のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

すべては神から出たもの

"富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものを支配しておられます。あなたの御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてのものが偉大にされ、力づけられるのです。
私たちの神よ。今、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。
このように自ら進んで献げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう、私の民は何者なのでしょう。すべてはあなたから出たのであり、私たちは御手から出たものをあなたに献げたにすぎません。"
歴代誌 第一 29章12~14節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

 ルターの宗教改革において、聖書のみ、信仰のみ、恵みのみと言われました。それは、人間の救いは人間の行いによらず、100%神の恵みであるということです。

 ダビデにとってもそうでした。神様のダビデに対する祝福の約束は、ダビデにとっては、そこに自分の功績など一切ないことを知っていました。

 それがもし自分の意思で、積極的にささげものができたとしても、その意思も、ささげた物も、どれもこれも神様から与えられたものをささげたに過ぎないと告白するのです。

 この信仰こそ、神が喜ばれる真のささげものです。

 私たちは、つい自分がやったことを強調したくなるものです。私がこんなにささげました。がんばりました。努力しましたと多くの人にも知ってもらいたくなるものです。

 しかし、せっかく積極的にささげたいという動機で行ったのに、途中で自分の功績にしたくなった途端に、それはもうささげものではなくなります。

 それは自分で既に自分自身にご褒美をあげているのと同じだからです。

 心からのささげものを、神様は決して侮りません。そこにある犠牲を決して蔑みません。そこにささげられた、砕かれた悔いた心を祝福してくださいます。必ず神様が報いてくださるということです。

 しかし、その神様からの祝福を受ける前に、「良いことをした、みんな見てくれ」と言わんばかりに自分でアピールするなら、それはもう自分で報いを与えているということです。

 主イエスもその偽善について、このように指摘しています。

 

"人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。
ですから、施しをするとき、偽善者たちが人にほめてもらおうと会堂や通りでするように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
あなたが施しをするときは、右の手がしていることを左の手に知られないようにしなさい。
あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。
あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。"
マタイの福音書 6章1~6節


 そうなると、非常にもったいないですね。せっかく神様ご自身があたえてくださった、そのささげたいという志しも、ささげようとしたその献げ物も、それを自分のものとしていることになっているからです。神様の物を神様にお返しするにすぎないのに、自分が大変な犠牲を払ったと、そこに固執するならば、それは礼拝ではないと言うことです。

 だから、ダビデはへりくだって、主の前にささげることの真髄をあえて告白して、その栄光を主にお返ししたのです。私たちも全ての栄光を主にお返しして、今日与えられた全ての業をも、感謝して喜んで行わせていただきましょう。

 

"こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。"
コリント人への手紙 第一 10章31節