のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「宝の箱をあけて」マタイの福音書2章1~12節

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序論

  今日、開いた聖書箇所には、二種類の人たちが登場します。一つはユダヤの王様のヘロデです。もう一つは東の国から旅を続けて来た博士たちです。
 今日の箇所ではどちらの人も、同じことを言っています。
博士たちは2節で「拝みにまいりました」と言っています。またヘロデ王も8節で「私も行って拝むから」と言っています。どちらも「礼拝する」ということです。
 今日は、この二種類の人たちに注目して、この人たちの違いは何か、そして私たちはどうなのかということを一緒に考えていきたいと思います。

 

1.偽りの礼拝者 
 1~3節を読みましょう。
「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。』それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。」
 ヘロデ大王は当時ユダヤの王様です。王様といってもその当時はローマ帝国に支配された中でのイスラエルですから、それは傀儡政権でした。ローマ皇帝もローマの言う事を聞く人を、その属州の統治者に任命して、ローマへの反乱を防ぐ意味がありました。ですからヘロデはローマの言いなりで、なおかつ、イスラエルではかなり強い権力で自分の地位を守っていました。もともとはエドム人エサウの子孫)なのでアブラハム、イサクの子孫ですがユダヤ人ではありません。でもユダヤの民衆の心を掌握するためにユダヤ教に改宗したのです。そのために立派な神殿を建造していました。つまりヘロデにとって信仰は政治利用の道具でしかなかったのです。
 そこに、突然外国の博士たちがやって来て、「ユダヤ人の王としてお生れになった方はどこにおいでになりますか」と言われたら、その心境は穏やかではありません。ヘロデ王は「恐れ惑った」と書いてあります。突然のお客さんに動揺したのではなく、ユダヤの王である自分が知らないところで別なユダヤの王が生まれたという情報で危機感を持ったということです。
 せっかくここまで上り詰めてきたのに、他に王がいるなんて顎が落ちる情報です。それはエルサレム中の人たちも同じだったといいます。だれも救い主なんて頭になかったということです。
 そこでヘロデは、聖書学者たちを呼んで救い主がどこで生まれるのかを調べさせました。学者たちは小預言書のミカ書からベツレヘムという町で生まれるという言葉を見つけて報告。それで博士たちが星を頼りに来たことを思い出し、その星の出現時間から救い主誕生の時期を割り出して、現在既にどのくらい時間が経っているのかを調べたのです。
 結局、このような調査は二歳以下の子どもを殺すという方針の材料になります。ヘロデにとって、救い主は自分を失脚させる疎ましい存在、敵でしかなかったということです。
 神様がせっかく遣わした救い主が、ヘロデにとっては拝むどころか抹殺する相手だったのです。8節の「私も行って拝むから」という言葉は、博士たちを騙してイエス様を殺すための方便、自分を良く見せるための道具、アクセサリーに過ぎなかったのです。
 私たちの信仰もアクセサリーなのか、自分の生き方そのものなのかはっきりさせることが重要です。
 
2.真の信仰者は宝の箱をあける
 しかし、そのようなヘロデに対して、メシアの訪れを心から待っていたのが東方の博士たちでした。この東方の博士たちがメシア登場の中心に描かれていることは、この福音書を読むユダヤ人たちにとっては事件です。なぜならば、彼らは異邦人で占星術師というイスラエルでは忌み嫌われるべき人たちだからです。そういう意味で、ここに示されている博士たちの姿には、同じ異邦人である私たちへの慰めがあるのです。ここから真の信仰者について三つのことを見ていきましょう。
 まず一つ目は、東の方(メソポタミア地方だとしたら1600kmくらい)でメシアの星を見て、わざわざ時間とお金と命を懸けてやって来たということです。しかもその目的が「拝むため」です。これは礼拝するという意味です。
 これは主を礼拝することに対する計算がないということです。まず礼拝することを第一にして出発する。

   その思いこそアブラハムの信仰です。アブラハムは、どこに行くのかわからないのに神様のみことばに従って家族を連れて旅に出ました。それはただの楽観的とは違います。その中心は、その家族とともに自分を生かしてくださっている主を礼拝するためであります。だから、アブラハムは要所要所で必ず祭壇を築いて家族で礼拝しています。

  東方の博士は異邦人なのに、しかも複数で命がけで礼拝しに来ました。異邦人の占星術の博士の方が、ユダヤの王ヘロデよりもずっとアブラハムの子孫だったということです。ヘロデは自分のことが一番。自分の地位や名誉が大切です。8節の「私も行って拝むから」という言葉の裏には自分を守るためにイエス様を殺そうという計算があります。しかし博士たちは命がけで礼拝しに来たのです。ですから大切なことは、主を礼拝することを第一とする。これが真の信仰者として学ぶ第一のことです。
 第二のことは、10節です。
「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」
 博士たちの長い旅を支えるものは、この喜びでした。主を礼拝することを喜ぶ。つまり、主にお会いすることを楽しみにしていた。それはどうしてでしょうか。どうして、大変な長い旅を続けて、尚も喜んでいるのでしょうか。財産もつぎ込んで危険を冒して旅に出るほどに彼らを押し出した喜びとは何だったのでしょうか。
 それは、救い主に対する愛ではないでしょうか。ただ物珍しいものを見るためだけなら、こうはなりません。しかも、彼らの目線はずっとこの星に集中していることがわかります。2節には「その星を見たので」と言っています。これを書いたマタイも9節で「見よ、東方で見た星が」と指差しています。その星は何を物語っているのでしょう。彼らが占星術師だったからでしょうか。星を研究していたから気になっていただけでしょうか。
 そうではありません。11節にはこう書いてあります。
「そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ」
 その目は実は星ではなくずっと幼子イエス様を見ていたのです。この主イエスを目の当たりにしたとき、彼らはひれ伏して拝みました。ひれ伏すと拝むという同義語を重ねて使って、彼らの礼拝がどれほど真剣で心からの礼拝であったのかがわかります。博士たちの目線はイエス様からぶれない。イエス様から目を離さない。これが、真の信仰者として第二の姿です。
 そして、最後に第3の姿。それが11節後半です。
「そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。」
これは、自分の大切なものをささげるということです。では博士たちと同じように黄金、乳香、没薬をささげるのか。またはこれらは当時の高価なも品物ですから、自分の持っている高価なもの、アクセサリーやお金をささげることかと思います。もちろん、それがその人にとっての最善であるならそうすべきです。しかし、ここで今日、問われていることは、何をささげるかというよりも、「宝の箱をあけて」ということです。何をあけるかでささげるものが決まってきます。
つまりあなたの宝がある場所を開けること。それがここで私たちが求められていることなのです。
エス様はこう言われました。
「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるからです。」マタイ6:21
つまり私たちの心こそ、宝の箱だということです。それは、私たちは大切なもので心を満たす生き物だからです。好きな人ができると朝から晩までその人のことで頭も心もいっぱいで何もできなくなります。それを恋わずらいと言いますが、好きなもので煩うくらい、私たちの心と言う宝の箱はすぐに満杯になります。そうすると本来すべきことができなくなり、見るべきものが見えなくなるのです。つまり自分の宝物が自分の首を絞めることにもなっているということです。
博士たちは宝の箱をあけて黄金、乳香、没薬をささげました。だから当然帰りは荷物が軽くなります。それは何を意味するでしょう。実は、その持っていた宝物が重荷であったということです。私たちは大切なものがたくさんあります。どれも大事でしょう。お金も家族も、仕事も社会的地位も、それぞれ大事なものです。 しかし、そのことに執着している限り、つまり自分の宝の箱をあけない限り人生の重荷は重いままです。仕舞いには負いきれず、倒れるでしょう。それは、単に好きなものだけではありません。あなたの心の奥の開けてはいけない部屋のことでもあるのです。それがあなたを苦しめている過去の色々な出来事。人に言えないことも、イエス様に打ち明けるなら、解放されるのです。
主イエス様は、あなたのすべての重荷を引き受けるために来てくださいました。私たちの握り締めているすべての重荷を負うために神の御子が人として来られた。それがクリスマスです。
  ヘロデは自分の宝の箱を開けることができませんでした。彼の宝の箱には彼自身が大切にしまってありました。彼は自分の王座をイエス様に譲ることができなかったのです。それを守るためにこのあと2歳以下の男の子が虐殺されます。そして、彼自身、最後まで人を信用できず、息子も妻も殺して、誰をも愛せず、愛されず死んでいきます。
 私の実家はもともと浄土真宗でした。でもクリスマスに何かお祝いをしていたかというと、あまり覚えていません。ただ覚えているのは、クリスマスになると必ず私と姉と弟宛にハガキが届いていたことです。サンタクロースの絵が描かれた可愛い感じのクリスマスカードでした。最初は全く気にしないでいましたが、物心がつくようになった小学校の高学年頃に、それがどこかの福祉団体からだということがわかりました。なぜ、福祉団体から私たち兄弟にクリスマスカードが送られてきたのでしょうか。それは、うちが母子家庭だったからです。私の父と母は、私が5歳のときに離婚しました。私の姉が小学校1年生のときです。だから、姉だけは学校で苗字が途中から変わったという苦痛を味わいました。
 父の苗字は古澤です。だから私も、5歳までは古澤憲久でした。だから小学校に入ってから保護者名に母の名前を書くのが子供心に寂しさを覚えていました。
 つまり、そういう可哀相な子どもだからクリスマスカードが来ていたと思うと、益々寂しい気持ちになったことを思い出します。ぼくは可哀相な子どもなのかと。
 でも、中学3年生のときに教会に行くようになって、クリスマスの本当の意味を知っていくうちに、イエス様が私の寂しい心を喜びで満たすために来られたことがわかって、それからは、クリスマスは嬉しい日に変わりました。そのクリスマスカードを送ってくださっていた人たちにも感謝の気持ちが湧いてきました。決して、母子家庭の私を上から目線の可哀相だからではなく、励まそうとしてくれていたんだと、心の底からそう思えるようになりました。
 本当のクリスマスの意味がわかると、心の歪みや捻くれた思いが正されていったのです。それは、私の心の王座に私ではなく、イエス様が座ってくださったからです。イエス様が私の宝になったからです。

