日本メノナイト白石キリスト教会

聖書からのメッセージをお届けします。

◎ 「キリストに贖われて」白石教会 川﨑 憲久

 

「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」ペテロの手紙第一2章24節(新改訳2017)

 

  私は幼い頃から、キリストという人が十字架にかけられたのが私のためだったという意味が知りたくて、小学校の図書室からキリストの伝記を借りてきてよく読んでいました。
 しかし、その意味がわかったのは中学生のときに教会に行ってからでした。教会では、聖書の話を聴くことを繰り返すうちに、イエス・キリストは神であるのに人となって、この世界に来てくださり、私が受けるべき神のさばきをその身に負ってくださった。その「打ち傷の傷のゆえに」私は癒されたということがリアルに心に響いてきたのです。
 私は、神が旧約聖書からずっと貫いてきた罪の贖いをイエスによって完成されたという、その救いの計画のスケールの大きさに驚かされ、次第にこの救いを他の人にも伝えたいという思いが、私の内側に起こされてきました。
 私が洗礼を受けたのは高校3年のときですが、その後就職し結婚をして、北海道伝道会議に参加する機会が与えられた26歳のときに、Ⅰペテロ5章2~6節のみことばから献身の思いが与えられました。ところが実際に神学校に入学したのは49歳になってからでした。神の召しは変わりませんが、実際に進み出すタイミングが神の時ではなかったのです。その間、引き続きNTTの電話工事技術者として約30年勤め、様々な社会勉強をさせられました。特に、神学校に入るために蓄えたものが様々な事件によって何も残らず、結局すべて教会からのサポートだけで神学校へ行き、学びと訓練が支えられたことは、大きな学びとなりました。私が自分の力を誇らないために、神はすべて神ご自身にだけに依り頼むようにされたのです。
 それは教会に仕える働きは絶対に人間の力で出来るものではないからです。神は、とことん私が神のことばに信頼するように、予め体験を通して教えてくださったのです。
 今、図らずも白石教会の牧師として召されたことは、まさに神が教えてくださったことの実践であると信じています。それは神にのみ信頼することこそ、主の群れにとって必要な信仰だからです。それは即ち神のことばである聖書に聴くことを大切にするということです。それが罪を離れ、義のために生きることだからです。それは主イエスのように歩むということでもあります。
 これからも主イエスの十字架の贖いを信じて、聖霊に導かれながら、聖書によって矯正される教会、神の国の建て上げを再び主が来られる日まで続けていきたいと願っています。