ルカの福音書 21章1~4節
"イエスは目を上げて、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れているのを見ておられた。
そして、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨を二枚投げ入れるのを見て、
こう言われた。「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。
あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」"
教会では礼拝の中で献金があります。献金はどんな意味か、何のためにあるかご存知でしょうか。私たちの周りでも、定期的にお金を納めることが多々あります。塾などの習い事では月謝があり、学校に通っていれば給食費とか、授業料を払っていると思います。でも、献金は月謝や授業料とは全く違う性質のものです。
ではお賽銭はどうでしょうか。日本では、初詣とか七五三など季節によって神社に行ってお参りをして、お金を賽銭箱の中に投げ入れます。きょうの聖書箇所にも投げ入れたと書いてありました。なるほど、お賽銭と同じか。
いいえ、そうではありません。お賽銭は、投げ入れたお金によって良いことがありますようにと祈願するものです。だから、時々、どうしても叶って欲しい願い事がある人は一万円札とか、高額な金銭を投げ入れて、幸せになるよう願うのです。
しかし、キリスト教会での献金は、これだけお金を出したのだから何とかしてくださいというような、神様と取引きはしません。順序が逆です。
神様からいつも生かされて、守られて、何よりも神様の子どもとされている恵みに感謝して、感謝のしるしとして献げるものです。それが第一の理由です。神様への感謝をお金をもって表すのです。
第二には、その感謝と合わせて、神様からいただいた恵みに応える生き方をしますという神様への献身の意味もあります。だから、レプタ銅貨2枚入れた女性は、生活の手立て全てを神様にささげたということは、自分自身の全てを神様に使ってくださいという意味でもあるのです。彼女が生活費の全部をもって、良いことがありますようにということではなないのです。
ですから、私たちの信仰生活はそのように全生涯をもって神様に、このからだもいのちもささげていくことなのです。その信仰を献金というかたちに表した。それだけなのです。
だから、献金で一番大切なのは、その心はどこにあるかです。たくさんのお金をささげて、みんなから称賛されたいのであれば、そのような意味でのお金を神様は絶対にお喜びになりません。たとえ小額であっても、そこに私たちの神様への信仰と希望と愛があるなら、それはどんな大金にも勝るささげものなのです。
イエス様は、レプタ銅貨2枚を入れたこの女性のその心を見られたので、このように彼女を喜び称賛されたのです。
「まことに、あなたがたに言います。この貧しいやもめは、だれよりも多くを投げ入れました。
あの人たちはみな、あり余る中から献金として投げ入れたのに、この人は乏しい中から、持っていた生きる手立てのすべてを投げ入れたのですから。」
神様はあなたの心を見るお方です。あなたは何のために神を信じ、またキリストの何を信じてクリスチャンなのでしょうか。その生き方が素晴らしいことを信じたのでしょうか。憧れる存在として信じているのでしょうか。
では、このレプタ銅貨2枚を入れた女性は、何を信じて、神様をどのように思って全財産をささげたのでしょうか。それは、このような貧しく惨めな自分さえも神様は憐んでくださり、祝福の民として選んでくださった。その大きな恵みに感謝したからではないでしょうか。
これは、その後のクリスチャンの信仰にも繋がっています。それこそ、このような罪深い私が、今、神様の子どもとされているのは、ただ神様の憐みです。私のために御子キリストが十字架の上で執りなしつついのちを捨ててくださった。
そこに神様からの大きな愛を覚えるのです。だから、私もこの心もからだも神様におささげしたい。だから、そのことを献金というかたちにおいて表現し、ささげるのです。
あなたはいかがでしょうか。どうか、キリストにある神の恵みがどれほど深く偉大であるか、そのことを今日も思いながら、神に全てをささげる一日とさせていただきましょう。