 

結論
 イエス様は今日、あなたの宝の箱をあけるように待っておられます。それは、イエス様があなたの宝が欲しいからそう言っているのではありません。イエス様は神様ですから、私たちのささげものがなくても当然生きていけます。むしろ、あなたの宝の箱である心が軽くなって自由になるように、イエス様の愛でいっぱいになることを願っているのです。
 博士たちは、このあと荷物が軽くされて帰りました。そのとき、何と神様の言葉が与えられて、彼らが自分の国へ無事に安全に帰られるように導いてくださったのです。12節。
「それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」
 主を礼拝することを第一として主にのみ目を注ぎ、自分の心を明け渡すとき、必ず新しく生きるためのみことばが与えられます。それは一回きりでなく日々与えられ、私たちを天の御国まで導いてくださるのです。
 私たちも、今日、主の前に礼拝をささげるために集まりました。自分の宝の箱を全開にして主の前に出ていこうではありませんか。

「恐れないで迎えなさい」 マタイの福音書1章18~25節

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序論

  この箇所からストーリー性のあるお話に変わっていきます。それがまさにクリスマスに深く関係する箇所ですが、これを記録したマタイと言う人は、あくまでマリアの夫ヨセフの視点でお話を進めます。それは、先週から見ているように、ダビデ王家の家系であるという前提を保っているということでしょう。しかも、ヨセフがどんな人物だったかを記録しているのはマタイだけです。そういう意味で、今日の箇所はヨセフという人を通してクリスマスの意味を知るということになります。
  19節にヨセフは正しい人だったと書いてありますが、それはどういう意味で正しかったのか、みことばに聞いてまいりましょう。

 

1.クリスマスの問題点と信仰
 18節を読みます。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。 」
 「イエス・キリストの誕生」となっています。イエス・キリストという言葉も、系図によって説明してきたので、ここではあえて16節のように「キリストと呼ばれるイエス」とは言いません。イエスイスラエルの王、ダビデの子孫として約束された救い主であるということを宣言してお話は始まります。
 そのイエス・キリストの誕生には最初から問題があったことを知ることができます。先週もすでに触れましたが、結婚前のマリヤが妊娠してしまったということです。でもここは「聖霊によって」と書かれていますから、ヨセフだけでなく、他の男性との間にイエス様が宿ったわけではありません。だから、結果オーライではあります。前回お話したように、イエス様の誕生は、これまでの人間の営みとは違う方法だったということです。
 私たちも、使徒信条で毎週告白しています。「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ」と。それは、初代教会の時代から、このことが大切な教理であったということです。教会はこの事実を事実としてしっかり信じることを強調してきました。
 それはどうしてでしょうか。それはイエス様が罪のない完全な人間として来られる必要があったからです。かといって、アダムのように土地の塵から造るのでは、あまりにも私たちとかけ離れていますし、それではダビデの子孫として生まれたとは言えません。ですから、既に人間として存在するマリヤのからだを使って聖霊なる神によって身ごもらせることが必要だったのです。イエス様は完全な人間であり、同時に完全な神です。そのことを保つために取られた神の知恵がここにあるのです。
 それだけに私たち人間はそのことが受け入れがたいのです。処女が身ごもるなんてありえない。起るはずがない。そう思うのはわかります。人間にはできないことですから。でも人間の知恵や力が絶対だと思っている限りは、この真理は受け入れられないでしょう。信仰は目に見えないものを、また証明されていないことを受け入れるからこそ信仰なのです。
 ですから、天地創造と同じように、新約聖書の初めから、神様は私たち読者に挑戦しています。ここを信じなければ次に進めないからです。
 しかし最近の信仰書に、マリヤの処女懐妊を信じないものがありますので、あえて注意させていただきます。ある牧師が書いたキリスト教入門書にこう書いてありました。
「イエスが処女から生まれたという話も、おそらくイエスの死後、謎であったイエス幼年時代を想像して、人々が書き加えた伝説でしょう。」
 これは他の昔の偉人たちもそのような逸話があるので、それと同じだという理解です。でもキリスト教会が聖書の記事を信じられなくなったらお仕舞いです。私たちが聖書の真理を自分の常識に引き込んで読んではいけません。私たちが理解できないことはあっても良いのです。それは神様のすべてを完全に私たちは知ることができないからです。でも、聖書を通して知るべきことは知る必要があります。ですから、自分に理解できなくても信じて受け入れる。それが信仰であります。
 ヨセフも実は、マリヤが聖霊によって妊娠したということは信じることができませんでした。19節を読みます。
「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」
 ここに「ヨセフは正しい人」であったのでと言われています。ヨセフという人は、イエス様のお父さんという意味では有名人です。でも聖書を見てもヨセフがどんな人だったかはよくわかりません。マリヤはルカの福音書には多くの情報があるし、他の福音書にも色々な情報が書いてあります。でもヨセフについてはほとんど書いていません。しかし、このマタイの福音書では、彼がどんな人かをきちんと記しています。情報として決して多くはありませんが、きちんと明確に書かれています。
 それが「夫のヨセフは正しい人だった」ということです。ここを別の言い方だと「義人」と読むことができます。ヨセフには罪がなかったという意味でしょうか。そうではありません。パウロは義人は一人もいないと言っています。ではヨセフがどういう意味で正しい人なのか、彼のこのときの二つの姿から知ることができます。
 一つは、「彼女をさらしものにしたくなかったので」ということです。多くの男は、同じ状況に置かれたら裏切られたという気持ちが沸いてきて、恨むと思います。最近ニュースで多いのは、別れ話のもつれで相手を殺してしまうという事件です。愛していたはずなのに、一つ躓くとそれが反作用に変わります。愛とは信じることです。しかし、いっぺん疑いや裏切りを味わうと簡単にその愛は壊れてしまいます。しかしヨセフは妊娠をしてしまったマリヤのことを恨むとか、憎むことはせずに、内密に離縁しようとしたのです。
 ヨセフだって、ものすごく悩んだと思います。恐らくこのときマリヤは15歳くらいだと言われています。ヨセフも若かったとも言われていますが、早く死んだと思われているので、このときは既に30歳くらいだったとも言われています。しかし、どちらにしてもヨセフはマリヤを疑いたくないけど、普通妊娠したといえば、誰か他の人との間に不倫か、または事件があったと推測するのは当然のことです。でも、おそらくマリヤはルカの福音書に書いてあるように、天使のお告げがあったことをヨセフに伝えたと思います。だから、マリヤを信じたい。でもよくわからない。
 当時はまだ結婚前でしたが、既に婚約しているので、もしマリヤに不貞があったという情報が外部に知られたらマリヤは死刑です。それがさらし者にするという意味です。でもそんなひどい目には合わせたくない。かといってヨセフ自身も、自分自身に正直になるなら、まったくすっきりしない。だから、密かに別れようと思いました。これが、彼が正しい人だったことの一つ目の理由です。
 正しい人は、その思考の中心は愛です。自分の思いよりも、まず相手の幸せを考えます。
 白石教会の年間聖句には「神は臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださった」とありますが、ヨセフの信仰はまさに、力と慎みをバランスよく保ちつつ、その中心に愛を忘れないものでした。それが、正しい人の一つ目の理由です。

