりあっさりと記しています。エサウとの再会の場面は感動的でしたが、このように書いているだけです。27節
ヤコブはキルヤテ・アルバ、すなわちヘブロンのマムレにいた父イサクのところに行った。そこはアブラハムとイサクが一時、滞在した所である。」
 
 ここで会ってどうしたのか。何も触れられていません。ここで聖書は、すぐにイサクが死んだことを伝えて、駆け足でイサクの歴史として終わらせようとする空気が伝わってきます。28節と29節も読んでみましょう。
「イサクの一生は180年であった。イサクは息が絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。」
 
 ここを何も気にせず読むと、ヤコブが父イサクに会い、イサクも久しぶりに息子に会ってから安心し、間もなく死んだように受け取ってしまいますが、そうではありません。というのも、これまでの聖書の記事にあるイサクやヤコブの年齢や、その場所で過ごした年数などを計算すると、27節にあるように、ヤコブとイサクが再会できたとき、イサクは157歳です。だから、27節の再会と28節のイサクの死の間には、実は20年以上の年月が隠れているのです。
 
 ですから、創世記の記者は、やはりここでイサクの歴史を終わらせたかった。このあとのヤコブの歴史で、またイサクが出て来ないように、ここでお話としては終わらせる。そんな意図が見えます。実はイサクが180歳で死んだというのは、ヤコブの息子ヨセフが30歳でエジプトの総理大臣になった頃ということになります。だから、ヤコブとの再会を果たしたイサクは、ここから、なおも生き続けて、ヤコブたちが飢饉でエジプトに行く頃に死んだと言えます。
 そう考えると、本日、最後のみことばは、年老いたエサウヤコブ兄弟が、そのときまで争わず、平和を保っていたことがわかります。そのようにして、イサクの歴史としてのお話が終わります。
 
 
結び
 どうして、これが「イサクの歴史」なのか。ほぼヤコブのお話でした。しかし、最初に申し上げたように、創世記の歴史のカウント方法は、テラの歴史以後は、その息子の歩みも父親の歴史とする法則のようなものがあるからです。このことを、私たちと神様との関係で考えていくときに、私の歴史は、神様の歴史でもあると言えます。まさにヒストリーです。つまり、神様の大きな歴史の中に私という歴史があって、そこに起きる良いことも悪いことも、神様はよくご存じで、いつもご自身のこととしてご覧になっている、関心をもって見ておられるということです。
 
 では、神様はただ黙って見ておられるだけなのか。私たちのこの世界。この死の陰の地といわれるこの世で苦しむ私たちを見ているだけなのか。そうではありません。このあと、ヤコブの歴史で創世記が終わりますが、聖書すべてを見通していくときに、マラキ書に至るまで、そこに描かれているのは、イスラエル民族の罪の歴史であり、それは私たちすべての人間の罪の歴史であることがわかります。しかし、それで終わりません。マタイの福音書の冒頭に何て書いてありますか。それはイエス・キリスト系図。つまりイエス・キリストの歴史という意味です。
 
 それはどういう意味でしょうか。それは、神様がただ見ておられるお方ではなく、あなたを、そして私たちをその罪に呪われた世界から救い出すために、神ご自身である御子が来てくださって、イエス・キリストの歴史を初めてくださったということです。もうイサクの歴史でもなくヤコブの歴史でもなく、また私たちの歴史でもありません。このお方を受け入れた者が、この神の御子の祝福の歴史に繋ぎ直されるということです。
  
これまで、どんな悲惨な歩みをしていたとしても、どんな不幸な人生、残念な過去を持っていたとしても、今日、悔い改めて、このキリストを信じるならば、このキリストのいのちに与り、御国に続く栄光の人生へと移されるのです。自分が王という歴史が、キリストが王という歴史に代わる。神様に心が満たされて、不満ではなく感謝が、呪う言葉ではなくその口に賛美が生まれる歴史へと変えられます。
 
 あなたの歴史はどうでしょうか。イエス・キリストの歴史に切り替わっているでしょうか。「イサクは息絶えて死んだ。彼は年老いて長寿を全うして自分の民に加えられた。」
 イサクも色々あった人生でしたが、彼の歴史を神様が摂理されて、私たちを救うイエス・キリストの歴史へと招いています。そして私たちの歴史も同じです。イエス・キリストを信じるならば、私たちの歴史も、人々を救いに招くヒストリーに変えられるのです。


 今日、まだキリストを信じていない方がいましたら、どうか信じてキリストの祝福の歴史に繋がってください。既に信じているならば、いただいている栄光の歴史に感謝し、その恵みを益々語っていく者とされてまいりましょう。

