"罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。"
ローマ人への手紙 6章23節
私たちは子供の頃からご褒美をもらうクセがついています。良い子にしていたらサンタさんがプレゼントくれるよと、プレゼントすら報酬のように勘違いさせます。
何かの行いへの評価を気にして生きるようになっていきます。でも、そのような生き方は、常に自分が何をしたから価値があるとか、何も出来ないから価値がないという常識を植え付けます。また、それは自分だけでなく、他の人の価値をも、その行いの評価によって決まるのです。
しかし、そのような行いへの報酬として得る価値観の世界において、行き着くところはどこなのか。それが死であると聖書は言うのです。
聖書は一貫して、私たちはその行いに応じてさばかれるとあるとおりです。
"神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。"
伝道者の書 12章14節
しかし、行いに応じてさばかれるから、良い行いを頑張ろうというのは、間違っているとも語るのです。それは、すでに律法が与えられたことにより、そのままの私たちでは、その律法、つまり神のきよさに近づくことができないことが明らかにされたからです。
神のきよさに近づくとは、すなわち永遠のいのちをもつということです。しかし、それを自分の努力で手に入れることはできません。多くの偉人たちが正しく生きようとして努力しますが、誰一人、自分の行いによって自分をきよめることはできないのです。
仮に自分でできたと思ったとしても、それは自己満足であって、神のきよさから見れば、何も解決になっていないのです。
なぜならば、神を無視して生きるところに罪の本質があるからです。神との関係の回復なしに、私たちが自分だけできよくなることは不可能です。
だから、行いに応じてさばかれるという審判に耐えられる人は一人もいないのです。神抜きに頑張れば頑張るほど、その行いに与えられる報酬、つまり給料は、やはり死なのです。
ところが、神は私たちが自分の力で神に近づくことができないことをよくご存知ですから、神の前におけるさばきから免れる道を備えてくださいました。それは、ご自分の御子を世に遣わして、罪のないきよい人間としてさばくことでした。
それは罪のないきよいものでなければ罪人の代わりにならないからです。
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
ヨハネの福音書 3章16節
とみことばにあるように、神様はその御子の死が自分のためであったと信じる人に永遠のいのちを与えることを定められたのです。
だから、罪の報酬は死です。しかし、神のくださる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちなのです。
あくまで、永遠のいのちは神様からのプレゼントとして受け取るものだからです。
私たちはがんばることは大切です。しかし、救われること、神に近づくこと、きよめられること、永遠のいのちを持つこと、天国に入ることにおいては、神様から頂かなければならないことをわきまえる必要があります。
それは、神様の前に降参することです。私にはできませんと素直に認めて、神様からのギフトとしての救いを受け取るのです。それが信仰です。
義人は信仰によって生きるとあるように、私たちを生かすのは、神によって救われたという恵みへの応答という信仰であり、そこから生まれるきよい歩みです。
この順序が大切です。神に出会うことを抜きにしてきよい生き方も永遠の命もないのです。
まず神が与えてくださっている御子のいのちを受け取って、ようやく神の愛があなたの中に入り、あなたを変革するからです。その働きの主は聖霊です。その良い生き方すら、実は神様からの賜物なのです。
この至れり尽くせりの救い。これがキリスト・イエスにある永遠のいのちの素晴らしさです。
どうか、あなたもこの救いを信じて、永遠のいのちを得てください。