日本メノナイト 白石キリスト教会

おもに聖書からのメッセージをお届けします。

2020年7月21日(火)きょうのみことば

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ルカの福音書 10章25~42節

"さて、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試みようとして言った。「先生。何をしたら、永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
エスは彼に言われた。「律法には何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』、また『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』とあります。」
エスは言われた。「あなたの答えは正しい。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
しかし彼は、自分が正しいことを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とはだれですか。」
エスは答えられた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下って行ったが、強盗に襲われた。強盗たちはその人の着ている物をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。
たまたま祭司が一人、その道を下って来たが、彼を見ると反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、旅をしていた一人のサマリア人は、その人のところに来ると、見てかわいそうに思った。
そして近寄って、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで包帯をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介抱した。
次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみ深い行いをした人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って、同じようにしなさい。」
さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」"

 永遠のいのちを得るためには何をすべきか。律法の専門家は、主イエスに、あなたはそれを既に手に入れていると言ってもらえるものと期待して、このような質問をしたようです。

 彼は、律法の専門家だけあって、律法を守ることで永遠のいのちを得られると思っていた。でも、それは決して間違いではありません。本当に私たちが律法を完璧に守ることができるなら、それはまさに神のきよさを持つことですから、永遠のいのちを受け取ることができるでしょう。

 でも、神様が与えてくださった律法とは、書いてあることを守って、それを誇るためのものではありません。自分は律法を守っている。誰かにほめてもらいたい。いや、有名な先生にほめてもらい、そのお墨付きを得たい。この律法の専門家は、恐らく、そのような思いでイエス様のところへ来たと考えられます。イエスを試みようとしていたとは、自分の行いに自信があったために、その正しさをこのイエスという人はわかるだろうか。そんな思いだったのでしょう。

 でも、神様のきよさの前には、仮にそこまで完璧に律法を忠実に守っていたとしても、その時点でアウトです。それは、律法とは守り通すものではなく、かえってその律法により神の崇高なきよさを知り、私たちの力では到達できないことを悟ることこそが重要だからです。律法を守ることを達成することは理想ですが、それは、このままの自分では無理であることに気付かされる。永遠のいのちはそこから始まるのです。

 永遠のいのちをを受ける人は、自分の隣人とは誰かなどと質問しません。自分の隣人を限定して、私は隣人を愛しているなどと思うな。主イエスは、そのことを知らせるために、「良きサマリヤ人のたとえ」を話されます。

 つまり隣人とは誰か。私が愛するべき者は誰かといって自己満足するのではなく、あなたが助けを必要としている人の隣人なのだ。そう仰っているのです。

 私たち人間は、つい自分が何かしていることで何かを手に入れられると思います。それは、この世の基準がそうだからです。お金を得るためには仕事をしなければならない。仕事をすれば報酬が得られるのです。人から褒められるという報酬を得たいのであれば、その人の喜ぶことを行えば良いのです。そうすれば報酬として、賞賛を得られるでしょう。

 しかし、永遠のいのちとは報酬として得るものではありません。神を愛し、人を愛する人が神から与えられる賜物です。しかし、それを私たちはこのままではいただくことができません。

 私たちはどんなに良いことをしようとしても、それはバベルの塔を建てようとした人々のように、結局「名をあげるため」に行なっているだけであり、自分の手で天に届く塔を建てることができると思っていること自体、かえって永遠のいのちから遠ざかっているのです。

 しかし、そこに神が降りてきてくださったように、神はきよいひとり子をこの世に遣わし、今度はその御子によって律法を完璧に守らせ、そのきよい人を私たちの代わりにさばくことにより、信じる者に、そのきよさを着せるという方法をもって律法を全うしたものとして認めてくださる。それは、つまり私たちの行いではなく、賜物として永遠のいのちをくださるということです。

 ですから、信じた者たちにとって大切なことは何か。それは、マリアのように、そのきよい御子イエス様のことばを聞き、そのことばに生きようとし、またそのように生きることなのです。でも、ときどき古い性質が残っていますから、感謝のうちに奉仕をして自分のささげて喜んでいれば良いのに、マルタのようにイエス様への感謝から目が離れ、自分の行いに立ってしまった途端に主の足元でみことばを聞いているマリアに対して嫉妬して怒るものです。それは、結局、行いによって永遠のいのちを得られると思っていた律法の専門家と同じ土俵に立っているということです。

 だから、主は最後に、大切なことを教えてくださいました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」"

 

 行いに立とうとするとき、主を愛すること、人を愛することに、様々な思い煩いをもつようになります。それは、自分の力ですることに囚われてしまって、既に疲れているからです。でも、大切なことは愛する主のことばにまず聞いて、そのことばから、主の愛と恵みをしっかり受け取ってから立っていくことです。そこには、自分の力ではなく、また自分の行いではなく、主の愛と恵み、主の愛と恵みによる力があります。

 そのとき、永遠のいのちを取引で得るのではなく、愛してくださる主をただ喜ぶ生き方がすなわち永遠のいのちであることを知るのです。

"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"
ヨハネ福音書 3章16節


"永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。"
ヨハネ福音書 17章3節


"罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。"
ローマ人への手紙 6章23節