のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

◎死から新たないのちへ           

エペソ人への手紙(5)

エペソ人への手紙2章1節~7節 

 

1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、

2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

3 私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを 受けるべき子らでした。

4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、

5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――

6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。

 

 使徒パウロはエペソ教会の信徒たちに、1章では父なる神をほめたたえるための、予め選ばれている恵みを語って来ました。それが御子イエス・キリストの贖いにより、信じて聖霊を受けることによって実現しました。そういう者たちのことを「教会」と言っています。
 
1.パウロはエペソ教会の信徒たちに、2章1節~3節で伝えていることは、どういう内容ですか。


①1節 あなたがた(エペソ教会の信徒たち)は自分の罪、罪過のゆえに死んでいた者であった。死んでいたとは神との断絶状態を指す。


②2節 「罪の中にあって」とは上記によれば神との断絶状態にあってということ。「この世の流れに従い」とは神のことばではなく、この世の価値基準に従っている者であったということ。「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」に従って歩んでいたとは、悪魔のことであり神に逆らう方を選ぶように誘惑され、神を信じない生き方、神の基準を蔑む価値観にあったということ。


③3節 2節と同じ用法で、今度は「不従順の子らの中にあって」と「罪の中にあって」を補強している。これは神との断絶がそのまま悪魔の支配下に自分を置くことであるという意味である。それは他の人のためではなく、常に「自分の肉欲の中に生きる」者となっていて生まれながらに神のさばきを受けるべき者であった。これは生まれてどの時点までが天国行きで、途中から罪の性質が芽生えて地獄行きになったのではなく、「生まれながらにして」神の御怒りを受けるべきものだったということである。
 
2.パウロは、どうして既に救われているエペソ教会の信徒たちに、以前の状態を持ち出して語っているのでしょうか。1章で言われていたように恵みだけを語れば十分ではないでしょうか。


 恵みとは、それを受けるに価しない者がただで受けられることである。そのことをふさわしく受けとるためには、それを受けるに価しない者であった現実に向き合うことが必須である。自分の中に少しでも自分の業が入っていれば、神の恵みの偉大さに感動することはできず、キリストの十字架の犠牲も意味がなくなっていく。しかし、自分の悲惨さに気が付くなら、神への感謝は溢れるものとなるはずである。信仰生活とは、日々、そのような者が神に愛されているということに感謝する歩みである。
 
3.私たちのかつての状態はどのようでしたか。神を知る前と、主によって救われた今とどのような違いがありますか。


 かつては自分が基準であり、自分の罪も罪とせず、ばれなければ罪とはならないと思っていた。しかし、今は基準が神であり、神の前にはすべてが裸であることがわかり、罪の判断は神との関係性においてみことばによって判別される。
 
4.私たちはどうして救われたのですか。このことは1章で学んだことを用いるとどのように説明できますか。4節、5節


 罪深く滅んでも仕方のない者であるにも関わらず、神がそのような私たちを愛してくださり、実は救われるように選んでいてくださっていて、信じられるようにイエス様の罪の贖いの業を示し、結果的に信じるように導かれた。別な言い方をすると私が信じ従うことを選んだのであるが、それもまた、聖霊によるならば、主語は「私」ではなく「神」であるという事ができ、神が選んでくださったから救われた、すべて神からの一方的な恵みであると、栄光を帰すのである。
 
5.パウロが6節と7節で言っていることは、1章20節以降でパウロが教えて来たことと、どのような連続性がありますか。私たちキリスト教会にとってどんな意味をもっていますか。


 キリストを信じたことにより、新しくよみがえらされてキリストと共に天の御国を受け継ぐ者とされたということ。私たち教会は、一切の権威のかしらであるキリストと「ともに」よみがえらされ、「天の所」に置かれ、憐み豊かな神の大きな愛のゆえに、その栄光の恵みにあずからせていただいている。パウロは、「すぐれて豊かな恵み」と言って、私たちキリストの教会が受けている恵みがどれほど素晴らしいかを教えている。

 

 

(文責:川﨑憲久)