 

2.みことばのとおりに
 では二つ目は何でしょう。20~25節までをお読みします。
「彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。『ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。』このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」
 ここで言いたいことは、20節の「恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい」という主の使いのことばを、ヨセフは24節で「主の御使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」たということです。
 つまり、みことばのとおりにしたという信仰であります。これがヨセフの正しい人と言われている理由です。
 当時はまだ聖書が完成していませんでした。だから、神様は天使を通してみことばを伝えました。しかも、主の使いによって語られるということは、愛するマリヤも主の使いからのお告げがありましたから、ヨセフを納得させるには十分すぎる意味を持っていました。
 そして、神が聖霊によって宿らせた子どもこそ、メシアであるという内容でした。しかも、これまで多くのユダヤ人が信じてきたメシアとはその働きの使命が違っていました。多くのユダヤ人たちが求めていたメシアはダビデ王のように、力強い軍事力でローマ帝国を追い出し、イスラエル王国を再建することです。しかし、天使の語ったことはどうだったでしょうか。21節。
「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
 それは単にイスラエル王国の再建ではなく、その中心は神ご自身の民を、彼ら自身の罪から救うことでした。このことはヨセフも知らなかったと思います。自分の予想をはるかに超えた神の救いのプランが夢の中で語られたのです。
 この出来事はヨセフにとって大きな経験だったと思います。それは夢ですから、もしかしたら自分の思い過ごしとか、ただの夢程度にしか捉えられなかったら意味がありません。でも、自分が考えていなかったことが語られたことは、自分の中にあることが夢になったのではなく、全く外からの情報だという思いになったと考えられます。
 この出来事からヨセフの思いは、不安や恐れから解放されて、愛するマリヤが言っていたことの裏づけにもなりました。何よりも神様を信じる信仰者として、何を信ずべきか、困ったときに、その行く手が見えなくなっていったときに、何を信じて歩むべきか、その判断にとって大変重要な経験となったでしょう。
 ヨセフは、人生の大きな試練を、最も幸せを味わうはずの結婚で経験しました。しかし、そのときに自分の考えではなく、語られた神の計画とそのことばを優先して、それを受け入れていったのです。そのときに、彼はある意味、霊的な意味でダビデの子孫としての役割を果たすことに用いられたのではないでしょうか。
 神のみことばに聞き、みことばどおりに生きようとすることこそ、正しい人ヨセフ、更にはダビデ王家の末裔として相応しい信仰者の姿だったのです。
この福音書記者であるマタイは、神のことばに従うことの価値を、みことばの確かさによって証明します。22~23節の言葉は、御子イエス・キリストが処女から生まれたことが聖書の通りだったことを証ししています。しかも書き方が「成就するためだった」と、あくまで出来事の主権が主にあるように書いています。ここが、マタイの福音書においては、イエスが王として、神の権威を持って治めるお方であるという決まり文句になっています。神のことばを実現するために来られた王であるキリストということです。22~23節。
「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)」
 この言葉は、先程みなさんで読んだイザヤ書のみことばがイエス様の誕生によって成就したことを表しています。
 このインマヌエルという言葉は、救い主イエス様の存在が私たちにとってどういうことかを示しています。それはイエス様を救い主として信じるなら、神と私たちとを隔てていた罪が取り除かれて、神がともにいる歩みが始まるということです。その状態を神の国または神の支配とも言います。それが死んだ後もずっと続くので、そういう意味では天国に入るとも言えます。
 しかし、それは、あの世としての天国というよりは、最後の審判後にもたらされる完成したキリストの王国、天のエルサレムと言うこともできます。その王国に私もあなたも招かれています。

 

結論
 今日は、クリスマスのお話の裏側にあった問題から、私たちの信仰のあり方をヨセフを通して見てきました。
 あなたの信仰の歩みはいかがでしょうか。イエス様を信じました。神様に従ってきましたと言っても、不幸なことが続いたり、こんなことがどうして起るのかと嘆くことも多々あるのではないでしょうか。しかし、それで落ち込む必要はありません。それは神様があなたを捨ててしまったとか、呪われているのではありません。その嘆きを通してあなたを神の王国の国民として育て成長させ、益々神を愛する者へと造り変えるためなのです。
 人生には必ず苦難があります。それは信仰をもっていても必ず起ります。しかし、そのとき、あなたは何を優先するでしょうか。自分の考えでしょうか。それともどうしていいかわからなくて足踏みするだけでしょうか。
 この正しい人ヨセフは、自分の考えをまず横に置いて、神のことばを恐れずに受け入れました。ヨセフは主の使いが言ったように、マリヤを迎えました。この迎えるとは受け入れるということです。理解できなくても、みことばは真実であることを信じて受け入れる。これが信仰を持っている私達に神が求めておられることです。 
 ヨセフはそこから、救い主の父としてその働きの多くは知らされていませんが、ただ一つ「正しい人だった」というマタイのことばが何よりの光栄な証言として記録されたのです。それは人にではなく神に覚えられているということです。何という恵みでしょう。私たちにとっては、名声はどうでもよい。何よりも嬉しいのは神に、天の父に、そして私たちの主イエスに覚えていただいていることではないでしょうか。あの十字架上の強盗の一人は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには私を思い出してください」と言いました。なぜでしょう。それは、彼にとって、それだけで十分幸せですという主への愛であり告白だったからです。しかし、主は言われます。「今日、あなたはわたしとともにパラダイスにいます」
 今日の箇所で、マタイはかなり気をつけてヨセフを紹介していました。それは、マリヤのことは「その母マリヤ」とイエス・キリストの母であると言いながら、ヨセフに対しては「夫のヨセフ」と言っています。つまりイエス・キリストの父とは書かなかったことがわかります。なぜなら、イエス・キリストの父は神様だからです。しかし、神様の評価は「ヨセフは正しい人であった」それで十分です。 
  大事なことは神を愛し人を愛すること。神を愛するとは神のことばを優先するということです。その神を愛する歩みこそ、本当の意味で人をも愛する歩みとされるのです。私もこのように生きたいと思わされました。控えめにただ神に用いられることに感謝し生きる歩みです。
最後に、そのような生き方を歌っている詩篇がありますので、ご一緒にお読みして終わりたいと思います。
詩篇84:10
「まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。」
 主よ、あなたの御国のはしくれで十分幸せです。

 

祈り
恵み深い天のお父様。あなたはヨセフを通して主イエス様をこの世に送ってくださり、その罪から救うお方として与えてくださりありがとうございます。その影でヨセフは用いられ、マリヤの夫としてその生涯を全うしました。そのヨセフをあなたは「正しい人、義人」と呼んでくださり、その歩みを祝福されたことを覚えて感謝します。私たちも人の声や人の目ではなく、あなたを愛し、あなたのみことばに聞いて歩みたいです。どうか、聖書を通して日々御心を示してください。主の御名によって。

◎ レポート再考:教父学  「ヨアンネス・クリュソストモス」

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  初期キリスト教会の指導者の歩みは、単に古いだけでなく、現代を生きる教会に何かを教えています。以前も紹介した内容ではありますが、もう一度ヨアンネス・クリュソストモスを通して学びたいと思います。


