ローマ人への手紙 5章20~21節
"律法が入って来たのは、違反が増し加わるためでした。
しかし、罪の増し加わるところに、恵みも満ちあふれました。
それは、罪が死によって支配したように、恵みもまた義によって支配して、私たちの主イエス・キリストにより永遠のいのちに導くためなのです。"
その義とは、私たちの義ではありません。なぜなら私たちには神のきよさを満足させる義がないからです。
ですから、恵みが義によって支配するとは、これは御子イエス・キリストの義であり、まさにあの十字架において成し遂げられた神の御子の義なのです。
その御子の義を私のためであると信じるならば、罪の呪いの中にある私たちが、その御子の義、つまりキリストの義をいただいて、その義が私たちを支配する。それはキリストご自身を着ることでもあり、神様はそのようにキリストを着る私たちを義と認めてくださるのです。
それが恵みなのです。罪に対して無力な私たちを死、つまり滅びに向かわせることをよしとせず、神様は一方的に、私たちを義とする方法を備え、与えてくださいました。それが恵みといいます。
恵みとは、それを与えられるに相応しくないものがいただくことです。
その恵みを満たすものがキリストの義なのです。キリストは罪のない生き方、義を貫かれて、極刑に処せられても神を恨むこともなく、失望することもなく、ひとりの信仰者としても、最後まで神様に望みをおいたのでした。
その生き様を全うされた御子の義を父なる神様は、ご自身の目にかなうものとされ、三日目に死からよみがえらせました。
ですから、それを信じる私たちも、義としていただくだけでなく、死んでもさばきに会うことがなく、キリストの再臨の時には新しいからだをもって復活させられるという大きな恵みに預かるのです。
今日もこの偉大な恵みがあなたにも与えられていることを感謝して、今、あなたが恵みをいただいていながら、罪を犯してしまい、決してきよくない。義に生きられないことに肩を落としているならば、大切なのはあなたの義ではなく、キリストの義をいただいている恵みを覚えましょう。そして、その義があなたに満たされているからこそ、救われているという恵みに感謝していこうではありませんか。