のりさん牧師のブログ

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テモテへの手紙第一3章

「監督・執事について」

 教会には、群れを導き建て上げるために監督や執事が置かれた。現代の教会では、牧師や役員等と呼ばれているが、教会におけるその職務の資格についてパウロは具体的に述べている。
 当時、監督の職(2~7)を望むことは「すばらしい」(1)と言われていたようである。パウロもそのことばに対して「真実」であると認めているが、監督の地位や身分の肩書きではなく、その働きの内容を言っているのである。2節以降に記されていることは、主の召しを受けて立てられている人の心を挫いたり、失望させたりするために書かれているのではない。主への献身が求められているのである。前章の「祈りと敬虔な生活」の延長線上に、教会に仕える働き人として監督があるのである。その献身が実践的な歩みそのものに表される。そういう意味で教会の指導的立場にある者は、パウロが示すところを目標として歩むことが求められる。またその立場や肩書きに依存して、高慢に陥ることがないように、いつもこのみことばから自らを吟味する必要がある(6)。
 同様に執事も、監督と同様の献身が求められていることがわかる(8~13)。監督よりも求められる内容が少ないからといって軽んじてはならない。決してだれでも良いのではなく「審査を受けさせなさい」(10)と言われているように、現代の教会でも選挙などの方法を通して審査を行い、その務めを「りっぱに果たせる」ように選ばれ、祈られているのである。
 神の家である教会は、これらの人たちを立てて、キリストの現れとしてその栄光を表すために、この地上に「真理の柱また土台」として置かれている(15)。その教会において、信徒一人ひとりもまた、「どのように行動すべきか」が問われているのではないだろうか。