1.生涯
 ヨアンネスは4世紀の神学者コンスタンティノープル大主教キリスト教会最大の説教家として知られる。聖書解釈学者としては、アレクサンドリア学派の比喩的、思弁的解釈を退け、アンティオキア学派の伝統を踏まえて字句通りの解釈を主張した。聖餐を重要視したことから聖餐博士の称号をもつ 。(1)
  クリュソストモス(κρυσοστομος)とは名前ではなく、ヨアンネスの死後につけられた (2)「黄金の口」を意味する尊称である。 
  344年、または349年にアンテオケで、ローマ帝国近衛軍人の父親と母親アンテューサの間に生まれた。しかし、母アンテューサが二十歳のとき、父親は死に、それ以降はアンテューサによって献身的に育てられた 。(3)
  ヨアンネスは18歳で洗礼を受け、聖書と神学を学んだ。371年頃教会の聖書朗読者となるが、隠匿生活を志し、荒野の洞窟に2年間、聖書の言葉を瞑想しつつ過ごすが、厳しい禁欲生活によって健康を害してしまった。その後、町に帰り381年に執事に任ぜられ、386年に司祭となった。そのあとアンテオケの説教者となり説教者としての名声を博した。
 397年、ヨアンアネスは意に反してコンスタンティノポリスの総主教に選ばれ、398年その任に就いた。彼はコンスタンティノポリスの陰謀や圧力には屈しなかった。首都の道徳水準を引き上げようとするヨアンネスの努力は強烈な反対に合った。皇后エウドクシア、ヨアンネスを厳しすぎるとした地元の聖職者たち、首都に迎えられたアンテオケの聖職者たちを妬んだアレクサンドリアの総主教テオフィロスらが協力して、ヨアンネスに反対した。
 彼らは403年のオーク会議でヨアンネスを罷免し、皇帝もそれを承認し追放した。しかし、コンスタンティノポリスの市民は、ヨアンネスを支持して暴動を起こしたため、皇帝は驚き、翌日にはヨアンネスを呼び戻した。
 ヨアンネスの説教は一見無愛想とも言える勇敢なものであったが、皇后エウドクシアはそれに腹を立て、再度ヨアンネスを亡き者にしようとした。皇帝は彼に教会の公務から退くように命じたがヨアンネスが拒否した。ところがある日、ヨアンネスが洗礼を行うために求道者会を開いていたときに、彼は兵士らによって連行された。このとき多くの受洗予定者らが負傷した。この追放命令は、407年9月14日にヨアンネスが死ぬまで続いた。彼の死後遺骨は438年になってようやく使徒教会に埋葬された。

 

2.背景
 当時のキリスト者にとっては、名説教家の説教を聴くことが一種の娯楽となっていた。その中で教父と呼ばれる人々の大多数は司教であり、説教する機会を多く持っていた。聖書の連続講話、洗礼志願者の信仰教育のための連続講話、典礼の暦に沿った祝祭日・主日のための説教、葬儀説教といった多くの形式の説教がたくさん残されている。長さもまちまちで、20分くらいのものから1時間以上かかっただろうと思われるものもある。
 そのくらい、当時の教父のだれもが説教に力を注いでいたことがわかる。しかも、説教の内容が、キリスト者としての生き方について相当厳しいことが語られていた。
 3世紀以前には既に教会は財産を持ち始めていたが、教会を維持するパターンを変えたのは4世紀からの並外れた教会成長であった。自主的な献金が依然として教会収入の重要な部分を占めていたが、コンスタンティヌス以後は、政府補助による寄付金が収入の大部分を占めるようになり、初期においては、これらの収入は主教にのみ割り当てられ、乱用される結果になった。つまり、ローマの国教となって保護され、国家と歩調を合わせるようになってから、教会は様々な部分でキリストの香りを失っていったのである。
 
3.神学的貢献
 ヨアンネスは、黄金の口と賞賛されたほどに、語られてきた多くの説教は現存するだけでも数百はあるという。その説教はギリシャ語聖書の意味に対する洞察と、聴衆への適用能力において優れており、説教学において不朽の貢献と言われている 。(4)
 
4.思想
 ヨアンネスは、一人のキリスト者として、言葉と態度においてぶれることなく、一貫した歩みをした人物である。首都コンスタンティノポリス大主教となっても驕ることなく、他の指導階級の人々のような贅沢や毎晩の遊興に染まることなく、聖潔に努めた。特に彼が移り住んだ司教館が、前任者による華美な調度品に溢れていたところを全て撤去し刷新したが、彼のそのぶれない姿勢、信仰は宮廷に対しても向けられ、その反感を買い宗教的、政治的圧力を加えられても怯まなかったのである。
 ヨアンネスがコンスタンティノポリスの司教に任ぜられたとき、首都コンスタンティノポリスには、大勢の異端者が群れをなしていた。彼は早速、異端者の一掃に乗り出した。ヨアンネスは一般の人々に対しては物分りが良かったが、異端者に対しては頑固で、冷酷だったと言われ、イエスを十字架にかけたユダヤ人に対しても攻撃的であった。説教の中でも、時折、激しくユダヤ人に対して攻撃し、排斥することが語られていたという 。(5)
 また彼は、自分の不運に屈することがなく、自分のことよりも人のことを心配し、慰め励ましている。特にオリンピアスという女性信徒に宛てた17通の手紙にヨアンネスの信仰の姿勢、キリスト者としての立ち方、その思想を知ることができる。
「私はあなたの悲しみの傷を癒し、暗い雲を追い散らしたいのです。落胆してはいけません。恐れなければならないことはただ一つしかありません。それは罪です。私は繰り返しあなたのために歌い続けます。陰謀、憎悪、侮辱、告発、追放、抗争といったものは一時的なものに過ぎません。魂には何の危害も与えることはできません。禍が最高潮に達するとき、神は一挙にすべてを平穏に戻し、思いも及ばない平安へと導いてくださいます。」
「あなたは神の巧妙さがわかりますか。神の英知がわかりますか。人間に対する神の愛と配慮がわかりますか。心を動揺させず、心を乱さないでください。あらゆることで神に絶えず感謝し、賛美し、祈ってください。倒れた人々を立ち上がらせ、迷った人々を導き、躓いた人々を安心させ、罪人を変容させ、古くなったものを新しくすることが主にはおできになるからです。」
 以上のようにヨアンネスは、聖職者や為政者などの指導階級に対しては厳しく、庶民に対しては深い憐れみをもって対していたことがわかる。


5.知的・霊的遺産
①多くの説教集
 彼の「立像をめぐる第二の講話」は、「何を話し、何を語りましょうか。今この時は涙の時であり、言葉の時ではありません。嘆きの時であって、語りの時ではないのです。熱弁ではなく、祈りが必要です」という言葉で始まる。この説教は、四世紀末のアンテオケにおける市民暴動を背景としている。社会の混乱と対立を嘆き悲しみつつ、慰めのメッセージを伝えている。「ですから落胆せず、嘆くこともせず、逆に今この苦しみを恐れることもしないようにしましょう。自らの血をすべての人のために流すことを拒まず、その肉とともに血までも分かち与えた方が、われわれの救いのために何を拒むでしょうか……」
 また説教の中から名言として知られているものもある。
「明日の朝にしようなどと言ってはならぬ。朝が仕事を仕上げて持ってきてくれるわけではない。」
 また、復活祭説教のひとつは、今も尚、東方正教会において復活大祭典礼の一部に取りいれられている。
著書に『司祭論』『彫像について』などがある。

②東西教会に今も尚影響を与え続けている存在
 クリュソストモスの祈り(クリソストムの祈り):聖公会祈祷書
「いまこの共同の祈りに心を合わせて祈る恵みを与えてくださった主よ、
あなたはみ名によって心を一つにする我々二人または三人に、
み心にかなう願いを遂げさせてくださると約束されました。
どうか私らの願いをかなえて良しとされ、今の世では主の真理を悟り、
後の世では永遠の命の恵みにあずかることができるようにお願いします。
アーメン。」

 

