のりさん牧師のブログ

恵庭福音キリスト教会の牧師をしています。おもに日常で気がついたことや、聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

●今日のみことば: 「生きている者の神」マタイの福音書 22章23~33節

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"その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来て質問した。
「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こさなければならない』と言いました。
ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。
次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。
そして最後に、その妻も死にました。
では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻にしたのですが。」
エスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。
死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか。
『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」
群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した。"

 

  サドカイ派という、死者の復活を信じないグループの人たちが、復活についての矛盾と思われることをイエス様に尋ねました。

  それは、律法に従って何度も結婚と死別を繰り返した女性の復活後の立場はどうなるのかということでした。律法にはもし女性の夫が死ねば、その死んだ夫の兄弟が、その女性を娶り兄の家督を継ぐことが定められていたからです。

  

"兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟がその女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。
そして彼女が産む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去られないようにしなければならない。"
申命記 25章5~6節

 しかし、イエス様の答えは明解でした。それは、そもそも、復活のときには婚姻関係の必要がなく、誰の妻だとか誰の夫だということは、まったく問題ではないと仰ったのです。しかも、律法を用いて、聖書で伝えている復活を信じようとしない解釈について、こう言われました。

 

"イエスは彼らに答えられた。「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。
復活の時には人はめとることも嫁ぐこともなく、天の御使いたちのようです。"
マタイの福音書 22章29~30節


 イエス様は、そんな屁理屈のような解釈で復活がないことを証明しようとするのは、そもそもが聖書をきちんとバランスよく読まず、神ご自身の力すら信じていない証拠だと言われたのです。

  しかも、サドカイ派の人たちが正典としていたモーセ五書だけ読んだとしても、そこで繰り返し語られている「アブラハム、イサク、ヤコブの神」というみことばから、彼らが神の御許で今も生きていることが明らかであると仰せられたのです。

"『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」"マタイの福音書 22章32節

  これらの問答は、サドカイ派の人々がイエス様を試すために行ったことでしたが、逆にサドカイ派の欠点を指摘して、彼らの言い分にこそ矛盾と不信仰があることを証明したのです。

  私たちも聖書を正しく読み、神さまというお方を聖書が示すとおりに信じていなければ、このイエス様の言葉が私たちにも言われていることとして受け止めなければなりません。

  私たちは自分の価値観や自分の願望を先立たせてしまって聖書を読みたくなる誘惑があります。神は愛だというところだけを強調して、さばきや滅びに関しては触れないということを目にすることがあります。

  聖書で、創世記から黙示録まで貫かれている、人間の罪の問題と、それに対する血による贖いの救済という狭き門を無視して、イエス様のように歩むことだけに強調点を置いて、門を広げようとしていることも耳にします。

  罪の指摘と悔い改めが、聴く人に不快な思いを与えることがよくないという考えから、そう考えるのでしょう。

  しかし、聖書を正しく知り、神の力であるイエス様による十字架の贖いと復活を知るなら、そこに真の救いがあることを思い知らされるのです。

  今日もイエス様は、私たちに語られています。

  神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神ですと。しかも、それは聖書と神の力を正しく知り、信じる中で与えられる理解であるということです。

  私たちも聖書を毎日バランスよく読み、そこに啓示されている神様の姿を正しく受け止めたいと思います。その神様ご自身を生活の中で感じ、体験していくところに、イエス様の似姿にさせられていく信仰者の生き方があるからです。