"神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
神は大空を造り、大空の下にある水と大空の上にある水を分けられた。すると、そのようになった。
神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。"
創世記 1章6~8節
昨日まで二泊三日のスケジュールで東京へ行っておりました。現在私が仕えている恵庭福音キリスト教会が加盟している日本福音キリスト教会連合(略称:JECA)の全国総会に出席ためです。
久しぶりの東京ともあって、ワクワクしておりましたが、ほぼ会議のみで、東京を満喫することはできませんでした。しかし、行き帰りの飛行機が私にとっては楽しいものでした。私は必ず窓際の席を予約しますので、窓から見える、天空の世界は、地上にいては、なかなか見ることのできない場所だからです。
冒頭の聖書のみことばは、いわゆる天地創造の場面です。創世記という、一般にモーセ五書と呼ばれる律法の書群の筆頭にある、聖書の中でも有名な書の一つでしょう。
そこに神様が大空をお造りになったことが描かれています。この箇所で、私が面白いなと思ったのは、聖書記者が空のことを大空の上にある水と言い、下の水を海と言うふうに、上空にも海のような水の世界があふように区別して言っていることです。
それは、地上から見ると下の水は明らかに水が集まっている海なのですが、上の水と言われる大空は、地上からは雲が浮かんでいる高い広い世界という意味では海のようではありますが、水がある場所には見えません。きっと雨が降るので、天空に水を備えているということを言いたいのか、水蒸気が雲となってそこにあることを言いたいのか、そんな意味でのことなのかもしれません。
いずれにしても、見た目では空と海とを上にある水とか下にある水というふうに、水という言葉で括られるほど同じものとしては見えません。
ところが、実際に飛行機に乗って空を見ると、そこはもう一つの海のような世界が広がっているのです。
創世記を書いた人は、その時代に天空からそれを見ることは不可能であったはずなのに、上にある水と表現して、まるで天空から見たように言っていることは驚くべきことです。
しかも、快晴ではそれは全くわかりません。空に雲があって、それをその雲の上から見るからわかることです。というのも、その雲のかたちや様子次第では、その雲を通して地上を眺めるときに、 まさに薄氷の中にある世界のように目に映るのです。
さらには鱗雲を下に見る時には流氷の海に見えて、聖書記者がこれを書いたときには、おそらく出会ったことのない流氷のある海も、上の水の世界として存在しています。これならば視覚においては、海に見えるなと思いました。
まあ、おそらく上の水とは前述したように、雨を降らせる雲のある場所ということであり、下にある海と区別されたことを言っているのだとは思いますが、昨日の飛行機から見えた世界から、ちらっと思ったことを綴ったまでです。
いずれにしても、被造世界を通して創造主なる神様を崇めずにはいられませんでした。ハレルヤ。