ローマ人への手紙 6章8~11節
"私たちがキリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きることにもなる、と私たちは信じています。
私たちは知っています。キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはありません。死はもはやキリストを支配しないのです。
なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。"
よく十字架をのネックレスをしている人を見かけます。特にクリスチャンでなくても、十字架を身につけることが良いこと、美しいことだと理解されているからではないでしょうか。
使徒パウロもそのことを教えています。でも、それは十字架のかたちをしたものを身につけるアクセサリーとしてではなく、十字架を意識すること。十字架を心に置くこと。十字架を心に刻むことなのです。
それは、どういうことかと言うと、キリストが死なれた十字架が、今から2000年前に起きた過去の出来事で終わらせないで、その十字架が今もなお、今度は信じる私たちに起こっていることとして認識するということです。
だからパウロも11節で「認めなさい」と勧めているのです。
イエス・キリストを信じる私たちは、御子とともに罪に死んだと認める。そして、キリストが死から復活されたように、私たちも、神に対して生きるものとされたことを認めるのです。
それは、キリストが復活されたのは、ご自分の力によってではなく、それは父なる神の御力によるものであったからです。それは、キリストが眠った者の初穂としてよみがえることによって、信じる私たちをもその恵みに与らせてくださるためだったからです。
事実、今、私たちはそのキリストのゆえに、その十字架も復活をも、今もなお私たち自身の中に起こっている事実として認めているのではないでしょうか。
今日もあらためて、この主の十字架の恵みが私の中に起こっている。今もなお、その十字架に私の罪が、あなたの罪が釘づけにされて、古い私は死んだのだと認めようではありませんか。
だから、いつもみことばを通して主の十字架を、心に刻まなければなりません。その十字架の形をアクセサリーで終わらせないで、私たちのために成された、恵みの御業として覚えていこうではありませんか。