2022年11月13日 白石教会礼拝

説教題 「ともにいてくださる全能の神」
聖書箇所 創世記35章1節~15節
 
 
序論
 クリスチャンの歩みは「聖化」の歩みと言われます。「わたし(神)が聖であるから、あなたがたも聖でなければならない」(Ⅰペテロ1:16)と御言葉にあるように、私たちはイエス・キリストを信じてから「聖い者」へと変えられていく生き方が始まりました。聖くされる歩みということは、私たちが元々きよくないものであるということを同時に言っています。だから、そこから徐々に、日々新たにされていくのです。しかし、その聖くされていく過程には、多くの痛みを経験することもあります。
 
 ヤコブは、信仰の父アブラハムの孫として、真の神様を信じる者となり、その歩みを続けていく中で、やはり、多くの痛みを経験してきました。痛みを経験するとは、そのくらい、彼自身がきよくなかったということが言えます。兄エサウとの争いも、ハランにおけるラバンとの出来事からも、そこで多くの苦しみを味わったのは、そもそもヤコブ自身の罪深さがそこにあったからです。人を欺くような彼の気質、人を陥れて得しようとする罪の性質は、多くの苦しみを通して、少しずつ変えられてきました。
 
 そして、ハランから生まれ故郷に帰るように神様からみことばが与えられて、戻るその渦中でも、やはり苦しみを通ることになった。それは、これまでのお話の中で、みことばを軽んじて、途中の町で油を売ってしまった。ちょっと立ち寄っただけだったのか。それにしては、土地を購入までして居座っていた行動には、疑問がある。そんな折、娘のディナが乱暴される事件が起こり、そこから、ディナの兄たちによる復讐劇で、ヤコブは窮地に立たされます。それが、ヤコブにとって、きよめられるための苦しみとなった。
 
 ちょっと途中の町に寄っただけなのに神様は厳しすぎる。そう思われる方もいるかも知れません。でも、これは神様からの罰でそうなっているのではなく、ヤコブの罪深さが、その苦しみを生んでいるのです。むしろ、神様がともにいてくださっているからこそ、ヤコブの罪による失敗や苦しみが、彼自身の信仰の訓練として用いられたということです。
 
 これが私たちの歩みでもあります。全能の神様がともにおられるので、私たちはこの闇の世界を、この罪の世を歩んでいけるのです。そして、その中でその闇に誘われて失敗も経験することもある。しかし、神を信じて生きているならば、その失敗が残念なことだけで終らない、むしろ私たちがきよくされていくために、その労苦が用いられるのです。まだまだ、私たちにも罪の性質が残っています。それが削られ、きよめられて、神の子どもとして完成に近づくためです。
 
 今日の説教題は「ともにいてくださる全能の神」です。それは3節のヤコブのことばと、11節の神様からのことばを合わせたものです。今日、これが、今週の私たちのことばとなるよう、ともに今日のみことばに聞いてまいりましょう。
 
 
1.みことばを聴く恵み
 シェケムという町で、シェケムという男とその父親ハモルと出会い、結果的に散々な目にあってしまったヤコブ。しかし、それは神の道を歩むヤコブとしては、やはりヤコブ自身の罪が浮き彫りにされたようなものでした。娘が被害に遭ったことだけでも重い出来事なのに、その相手一家、その町の男性を皆殺しにした息子たち。ヤコブの家庭の中が大嵐の状態になってしまいました。そこに、何と神様が現れて下さってみことばをくださいました。
 
1節を読みます。
「神はヤコブに仰せられた。『立ってベテルに上り、そこに住みなさい。そしてそこに、あなたが兄エサウからのがれていたとき、あなたに現れた神のために祭壇を築きなさい。』」
 
 神様は、すっかり旅の目的を忘れ、自分の罪にも気づかずに疲労困憊しているヤコブに語られた。そのみことばは何か。それは、ヤコブの旅の目的をあらためて明らかにするということでした。そもそも、この旅を始めたのは、神様から「あなたの生まれ故郷に帰りなさい」というみことばが与えられたからでした。でも、そこから横道に逸れてしまっていたヤコブに神様は、横道にそれていたこと、みことばを軽んじていたことを断罪することなく、以前よりも明確に旅の目的を示されたのでした。
 
 ここに、自分の罪ゆえに苦しみを深めてしまった者に対する神様の優しさを見ます。それは、神様から離れた人間の根本的な問題である、神様のみことばよりも自分の考えを優先してしまう罪の性質を負っているヤコブに対する憐みだと思います。あえて、強いことばでさばかず、行き先であるベテルを示した上で、そこで祭壇を築きなさいと言われるだけです。
 
 しかし、この神様のみことばから、ヤコブ自身ははっきりと示されました。何を示されたのでしょうか。それは、自分自身の罪、そして、自分の家族の罪でしょう。2節と3節を見ると、ベテルに行こうと言っていますが、その前に「あなたがたの中にある異国の神々を取り除き、身をきよめ、着物を着替えなさい」と言っています。33章20節でも祭壇を築いて礼拝をしたはずなのに、そのときは捨てずに持っていたのに、今日の場面では、本来、捨てるべき物があったことがわかります。つまり、これまでの信仰生活、礼拝生活においても、ヤコブ一家は、実はかつてハランにいたときのハランの宗教を引きずってここまで来ていたのです。
 