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脚注

(1)ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典(2017年10月18日閲覧)
(2)一方、人々が聖イオアンを「金口」と呼ぶようになったのは、ある時説教中に聴衆の一婦人が「心霊の師、いや金口なるイオアン、あなたが堀られる聖教の井戸はあまりに深く私たちの短い知識はその底に達することができません。」と叫んだ事に由来するとも伝えられている。(出展:正教時報聖人伝一覧2017.10.19閲覧)
(3)ファーガソン, E, 「カラーキリスト教の歴史」(いのちのことば社, 1979) p.191
(4)ファーガソン, E,前掲書, p.191
(5)教皇ヨハネ・パウロ2世は、このヨアンネスの言葉からユダヤ人に対して取ってきた厳しい態度を謝罪した。ヨアンネス自身も自分の欠点を認めており、自らの虚栄心について、嫉妬心について、激しやすさについて告白している。(出展:小高毅「父の肖像」ドン・ボスコ社, 2002)

【参考文献】
ハーレイ,H,ヘンリー,聖書図書刊行会編集部訳『聖書ハンドブック』聖書図書刊行会, 1984年。
『カラーキリスト教の歴史~クリュソストモス』いのちのことば社, 1979年。
小高毅『父の肖像‐古代教会の信仰の証し人』ドン・ボスコ社,2002年。

 

(文責:川﨑憲久)

 

「イエス・キリストの系図」マタイの福音書1章1~17節

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序論
 今日の系図は「イエス・キリスト系図」と書いてあります。  

  この系図というもとの言葉は歴史とか経緯と言う意味もありますので、イエス・キリストの歴史と読んでも良いわけです。すると、つまり新約聖書の一番最初にあるマタイの福音書から「イエス・キリストの歴史」が始まっているということ。ここから今に至るまでずっとイエス・キリストの歴史が続いているとも言えるのです。西暦はまさにそのとおりですね。紀元前、紀元後とはイエス・キリストの誕生を中心にして歴史が区切られています。
 アドヴェント第二週を迎えた今朝は、私たちの主イエス様が人間の歴史の中に来られたことがどういう意味かを、この系図を通してみことばに聴いていきたいと思います。

 

1. ユダの系図
 1~6節まで読みましょう。
アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト系図アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデ王が生まれた。」
 まずこの1節には、この系図の言おうとしている目的を見ることができます。その一つはイエス・キリストという言葉の説明であるということです。それは16節と繋がっています。16節を読みます。
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
 ここで「キリストと呼ばれるイエス」とあえてキリストと言う言葉がイエスという人の称号であることを分かりやすいように示しています。それは、そもそもイエス・キリストという呼び方は、このマタイの福音書が書かれた頃には、一般化していなかったと言えるからです。
 私は、子どもの頃、小学校の2~3年生のときだと思います。イエス様の伝記の本を読むのが好きでした。ポプラ社という出版社の本を何度も読んでいたことを思い出しますが、その頃はキリストという名前は苗字かと思っていました。だから、ヨセフの正式名称はヨセフ・キリスト、マリヤは、マリヤ・キリストだと思っていました。どうしてかと言うと、当時の伝記の本にはキリストと書かれていて、当然それが名前だと子どもなら思うでしょう。母に聞いてみたら、当時は母まだクリスチャンではないので「違うんじゃないの」と言われたことを覚えていますが、母もよく知らないということがわかりました。
 ではみなさん。キリストとはどういう意味かわかりますか。・・・そうです。「救い主」という意味です。直訳的には「油注がれた者」です。油注がれた者とは、イスラエルの言葉であるヘブル語で「メシア」と言います。これはもともと、イスラエルの王様の称号であったのです。ですから、固有名詞ではないのです。
ですから、このマタイの福音書を読むユダヤ人にとっては、ダビデ王家であるというインパクトが強いわけです。それは、旧約聖書の歴史をずっと教えられてきたユダヤ人には、自分たち神の選びの民を回復させて、国家として独立させる王様を期待してきたので、注目点はそこにあるからです。
 それは、この系図にはダビデに対する神様の契約の成就が証明されているからです。かつて神様はダビデ王にこう仰いました。
「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」 Ⅱサムエル7:12~13
 この契約のことばは、ダビデ王家が永遠に確立するという預言です。その預言がダビデ王の子孫であるイエス様によって成し遂げられた。それが、このマタイの福音書に書かれている系図の意味です。
 だから、アブラハム、イサク、ヤコブのあと12人の息子の中からユダ族が選ばれ、その末裔であるダビデ王にスポットが当たる系図になっています。そして、ダビデ以降はエコニヤまで全部ユダ王国の王様ですが、ダビデにだけ「王」がついています。
 ですから、ユダヤ人にとっては由緒正しい王家の出身の輝かしいメシア、キリスト、油注がれた者という、そういう気高い血統として、この系図は始まっているのです。
 だから、初めてイエス様に出会ったユダヤ人たちは、ある意味、わくわくしたと思います。待ちに待ったメシア、キリストがまさにダビデ王の子孫として来られた。これでイスラエル国家は独立して、もう一度国を再建できる。
 イエス様のエルサレム入城の場面を思い出してください。多くのユダヤ人たちが、自分たちの王様としてイエス様をお迎えしました。ホサナ、ホサナと棕櫚の葉を敷いて、ロバの子にまたがって来られるイエス様を、ダビデのように力強く治める王として歓迎したのです。
 ですから私たちも、純粋な気持ちで、このクリスマスにイエス様を私たちの本当の王様としてお迎えするのです。先程皆さんでお読みした今週のみことば。実は続きがあります。イザヤ書9章7節をお読みします。
「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。 」
 この預言をユダヤ人は知っていました。ですから、このマタイの書いた系図にはまずはユダヤ人の期待に応える意味が込められている。そのことを受け取りたいと思います。
イスラエルの真の支配者ヤハウェなる神の権威を持ったお方。それが私たちの本当の王様、支配者であるということ。それはキリストと呼ばれるイエスである。そのことを受け入れますか。これが、この系図にあるまず一つ目の問いです。

 

