のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

信仰と行い

ヤコブの手紙 2章14~26節

"私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立つでしょうか。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
兄弟か姉妹に着る物がなく、毎日の食べ物にも事欠いているようなときに、
あなたがたのうちのだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹になるまで食べなさい」と言っても、からだに必要な物を与えなければ、何の役に立つでしょう。
同じように、信仰も行いが伴わないなら、それだけでは死んだものです。
しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。
あなたは、神は唯一だと信じています。立派なことです。ですが、悪霊どもも信じて、身震いしています。
ああ愚かな人よ。あなたは、行いのない信仰が無益なことを知りたいのですか。
私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇に献げたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。
アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことが分かるでしょう。
同じように遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したので、その行いによって義と認められたではありませんか。
からだが霊を欠いては死んでいるのと同じように、信仰も行いを欠いては死んでいるのです。"

宗教改革者ルターは、「ヤコブの手紙」のことを「藁の書」と言ったことは有名な話です。それは、彼自身の信仰の目が開かれたのが「信仰による義」だったからです。

ルターはカトリック教会の修道士として、いくら正しい行いに生きようとしても、自分のうちに湧いてくる悪い思いと格闘し苦しみます。

その中でローマ書のみことばによって目が開かれるのです。

"福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。"
ローマ人への手紙 1章17節


この体験から、彼は神の前に人間が自分の行いによって義とされることはあり得ず、ただ神にすがるほかないことを悟るのです。そして、そのような罪深い者のためにキリストが十字架にかけられ殺された。それは、その十字架に古い自分もかけられて、その贖いの事実を信じるときに義とされる。つまり救われると気がつかされるのです。

 

それで、行いによって義とされると謳うヤコブ書のことを蔑んだということです。

 

しかし、「ヤコブの手紙」も聖書です。ヤコブ書も誤りなき神のことばですから、蔑むのは間違いですし、悪口を言うのはキリスト者として相応しくありません。

 

このところに実は宗教改革者ルターの落ち度があると言って良いと思います。それは、確かに彼の功績は大きいと言わざるを得ませんが、やはり、物事には必ず反動というものがあって、あることを否定するあまり、自分が立つところを必要以上に正当化し行きすぎるのです。

 

信仰による義はもちろん正しい。なぜならば聖書がそう言っているからです。同じように行いによって義とされるということも真理です。なぜならば聖書にそう書いてあるからです。

 

ルターはもっと冷静に考えるべきでした。ヤコブ書の文脈を。

ヤコブも決して信仰がどうでも良いと言っているのではありません。信仰による義を口実に、罪を平気で犯すキリスト者、自分には信仰があると言いながら、正しく生きることを捨てているキリスト者のことを知り、その背景の中で、信仰も行いがないなら死んでいると言っているのです。

 

当時のギリシャ文明の影響下にあった聖書世界には、霊と体を分離した考え方が広まっていました。後にグノーシス主義と言われましたが、そのような異端的思想の影響を受けたキリスト者が、どうせ霊は信仰によって救われているのだから、体は罪を犯して滅びても平気などと勘違いし、放縦な生活に陥っていたと考えられます。

 

しかし、私たちが救われたのは神を愛し、隣人を愛するためですから、信じたのにも関わらず神を愛さない歩み、隣人を愛さない生き方があるならば、それは本当に救われたことにならないでしょうとヤコブは警鐘を鳴らしているのです。

 

私たちは確かに罪深く、この肉体に罪の性質が残っています。しかし、それは一度、キリストの救いを受け入れたときに、その信仰により、神によって義とされますが、そこからが勝負です。それは、信じたときに与えられる聖霊がいつも信じる私たちを励まし、キリストのように十字架の道を歩み実質的にも義人の歩みができるように助けてくださるからです。

 

その聖霊の導きを浅はかな私たち自身の傲慢によって拒否するならば、それは既に信仰をもっていないのと同じなわけです。本当に罪を悔い改めて信仰をもったならば、そのような神様の恵みを軽んじるようにはならないからです。

 

だから、ローマ書を書いたパウロはこう言っているのです。

"神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。"
ローマ人への手紙 8章28節


そしてヤコブもこう言っています。

"私の愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束された御国を受け継ぐ者とされたではありませんか。"
ヤコブの手紙 2章5節


ヤコブは、神様が私たちを選んで信仰に富む者としてくださった恵みを語り、その信仰者のことを「神を愛する者」と言い、その先には「御国を受け継ぐ者」であるとはっきり言っています。

 

パウロも私たちが、いかなる弱々しい信仰者であったとしても神を侮らず、行いを軽んじずに、ただ神を愛する者であることによって、全てのことが神の導きと共に働いて益とされると言っているのです。それは、御子のかたちと同じ姿になるための聖霊の働きです。

 

そこにある私たちの働きとは、神を愛して、隣人を愛して生きるその信仰による歩みを心から願い、そこに立っていく意思の大切さ、敬虔に生きることをさしているのです。

 

決して表面的な行いが義とされる方法ではなく、信じていることの実践こそが、私たちが立ち求めていく信仰の歩みだからです。

 

今日も、ただ神の子どもとされた恵みに感謝して、神を愛する者として、歩もうではありませんか。そこには、必ず聖霊によって、キリストのような神を愛し隣人を愛する生き方が表されるからです。

 

いつも信仰をもって、神の子どもとされた恵みを意識して、神によって与えられた無限の愛を隣人にも与える者でありたいです。それこそ、「アブラハムも行いによって義とされたではないか」と叫ぶヤコブのメッセージだからです。