"たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。
人々の脅かしを恐れたり、おびえたりしてはいけません。
むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。
あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。
ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。
神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。"
ペテロの手紙 第一 3章14~17節
使徒ペテロのこのことばには、かつて主イエスが語られた山上の教えがあります。きっとペテロ自身が、あの故郷ガリラヤの小高い山で語られたことを思い浮かべながら、この言葉を手紙にしたためたことでしょう。
主イエスの言葉はこうです。
"義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。
あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。
あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。
あなたがたは世の光です。山の上にある町は隠れることができません。
また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。
このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。"
マタイの福音書 5章10~16節
私たちがキリストを信じて、キリストのためにバカにされたり迫害を受けることがあります。それは、私たちもかつては罪人の仲間でしたが、キリストを信ずることにより、神の子どもとされ、この世の価値観とは違う天の御国の価値観へと変えられるからです。
だから、この世は私たちを苦しめる悪い霊に支配されていますから、私たちを排除しようと躍起になるのです。
しかし、聖書は一貫して、そのようなときは祝福だと宣言しています。そのようにされたら幸せだと言います。
それこそ、この世において主の光を放つことができ、地の塩としての役目が際立つからです。
目的は、そのようにしている中で、これまで迫害を加えていた者たちが、天の父を崇めるようになるということです。
ペテロの言い方は少し違っていて、迫害者たちが恥いるとあります。これは、そのように迫害してきたことを恥じて、そこに悔い改めが起こり、天の父を崇め信じるようにされるということでしょう。
つまり、迫害する相手を救うための最上の手段は、迫害を受けても恐ることなく、私たちが神を崇めていることなのです。そこで弁明できるならば、それが証しとなり、彼らが神を信じることに用いられるのです。
神を崇めて生きること以上に迫害をやめさせる方法はないのです。
では、本当にそのようなときに、そのような勇気が出て、神を崇めて弁明できるのか。
それを心配するには及びません。主イエスはこのようにも言われています。
"また、人々があなたがたを、会堂や役人たち、権力者たちのところに連れて行ったとき、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しなくてよいのです。
言うべきことは、そのときに聖霊が教えてくださるからです。」"
ルカの福音書 12章11~12節
そのために私たちには聖霊なる神が与えられているのです。それはキリストが住んでいると同義です。そのお方に委ねましょう。必要はそのときに与えられるからです。
私たちにできることは、このように、ただ日々主を崇め、みことばに触れて、みことばを通して強めてくださる神の中に生き、神とともにある幸いを感謝することです。
主がこう祈れと言われた通りです。
"ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。"
マタイの福音書 6章9~10節