2.罪の歴史
 しかし、一見華々しく見える王家の系図ですが、これを書いたマタイは実に正直です。というのも、たいてい王様の系図には、恥ずかしい部分、残念な部分と言うのは省きます。それは、その王様の権威を貶めることになるからです。かえって、ありもしないことを盛り込んで、さも立派な家系だといわんばかりに、権威付けをするものです。
 たとえば、源平合戦の源氏と平氏は有名ですが、その両方とも元々は天皇から始まっています。それは事実だと思います。しかし、多くの系図を見ると途中は結構省かれています。源氏で有名なのは源頼朝義経ですが、この兄弟は全部で九人います。その末っ子が九郎義経なんです。では長男は誰でしょう。頼朝と言いたいですが、そうではなく義平という人です。でも有名ではないし、あまり系図にも出てきません。それはどうしてかと言うと、義平さんは遊女の子だったからです。
 このように系図に載せる場合は、勇ましく権威を落とさないように記すのが世の常ですが、マタイはせっかくユダヤ人が喜ぶような、ユダヤ人が期待するような系図を書き出しながら、段々とその気持ちにブレーキをかけるような内容を、しかもあえて分かりやすく強調しているのです。
 それは、女性の存在です。それは系図に女性がいることがそうだという意味ではありません。イスラエル系図に女性の名前が出ていることは、そんなに珍しいことではありません。そうではなく、その女性「によって」という歴史に意味があるということです。
 今日の系図に何人の女性が出ているでしょうか。最後のマリヤを含めたら5人の女の人が登場しています。その女性の名前を書かなくても系図としては成立するのに、わざわざ書いているのがわかるでしょうか。
 まず一人目。それは3節です。
「ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ」
 「ユダにパレスとザラが生まれ」で良いのに、あえて「タマルによって」と書くことで、旧約聖書を知っている人ならどういうことなのかわかるわけです。簡単に説明しますが、このタマルというのはユダにとって息子の妻です。詳しくはここでは述べませんが、舅と嫁の関係でパレスとザラが生まれたという残念な歴史が明らかにされています。次に5節。
「サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、」
 ここには二人の女性の名前が書いてあります。それはラハブとルツです。この二人に共通することは何でしょうか。それは二人とも外国人だったということです。しかも、ラハブはあのカナン人です。創世記9章でノアが呪ったカナンの子孫で、仕事は遊女でした。ヨシュア記でエリコの城壁を陥落させたときに、イスラエルのスパイを助けたことで救われてイスラエル人の中に入れられた女性でした。ルツもモアブの女でしたが、姑のナオミの息子の嫁になって、夫が死んでもナオミについていくことを選んでイスラエル人の中に入れられた女性でした。
 イスラエル人にとって外国人と結婚することは基本的にタブーでした。それは外国人には必ず土着の偶像の神々がいて、そこでの悪習慣がイスラエルに入ってくることを警戒していたからです。また、そういう背景にある文化で汚れることを恐れたからです。
 では4人目はだれでしょうか。それは6節です。
「エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」
 ここでは名前は出てきませんが、旧約聖書を知っている人なら誰でも知っている女性です。だれですか。そうバテシェバですね。ここでも、あえて名前を伏せて、逆に「ウリヤの妻によって」と他の男性の妻と関係をもったことが強調されているのです。しかも、ユダヤ人たちが期待しているダビデ王の子孫という肩書きの中で、ダビデ本人の失態を強調しているのです。
 ダビデ王は今から3千年前に実在した統一イスラエル王国の王様です。若い頃は先頭に立って戦いに出ていましたが、国が安定したときには全部部下に任せて、自分は王宮の屋上でボーっとしていました。するとその屋上から美しい女性が水浴びをしているのが目に入って、ダビデは釘付けになりその女性を呼びつけて男女の関係をもってしまいました。しかも、その女性が妊娠するとそれをもみ消すために、その女性の夫を戦地から呼び戻して、その妊娠の偽装を計ろうとしたのです。ところが、夫ウリヤは王に忠実だったので、皆が戦っているときに自分だけ家に帰って妻と寝ることはできないと言って、妻とは会わずに戦地に戻ってしまいました。それでダビデは最後の手段。その夫ウリヤを最前線に配置し、戦死させたのです。そして未亡人になってしまったその妻バテシェバを自分の妻としたのです。つまり、ダビデ王には姦淫と殺人の罪があって、そこからソロモン王が生まれました。そのあと王国は南北に分かれてしまい、最後にはバビロニア帝国が攻めてきて王国は滅び、バビロン捕囚という屈辱をイスラエルは味わうのです。
 こういう苦々しい思いを、この系図を読んだユダヤ人たちは思ったでしょう。決して華々しくない。むしろ罪に汚れたところにキリストと呼ばれるイエスが誕生したということが鮮明にされているのです。
 この4人の女性たち登場の背景には、それぞれにイスラエルダビデ王家として恥ずかしい歴史があり、残念な過去が浮き彫りにされる事実があるのです。
 しかし、この罪の中に、この残念な人間の歴史の中にキリストは来られたのです。
すると、こんな罪人の中から生まれたイエスもやはり罪人じゃないのか。また失敗するんじゃないのか。そもそも王様として大丈夫なのかと心配になるでしょう。決してきれいとは言えない血統です。
 ところが5人目の女性の存在で、そういう不安は払拭されます。16節を読みます。
ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」
 5人目の女性はマリヤでした。このマリヤの存在の何が不安を取り除くのでしょうか。もちろん、彼女は外国人ではありません。聖書を調べるならマリヤもダビデ王家の血筋です。しかし、それだけなら、罪の解決にはなりません。大切なことは何でしょうか。その答えは18節に書いてあります。
イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」
 ここに「聖霊によって」と書かれています。これまでの、この系図を見ると全て「タマルによって」「ラハブによって」「ルツによって」「ウリヤの妻によって」と、別な言い方をすると全部「罪を持った人によって」次の子孫が生まれたと書いてありますが、最後のマリヤでは「マリヤによって」ではなく「マリヤから生まれた」としか書かれていません。それはキリストと呼ばれるイエスは罪人によってではなく、聖霊によって処女マリヤから生まれるところに、マタイのポイントがあるからなのです。
 
結論
 今から約2700年前、イザヤという預言者を通して神様は、こう語りました。イザヤ書9:6~7
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」
 この預言のことばは、本当の王様、真のメシア、キリストであるイエス様の存在についてこう語っています。
『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。
 ただの王様ではない。単なる支配者ではない。不思議な助言者(カウンセラー)、しかも力ある神(エロヒーム)、永遠の父、平和をもたらす王様。それは明らかに人間ではなく、神であるお方。だから、それは聖霊によって生まれなければなりませんでした。それは罪の性質を持っていない、造り立てのアダムのようでなければならなかったからです。ここに、メシアの大きな二つの役割が見えてきます。
 一つは、メシアは預言どおりダビデ王家の末裔として、真のイスラエル王国、神の王国を建て上げるために来た王様だということです。二つ目には、そのメシアは神の民をその罪から救う救い主だということです。キリストという言葉はその両方の意味を持っているのです。そこに神の国と神の義が立てられるからです。
 マタイ1:21には、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と書いてあるとおりです。真の王であるキリストは神であると同時に、完全な人間。罪のない姿で完全に律法を守り、悪魔の誘惑に勝利し、罪のない姿で十字架で身代わりになるところにメシアとしての使命があるからです。死刑囚の身代わりを死刑囚はできません。罪のない者が身代わりになるところに贖いの意味があるのです。

 もし、今、イエスを追い出してしまっている兄弟姉妹がいるなら、今日、もう一度主をお迎えしましょう。そして、主によって始まったキリストの王国の国民とされた喜びをもって歩みましょう。また、まだイエス様を信じていない方がいるなら、あなたの身代わりとして死ぬために来られた王であるイエス様をお迎えしようではありませんか。イエス様はあなたを神の王国に招き入れるために罪の真っ只中に来てくださった真のイスラエルの王キリストだからです。それはあなたの歴史が主イエス・キリストの歴史に繋がって、この罪に満ちた世にあって神の国の祝福で満たされるためだからです。

祈り 愛する主よ。あなたは神でありながら私たち人間の歴史の中に確かに来てくださったことを感謝します。真のイスラエルの王として、またあなたの民となった私たちを罪から救うために来てくださり感謝します。どうぞ、今日、あなたを真の王として私たちの心の王座にお迎えします。主よどうぞお入りください。主の御名によって。(川﨑憲久)

◎ 「キリストに贖われて」白石教会 川﨑 憲久

 

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」ペテロの手紙第一2章24節(新改訳2017)

 

  私は幼い頃から、キリストという人が十字架にかけられたのが私のためだったという意味が知りたくて、小学校の図書室からキリストの伝記を借りてきてよく読んでいました。
 しかし、その意味がわかったのは中学生のときに教会に行ってからでした。教会では、聖書の話を聴くことを繰り返すうちに、イエス・キリストは神であるのに人となって、この世界に来てくださり、私が受けるべき神のさばきをその身に負ってくださった。その「打ち傷の傷のゆえに」私は癒されたということがリアルに心に響いてきたのです。
 私は、神が旧約聖書からずっと貫いてきた罪の贖いをイエスによって完成されたという、その救いの計画のスケールの大きさに驚かされ、次第にこの救いを他の人にも伝えたいという思いが、私の内側に起こされてきました。
 私が洗礼を受けたのは高校3年のときですが、その後就職し結婚をして、北海道伝道会議に参加する機会が与えられた26歳のときに、Ⅰペテロ5章2~6節のみことばから献身の思いが与えられました。ところが実際に神学校に入学したのは49歳になってからでした。神の召しは変わりませんが、実際に進み出すタイミングが神の時ではなかったのです。その間、引き続きNTTの電話工事技術者として約30年勤め、様々な社会勉強をさせられました。特に、神学校に入るために蓄えたものが様々な事件によって何も残らず、結局すべて教会からのサポートだけで神学校へ行き、学びと訓練が支えられたことは、大きな学びとなりました。私が自分の力を誇らないために、神はすべて神ご自身にだけに依り頼むようにされたのです。
 それは教会に仕える働きは絶対に人間の力で出来るものではないからです。神は、とことん私が神のことばに信頼するように、予め体験を通して教えてくださったのです。
 今、図らずも白石教会の牧師として召されたことは、まさに神が教えてくださったことの実践であると信じています。それは神にのみ信頼することこそ、主の群れにとって必要な信仰だからです。それは即ち神のことばである聖書に聴くことを大切にするということです。それが罪を離れ、義のために生きることだからです。それは主イエスのように歩むということでもあります。
 これからも主イエスの十字架の贖いを信じて、聖霊に導かれながら、聖書によって矯正される教会、神の国の建て上げを再び主が来られる日まで続けていきたいと願っています。