 やはり、そこにヤコブ自身も実は分かっていたことであったのに、これまでは黙っていたという、ヤコブ自身の罪があったということではないでしょうか。隠れた罪が明らかにされる。これは、まさに聖化の歩みにおいて大切なプロセスです。
 
 私たちも、同じようなことを経験します。これまで培ってきたこの世のルールに基づく生き方や常識が暴かれるのです。交通事故などで保険を使う時に、保険屋さんは保険の査定が有利になるように、多少の嘘でも乗り切るようにアドバイスしてくれるときがあります。そういうときに、その通りにするのか、嘘ではなく真実によって事故処理するのか問われます。
 
 もし、そういう場面で嘘をつく方を選んだら、その時はうまくいったように思えても、あとで必ず嘘をついた事実が自分を苦しめ、思わぬときにバレることになります。やはり、神様を信じている者は正直に生きるように、経験する出来事を通して造り変えられて行くのです。ヤコブも家族たちも、神様からのみことばを聴いて、ここでようやく持っていた偶像を捨てました。
 
 するとどうでしょう。追って来ると思っていたシェケムの人びととヤコブたちの間に神様が立ってくださって、ヤコブたちは守られたのでした。5節にはこう書いています。
「彼らが旅立つと、神からの恐怖が回りの町々に下ったので、彼らはヤコブの子らのあとを追わなかった。」
 
 みことばを聴いて罪を悔い改め、神に従おうとする者を神様は特別に守ってくださいます。ここが、神を信じてきよくされつつ歩む私たちの特権です。ご自分の子どもとした者たちを神様は親として特別に守ってくださるのです。私たちも、いつもみことばを聴いて、素直に悔い改めて立ち返る者でありたいです。特に、1節の「立ってベテルに上り」とある「立って」という言葉は、方向を変えるという意味での「立ちなさい」という命令形の言葉です。それは「悔い改めなさい」という意味でもあるのです。
 
 私たちはいつも罪を犯して生きています。だから、悔い改める必要がない人はいません。いつもへりくだって罪を認め、しかし、優しくみことばを与えて罪に気付かせてくださる神様に立ち返りたいです。
 
 
2.礼拝の中で神と出会い憐みを受ける
 6節。「ヤコブは、自分とともにいたすべての人々といっしょに、カナンの地にあるルズ、すなわち、ベテルに来た。」
 
このようにヤコブ一家は、神様の導きの中、ようやくベテルに来ることができました。そして、神様のみことばに従って、そこに祭壇を築きました。そこは、20年前、エサウから逃げていたときに、初めて神様がヤコブに現れてくださった場所、礼拝をささげた場所でした。そして、このときのヤコブは、これまでのヤコブとは違います。罪を悔い改めて、家族が持っていた偶像を捨て、新たに信仰者としての歩みが始まるのです。あらためてその場所をエル・ベテルと名づけ、一族を伴って、イスラエルとして礼拝する民としての歩みです。
 
 ここで唐突にリベカの乳母デボラが死んで葬られたことが書かれていますが、いつから、ヤコブと一緒にいたのかは不明ですが、ヤコブに従いともに旅をしていた一人が、このベテルに来たときに、亡くなったという事実でしょう。しかし、その死は、単に悲しい死ではなく、目的地ベテルに到着して死んだという、イスラエルの民に数えられる死ではないでしょうか。それは、ヤコブという人について来たことによる祝福ではないでしょうか。まさに、異邦人でありながら、イエス様を信じ従うことで神の子どもとされている私たちの救いのモデルのような出来事です。
 
 私たちもイエス様を信じ従って、天の故郷を憧れつつ旅をしている者たちです。そして、やがて死を迎える時が来ます。しかし、その場所はベテル。つまり、神の家、それは天の御国です。そのことをここから覚えることができます。
 
 そこに、その礼拝の中で神様のみことばが語られます。それは、みことばを聴いて、自分の罪に向き合い、隠れていた罪を捨て、偶像を捨て、悔い改めて、真実な信仰をもって礼拝をささげているヤコブに対する恵みのみことばです。9節~12節を読みます。
「こうしてヤコブがパダン・アラムから帰って来たとき、神は再び彼に現われ、彼を祝福された。神は彼に仰せられた。『あなたの名はヤコブであるが、あなたの名は、もう、ヤコブと呼んではならない。あなたの名はイスラエルでなければならない。』それで彼は自分の名をイスラエルと呼んだ。神はまた彼に仰せられた。『わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。わたしはアブラハムとイサクに与えた地を、あなたに与え、あなたの後の子孫にもその地を与えよう。』」
 
