"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
ヨハネの福音書 3章16節
私たちには限界があります。与えられている人生も、人それぞれ始まりがあり終わりがあります。その期間を自分で予定することはできても、それを決定することはできません。
古来、人は不老不死を求めて生きて来ました。しかし、いくらそれを求めても、そんなものは手に入れられないのです。エジプトでミイラが多く発見されているのも、彼らが死を克服できると思っていたからでしょう。
しかし、いくら精巧に死体を保存できたとしても、失ったいのちがそこに戻ることはありません。なぜなら、いのちは全て神から与えられたものだからです。
つまり、神から出たものは神に帰らなければならないのです。そして、生きているうちにどのように歩んだのかで、その行き先が変更されます。
罪を犯さず神を愛し、神のことばに生きようとした人は神のもとへ帰り、神を拒否して罪を犯し続けていた人は、その人が望んできたとおりに、神とは隔絶された滅びの世界へと落とされるのです。
だから、どんな人も確実に滅びへと向かっています。それは、罪を犯さないでいる人など、どこにもいないからです。義人はいない。一人もいない。全ての人が迷い出てしまい、神とは相容れなくなってしまぅたと聖書が言っているとおりです。
ところが、神はそれで終わりにはしませんでした。私たちが滅んでしまわないように、私たちの代わりに罪の罰を受ける人を起こされたのです。それが、神のひとりごイエス・キリストです。キリストは神でありながら、人間となられてこの地上を歩まれ、永遠のいのちを得ることができる人の生き方を完璧に実行された方です。
死に至るまで、父なる神を愛し、そのことばから離れず、神に見捨てられても、神に忠実に生きられ死にました。しかし神は、そのイエスを死で終わらせず、完璧に歩まれたがゆえに、そのイエスを復活させて、永遠のいのちに生きる人の模範とされたのです。
しかも、そのイエスの完璧な人としての歩みは、模範となっただけでなく、罪人である私たちの罪を贖う救いのわざでもあったのでした。それは、神は聖なる方ですから、ただで罪人とともにいることはできません。罪人は聖なる神に触れるならば滅びるしかないからです。
ですから、完璧な人が罪人すべてのための身代わり死刑囚となることで、聖なる神のきよさを全うされ、神の義が実行され、そこに神のさばきの正しさが行われることで、それを自分のための救いの恵みであったと信じる者が救われる道とされたのでした。
そこに神の私たちに対する完全な愛が示されたとも聖書は言っています。
まさに、神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに私を、またあなたを、愛されました。それは、御子キリストを信じる私、またあなたが一人として滅びることなく、永遠のいのちを得るためだったのです。
この神からの大いなる愛をあなたは受け入れますか?神がここまでして、あなたを愛しておられることを、あなたは認めますか?
ぜひ、神がこれほどまでして招いている救いの恵みを、あなたの心に受け入れてください。そして、どうかお近くのキリスト教会へお出かけくださり、そこにおられる牧師に、罪の告白と悔い改めと、イエス・キリストに対する信仰を言い表してください。
そのようにして、あなたは救われます。つまり永遠のいのちを得られる。天国へ行ける。神の子どもとされる。全て救われると同義のことが実現します。
あなたの祝福を心からお祈りいたします。