◎ レポート:「キリストの名」

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序論:

  私たちにとって名前とは、大勢の中にある個を指定する、または判別する役割があります。また、名前はその個の存在や働きを表わす場合にも有効です。特に人間における名前は、その個々人の固有名詞としての名ばかりか、称号であったり階級であったりする場合もあります。そのような一般論としての「名前」を念頭に「キリストの名」を考え、聖書と言う眼鏡を通してキリストご自身の輪郭、実体に近づきたいと思います。

 

Ⅰ. この世におけるキリストの名とは
  この世界において、キリストという名前は多くの人々に知られています。もともとは、ヘブル語で「油注がれた者」を指すמָשִׁיחַメシアのギリシャ語訳Χριστὸςクリストスという一般名詞です。しかし、今や「キリスト」という名は、世界的な規模でナザレのイエスの称号であり、ほぼ固有名詞として用いられています。
   日本においては、1549年にポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルによってキリスト教ローマ・カトリック)が伝えられました。その際、ラテン語聖書のDeusデウスを「大日」と訳し、その後「大日」では密教における大日如来と混同されてしまうため、ラテン語の音読みのデウスと変更しましたが、「イエス」についてはザビエルが属する托鉢修道会イエズス会の名にもなっている「イエズス」が神の御子の名として使われるようになりました。そのキリスト教集団は日本人から切支丹と呼ばれ、九州から東北まで広まりましたが、豊臣秀吉によって伴天連追放令が出され、その後の徳川幕府においても切支丹禁止令によって、その名は邪宗門の代名詞のように扱われるようになりました。
  近代日本において、キリストという名はキリスト教の開祖として知られるのが一般的であり、釈迦やマホメットと並んで世界三大宗教の一つとして教育されています。多くの日本人はキリストと言う名を聞いても、そのような理解の域を出ないでしょう。しかし、この世での名前の用い方においても共通している名前の権威にまず注目したいと思います。

   権威は他を従わせることのできる力であり、その権威によって治められるものがあることを示しています。たとえば、建設工事等で申請すると許可が出る「道路使用許可」等は、その道路を所轄する警察署長名で許可されます。それは、一介の巡査の肩書では用を成さないからです。また競馬で目にする天皇賞も、その名に権威があるからこそ価値があります。ここで共通しているのは、何れの場合もそれぞれ本名を用いずに、その肩書や称号、役職名が先行している点です。それは、個人の名は個人が退任するか、死亡することにより、その権威はその個人から継承した個人に移行するからです。
  キリストの名には前述したように「油注がれた者」という、イスラエルの王を示す意味があります。それは預言書によれば、後に来る世界を治める支配者メシアとしての権威をも表わしています。新約聖書においては、悪霊を従わせる力、病を癒す力、罪を赦す力があることがわかります。主イエスの弟子たちはほとんどがガリラヤの漁師でありましたが、キリストの名によって上記の業を行いました。それは弟子たちに、癒しの業や悪霊追い出しのスキルがあったからではなく、あくまでキリストの名にある権威であります。マタイの福音書における大宣教命令(マタイ28:18~20)において、主イエスは「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」と仰せられました。そしてあらゆる国の人々を弟子として「父、子、聖霊の名によって」バプテスマを授けなさいと命ぜられました。まさにキリストの名における神の権威がそこにあるということです。
  ゆえに、いまやキリストの名にある権威は、イエスというお方にのみ使用される称号であり、他の者に移行することのない神の御名であることがわかります。


II. ἐγώ εἰμι
 聖書に見る「キリスト」の名は直接的な意味としては、福音書記者が記しているようにイエスの職制、権威、資格です。ルカの福音書4:16~30に記されている主イエスイザヤ書61章を朗読し、そこに預言されている「油注がれた」者がご自分であることを宣言されました。
   その「油注がれた」お方のお言葉から、「キリストの名」にある豊かさを見ることができます。その言葉はἐγώ εἰμι(エゴー・エイミ)です。ἐγώ εἰμιはイエスの神性を表わす語として良く知られているように、かつてシナイ山にてモーセが聞いた神の聖名「わたしはある」(出エジプト3:14)のことであると言われていますが、ここでは特にヨハネ福音書におけるいくつかのἐγώ εἰμιに注目します。
①「わたしがいのちのパンです」(6:35)
②「わたし世の光です」(8:12、9:5)
③「わたしは羊の門です」(10:7)
④「わたしは良い牧者です」(10:11)
⑤「わたしは、よみがえりです。いのちです」(11:25)
⑥「わたしは、道でり真理でありいのちです。」(14:6)
⑦「わたしはまことのぶどうの木」(15:1)
●「わたしがそれ(キリストと呼ばれるメシア)です」(4:25~26、18:5)
上記8つのキリストの名には、イエス・キリストがどのようなお方かを表す意味が含まれています。このすべてが私たち人間のだれもが必要とするかけがえのないものであります。つまり、今やナザレのイエスの称号として固有名詞化したキリストの御名には、私たちの人生においての大切な答えが集結していることがわかるのです。
   これは、何れも他に例を見ないキリストの卓越性に気付かせられます。

  「真理」を例に挙げると、他の宗教者であるならそのほとんどが、それぞれの開祖が探究し発見した「真理」を指し示すものではないでしょうか。しかし、キリストは「ご自身」と「真理」をイコールとされたのです。それは「道・いのち」においても「羊の門」においても「いのちのパン」「世の光」「まことのぶどうの木」「よみがえり」そして「メシア」においても同様です。それは、それぞれがキリストご自身であるという意味だからです。だから、キリストがこの地上に来られたということは、「真理」が受肉したということであり、また「道」が、「いのち」が人の姿をとって来られたということでなのです。
  これはかつてシナイ山において「わたしはある」と言われたお方の具体的なお姿であり、私たち人間との関わりの中で、私たちにとってなくてはならないお方であることを表わしています。主はその存在を福音書においてもはっきりと示し、私たちがそのキリストを通して父なる神を体験的に知るように顕わされたのです。
  主イエスヨハネ17章のいわゆる「大祭司の祈り」の中でこう祈っています。
「わたしは、あなたが世から取り出してわたしにくださった人々に、あなたの御名を明らかにしました。・・・わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。・・・そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」
 主イエスは、父の御名を私たちに明らかにし、父が御子に与えられた御名の中に私たちを保ち、知らせ、またこれからも知らせ続けるのは、父の御子に対する愛が私たちの中にあり、御子ご自身が私たちの中にいるためだと言われています。

 

Ⅲ.わたしもその中にいる
「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」
マタイ18:20
 それが、キリストの名によって集まるところにキリストご自身が臨在されるということです。これもまた、他に例を見ない事実です。私たちの名前を考えた場合、名前が語られたからと言って、そこに私たちの存在があるとは必ずしも言えません。その名前における権威は人間でもあり得る使われ方でありますが、名前とともに実体の臨在を一致させることはできません。しかし、キリストはその名によって集まるところにともにいると約束されたのです。それは信じる者すべてに与えられた主の御霊において日々体験し、その臨在を覚えることができるということです。
 そのインマヌエルの主は、こうも言われました。
「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:14)
 私たちは、キリストの名によって祈ります。それは、第一にキリストがそこに臨在されることを求めるからです。私たちともともにいてくださる主を私たちは慕い求めます。この混沌とした世界にあって、キリストの臨在の中集まる我らに主の知恵、主の愛、主のきよさを私たちは必要としています。
  第二には、私たちの祈りを天の父に届けるためです。それは、御子が、神と私たちを執成す唯一の大祭司であり、仲介者だからです。私たちはキリストの血による贖いのゆえに救われました。その血潮は今もなお、私たちのこの地上を歩む上で汚れてしまう足を洗いきよめ続けるのです。