 ここで神様はあらためて、ヤコブの名前をイスラエルという新しい名で呼ぶように命じられ、彼はここから神の民イスラエル民族の祖先として立たされました。1節で神様が言われた「立ってベテルに上りなさい」という言葉の通り、彼は立って、みことばに従って、ここに立っています。ここからイスラエルとして立つのです。そして、11節、12節にあるように、このヤコブから生まれ出る子孫から一つの国民、諸国の民の集いが出るという約束。さらに王たちが出るという約束を聞きます。
 
 この約束は、事実、このあと約1000年後にイスラエル王国として成立し、ソロモンの時代には諸国の王たちもやってくるほどの繁栄ぶりを見せる王国として成就します。しかし、ヤコブ、つまりイスラエルには、そこまで見通すことはできません。ただ、神ご自身が自分のような愚かな者を愛してくださり、ここまでともにおられた恵みに感謝して、彼は柱を立てます。14節、15節。
ヤコブは、神が彼に語られたその場所に柱、すなわち、石の柱を立て、その上に注ぎのぶどう酒を注ぎ、またその上に油をそそいだ。ヤコブは、神が自分と語られたその所をベテルと名づけた。」
 
 聖書はくどいほど、この場所をベテルと名づけたことを強調します。それは、その名の通り、神の家が始まるからです。神の家とは何でしょう。それは、神の民としてのイスラエルのことであり、真の神を礼拝する集会、集まり、群れ、そして教会を指し示すことばです。その祝福が、このヤコブによる礼拝から広がって行く。その恵みをヤコブが先取りして、この礼拝において味わったのです。
 
 
結び
 今日の説教題は、3節のヤコブのことばと、11節の神様のことばを合わせてつくりましたが、ここに私たちが受け継いでいく祝福の連鎖があります。それは、今日のヤコブの姿とそのことばに、私たちの信仰もそのまま重なるものだからです。
 1節の神様からのみことばの前に、ヤコブは労苦を通してきよめてくださる神様を知ったのです。3節の彼の言葉は、彼の神に対する信仰告白になっています。神というお方は、「私の苦難の日に私に答え、私の歩いた道に、いつも私とともにおられた」お方であるという告白です。
 
 そのことを思うことは、これまでの自分自身の歩いて来た道を振り返ることであり、その醜い姿に向き合うということでした。しかし、自分の罪ゆえに苦難が襲ってきても、「神様、あなたは私に答えてくださった。そして、寄り道してしまったときも、苦しい道を選んでしまったときも、神様、あなたはともにいてくださった。」
それこそが、どれほどの恵みか。全能の神様がともにおられる人生がどれほど価値ある歩みか。そのことを感謝して、彼は祭壇を築こうと言っていたのです。
 
 それに対して、神様は何と答えたのか。それが11節。
「わたしは全能の神である。」(エルシャダイ)です。これはかつて99歳になったアブラハムにも語られた神様の存在を表わす神様のお名前です。それは、非常に親しい関係であることを、神様の方から歩み寄ってくださって、示されたということです。
 この全能の神は、私たちの神でもあるのです。罪深いヤコブに語り、罪を気づかせ、悔い改めに導き、さらに親しく臨んでくださる主。13節にはこう書いてあります。
「神は彼に語られたその所で、彼を離れて上られた。」
 
 神様が上られたとは、それまでずっとヤコブのところまで降りて来てくださっていたということです。それは、愛する娘ディナが乱暴され辛かったときも、息子たちが騙して、シェケム親子とその町の男たちを皆殺しにして、お先真っ暗になったときも、主はヤコブとともにいて、その傷みを、その労苦をともに負い、ともに歩いてくださっていたのです。これが、私たちが信じ、愛し、従っている神様です。
 
 この地上にあって、基本的に私たちは辛い道を通ります。この地はアダムのゆえに呪われてしまったからです。そこに合わせて、自分の罪ゆえに苦難を経験することもあります。「それならば信じても良いことがない」という人がいるかも知れません。いいえ。そうではないのです。そのように、たとえ苦しいところを通っていても、今、辛いことの真ただ中にあったとしても、全能の神である主があなたの神であるならば、その不幸に見える出来事も、私たちをきよめるための訓練として用いられるからです。
 
 その訓練は失望に終わることはありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、全能の神様の完全な愛が、主の十字架の贖いを通して私たちの心に注がれているからです。それによって、日々、神様の子どもとして、聖なる者へと造り変えられるからです。この全能の神は、今週もあなたとともにおられます。私たちも、ぜひ全能の神様の前に、全ての罪を投げ捨てて、神を礼拝する家族として、この礼拝、ベテル(神の家=教会)からリセットされてまいりましょう。