のりさん牧師のブログ

恵庭福音キリスト教会の牧師をしています。おもに日常で気がついたことや、聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

使徒パウロ

"ユダヤ教のうちにあった、かつての私の生き方を、あなたがたはすでに聞いています。私は激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました。
また私は、自分の同胞で同じ世代の多くの人に比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖の伝承に人一倍熱心でした。
しかし、母の胎にあるときから私を選び出し、恵みをもって召してくださった神が、
異邦人の間に御子の福音を伝えるため、御子を私のうちに啓示することを良しとされたとき、私は血肉に相談することをせず、
私より先に使徒となった人たちに会うためにエルサレムに上ることもせず、すぐにアラビアに出て行き、再びダマスコに戻りました。
それから三年後に、私はケファを訪ねてエルサレムに上り、彼のもとに十五日間滞在しました。
しかし、主の兄弟ヤコブは別として、ほかの使徒たちにはだれにも会いませんでした。"
ガラテヤ人への手紙 1章13~19節

パウロはガラテヤ地方の諸教会宛に、大変厳しい態度で手紙を書いた。そこには、ガラテヤの人々を愛しているからこその厳しいことばが書き記されている。

 

彼らの問題点は、ユダヤ主義に走り、かつての恵みによって救われ、喜んでいたところから、その恵みを純粋に感謝せずに、自分で勝ち取るものへと変化させてしまっていたことである。

 

主イエスによる完璧な救いには満足せず、人が自己満足感を得るために泥をなるようなものであふ。プロの大工が仕上げた柱に素人が勝手に鉋をかけるようなものである。

 

そして、さらに100%恵みによる救いを宣べ伝えていたパウロのことすら、使徒と認めず侮辱していたのである。それは、他の教会に対しても強調していることでもあった。パウロ十二使徒ではないので、自ら使徒と名乗っていることに異論を唱える者たちがいたからである。

 

ガラテヤの人々には、特にパウロは自分の使徒となった経緯を説明している。それが、このに示した聖書箇所である。

この中でパウロは、神の啓示を受けたことがわかる。そして、アラビアに行ってから使徒ペテロに会いに行き、そこにしばらく滞在した。

 

それはペテロが当時のキリスト教会における使徒の中の使徒であったからである。彼と会い、そこに滞在しつつ、使徒として召されたことや、ペテロからも主イエスについて教えられたと考えられる。そして、他の使徒には合わず、主の兄弟であるヤコブには会って、そこでも主イエスの肉親から、主イエスのことを聞いたに違いない。

 

そして、その二人の教会リーダーたちに会って理解を得ることで、教会全体からも信頼される大切なプロセスとなったことは、言うまでもないだろう。

 

そのようにしてパウロは、使徒として認められるプロセスは通ったが、それは既に神によって使徒とされたことを教会に確認してもらうということであって、決して、他の上位者によって任命されたのではない。ここが使徒パウロの言いたいところである。

 

神によって任命された使徒として語っている福音を認めなさいということである。

 

このことは、現代における教会に適用するならば、神に召された伝道者である群れの牧師の召命を教会は認め尊ぶことではないだろうか。そして、その牧師が語ることばに真摯に向き合って聞いていくことではないだろうか。

 

その牧師が人間として未熟であったとしても、そのことを祈りつつ、神が送ってくださった群れの監督として、またともに主にあって成長させられていくしもべ仲間であることを認めるのである。

 

あなたの群れの牧者をあなたはどのような考えているだろうか。今日もあなたのために日々祈りとみことばをもって、神にあって守っているあなたの教会の牧師のために、あなたも祈り支えていこうではないか。

 

"こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。
それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためです。
私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。
こうして、私たちはもはや子どもではなく、人の悪巧みや人を欺く悪賢い策略から出た、どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることがなく、
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において、かしらであるキリストに向かって成長するのです。
キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。"
エペソ人への手紙 4章11~16節