 

結論:「キリストの名」・・・それは、神の御子、メシア、王、預言者、大祭司、犠牲の小羊、しもべ、完全な人間としての使命を帯びています。そして天においても地においても、あらゆる被造物を従わせることができる権威が、この「キリストの名」にあります。そして、「わたしはある」という名をモーセに示されたお方は様々なἐγώ εἰμιのお姿で私たちの「道・真理・いのち、門、いのちのパン、よみがえり、メシア」として、信じる者とともにあります。それは「キリストの名」が、私たち人間にとってなくてはならない、かけがえのない存在であることを表わしているからです。それが、キリストの名によって祈ることの必要をも教えてくれています。それは、その名を呼び求め、その名で集まり、その名で語りあうそのとき、キリストの権威・キリストの卓越した神性に触れることができるからです。それは、私たちの想像力や思い込みでキリストをイメージしているのではなく、まさしく今も生きて働かれているキリストご自身の臨在がそこにあり、まさに「わたしを見たものは父を見たのです。(ヨハネ14:9)」 とあるように、キリストの名によって集められた私たちは、キリストの臨在を通して、天まします我らの父を知ることができるのです。

  それは、キリストに連なる我々キリスト者は「父、子、聖霊の御名によって」、キリストとバプテストされたという聖霊の恵みの中に取り込まれているからです。

 

(文責:川﨑憲久)

◎アドヴェント特別聖書研究「闇に輝く大きな光」イザヤ書9章1、2節〜マタイ4章15、16節

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"しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。
闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。"
イザヤ書 9章1〜2節

 

"「ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。
闇の中に住んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が昇る。」"
マタイの福音書 4章15~16節

 

 

 この節の中心テーマは闇に光が輝くという希望です。その理由は、闇の中で見る大きな光、死の陰の地の上に輝く光に現わされる神の恵みによる救いが比喩的に示されているからです。ゆえにこのイザヤ書における9:2の役割としては、9章前半自体がそうであるように、イザヤを通して語られる他のさばきの預言の中にあって、読者に希望を与えていることがわかります。特に、1~2節には、3~7節の具体的なメシア預言を効果的に照らす役割があると言うことができます。

   ヘブル語聖書では、9章2節から9章が始まります。そして、ここからまた詩文体になります。この部分が8章19節から9章1節と密接な関係を持つことは、この2節のテーマである「光と闇」の対比から明らかにされます。ここで言われている「闇」とは何か。また「光」とは何か。その二つのキーワードに注目しつつ、この2節から広がるイザヤの預言に聴いてみましょう。
 
1.闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち
 まず闇についての部分。「闇の中を歩んでいた民~死の陰の地に住んでいた者たち」という表現です。ここでは闇の中ということばと死の陰の地が対応しており、歩んでいた民と住んでいた者たちがそれぞれ対応しています。
 この「闇」と「死の陰」は、BC734年~732年にアッシリアのティグラセ・ピレセルが侵入して、占領した後の悲惨な状況のことだと言われています。
 ここでは同じような意味でありながら、後半のことばによって、より具体的に救いが表されていることが分かります。それは、同義的並行法によって互いの意味を補い合っているからです。そこに「死の陰の地」と言われることで、当時の文脈としては、その闇というのは、民が受ける圧制であったり、苦難であったり、苦しみを表す暗黒であることがわかります。闇の中でも死の陰の地においても、そんなところを歩まなければならない苦しみがあり、そんなところなのに住まなければならない辛さがあることがわかります。その闇の中、死の陰の地で苦しむ民にとって必要なことは何でしょうか。そのような自分ではどうすることもできない状況で、彼らにとって必要なのはメシアです。そのメシアへの希望。メシア自身が光として来臨する希望です。8章や9章8~10章4節に悲痛さが示されているのは、この預言が語られた時代での闇の状況であり、それによって、闇をも滅ぼすことができる光であるメシアへの渇望を表わしています。

 

2.大きな光を見た(る)~光が照った(光り輝く )
 次にその光について語られている部分をみます。「大きな光を見た~光が照った」という表現です。ここでは大きな光を見たことと光が照ったという言葉が対応しています。
 それぞれの行の主動詞「見た」と「照った」は完了形であり、イザヤの目には、暗黒の闇の中に差し込む大きな光がはっきりと見えていたことがわかります。異邦人のガリラヤはまさに神の光栄を受けることが宣言されたのです。
 ここでも一見同じようなことを言っているようでありながら、民が見た「大きな光」がただ偶然そこにあったというよりも「照った(輝く )」という、光の出現の必然性を見ることができます。しかも、その光は暗闇の中にいる民の遠くにいて光っているのではなく、死を覚悟し、いのちを失いかけている民の真上に輝いているという救いであることがここに示されているのです。
 それが救いの光であり、神がもたらすメシアによる救いの預言でした。それは、神がイザヤを通してユダの民への救いの希望を与えるためであり、これから起こる背教への神のさばきとしての苦しみがあるが、必ずそこには救いの希望があることを予め示したものです。この希望はそれから約700年後にイエスによって成就しました。

 

3.マタイ4章15~16節への引用
①文脈:イエスの宣教第一年開始のとき、バプテスマのヨハネガリラヤの国主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられたことを聞いて、イエスガリラヤに立ち退かれて、その宣教はガリラヤから始めることになりました。そのことをマタイは「預言者イザヤを通して言われたことが、成就するためであった」として、イザヤ9章1~2節を引用しました。
②歴史的関係性:イザヤの預言どおり、ガリラヤ地方はBC8世紀にアッシリアによって侵略され、イスラエル人は捕虜としてアッシリアに連行され、アッシリア人が植民地として移住しました。そのためガリラヤに残留したイスラエル人には異邦人の血が混じって、イエスの時代には、ユダヤ地方の人たちからは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ蔑まれていました。
③イザヤ9:2とマタイ4:16との比較
Is.「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」
Matt.「暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、
死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。
 日本語訳での大きな違いは「歩いていた…住んでいた」が何れも「すわっていた」となっている点です。これはヘブル語では「住んでいた」יֹשְׁבֵי֙ yō·šə·ḇê に含まれる別意ですが、何れもギリシャ語で「すわっていた」καθημένοις(基本形κάθημαι =座る)と訳することで、歩くこともできず、虐げられてうずくまって身動き取れなくなっている状態を表わしていると考えることができます。マタイにおいて民の状態が窮状化しているのは、イザヤが預言したときから比較して、その時期が極まったことを表わしていると推察できます。
④メシアであるイエスは世の光としてこの世に来られた 。その救いの光であるイエスは、「異邦人のガリラヤ」に代表されるように、罪の暗闇で虐げられている人々、罪の報酬である死の地、死の陰で、立つこともできずに、ただ滅びを待っている悲惨な者を救うために来られたのです。つまりメシアは政治的な支配者としてではなく、人類全体のための罪からの解放者として表わされているのです。
ヨハネが捕らえられたことは、光であるイエスが来られた世界がいっそう「暗やみ」、「死の地と死の陰」であることを証明していると考えられます。

 

4.まとめ
 イザヤ9:1~2の預言は、表現としては婉曲的ながら、イザヤ9:6~7の預言との連続性の中で、マタイ4:15~16でその成就が明確に証しされているように直接的成就だと考えられます。バビロン捕囚以降、クロス王による解放を見ても、このガリラヤの地でイエスの出現以外、他に類を見ることができないからです。

  主イエスは、真のメシア(キリスト)として、この世に来られました。あのベツレヘムの羊飼いたちの上に、東方の博士たちの上に、そして、私たち一人ひとりの上にです。この神の光を受けるものとして、ガリラヤが誉を受けたのです。それは後に主ご自身が「ナザレのイエス」と呼ばれたように、主はガリラヤ出身と呼ばれることをよしとされ、全ての蔑まれた者の友となり、メシアとなられたのでした。

   このメシアであるイエスをあなたの心を照らす真の光として受け入れてみませんか。そうすれば、今あなたがどのようなどん底にあっても、どんな暗闇にいても、神のいのちの光に照らされ、真に生きる希望に溢れることができるからです。
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」ヨハネ8:12