のりさん牧師のブログ

おもに聖書からのメッセージをお届けします。https://ribenmenonaitobaishikirisutojiaohui.webnode.jp/

「主の御顔を避ける預言者」

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聖書箇所 ヨナ書1章1節~10節
 
序論

 今月は、今日から四週にかけてヨナ書を読むことにします。箸休めではないですが、一度、ヨナ書で深呼吸をして12月からマタイの福音書へ戻ろうと思います。11月29日からアドヴェントに入りますので、そこに向かうべく、このヨナ書を通して、神の預言者としてのクリスチャンという視点で学びたいと思うのです。
 ヨナ書は、小預言書の中の小さな書ですが、多くの人によく知られている預言書だと思います。それは、他の預言書に比べて、物語形式になっており、理解しやすいということができます。また、大きな魚に呑まれるという、他にはないような珍しい出来事が描かれています。また、私が個人的にこの書が好きなのは、他の預言書にはない、等身大の預言者の姿が描かれているということです。ヨナ書における與那についての情報は、活躍というよりも、預言者でありながら主のことばに反発したこと、主への不満が中心に記録されています。
 主の預言者なのに、主の言うことを聞かないってあるんだと、何だかそこに親近感さえ感じます。皆さんはいかがでしょうか。主に逆らった預言者。そのことを、今日の箇所では「主の御顔を避けて」と言っています。そういうことが私たちにも起こって来る。現実の問題として、今を生きる私たちへの神様からの言葉として、今日受け取っていきたいのです。
 私たちはクリスチャン。キリストの弟子とも言われますが、別な言い方をするならば、広い意味で預言者であるとも言えます。それは、聖書という神のことばを与って、この世に、この社会の人々に宣べ伝えるために今生かされ、目的をもってここに置かれているからです。だから、今年の年間聖句によって、あなたの行く道すべてにおいて主を知れと、みことばに励まされて今年も歩んで来ました。
 そこに今年は、新型コロナウィルス感染症が立ちはだかるように現れてきました。しかも、まだまだ終わりそうにありません。現在もまだ収束に向かっているとは言えない状況です。これから、いったいどうなるのか。このコロナ社会で私たちクリスチャンはいったいどのように生きて行ったらよいのでしょうか。
 このコロナに対する考え方は、人によって度合いが異なります。マスクすらしたくない人から、怖くて外にも出られない人まで様々です。1から10まであるとしたら自分はどのへんか。クリスチャンといえども、そこは様々ではないでしょうか。
 でも、クリスチャンは、つまり主の預言者としては、基本的な姿勢は一致していなければならないと私は思います。その一つの方向性を、今日のみことばから受け取っていきたいのです。それは、今、この時代に置かれた意味、なぜ今なのか。そこで私たちが主のしもべとして何を第一に考えていくべきか。
 
1.御顔を避けて逃亡するヨナ
最初に神様から預言者ヨナにみことばがありました。2節。
「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
 ニネベというのは、このときの世界を支配していたアッシリア帝国の町の名前です。今からおよそ2700年前の中東、中近東で起きた歴史的事実を聖書は伝えています。このアッシリア帝国は当時のイスラエル王国にとっては脅威です。今でいうと日本にとっての中国。ちょっと前ではソ連のような感じでしょうか。2018年に行われた日本人にとって嫌いな国はどこかという日経リサーチの調査では、北朝鮮が82%で一位。二位は中国で76%。三位は韓国で61%、次いでロシア57%でした。これらの国々はいずれも日本にとって隣国で、国境問題、領土問題等で係争中であったり、軍事力的脅威であったり共通する問題がある国々です。第二次世界大戦の戦争責任問題もあるので簡単でないし、感情的にもなりやすいです。
 皆さんは、また違う感覚かもしれないので、みんなが同じとは言えませんが、あまり良い印象をもっていない国。いや、嫌いな国。また、その国の人が救われるようにみことばを伝えに行きなさいと言われたら、いかがでしょうか。素直に、従順に喜んでできるでしょうか。
 この2節では、神様はヨナに対して「叫べ」と仰っていますが、ヨナにはわかっていました。神様は憐れみ深い方で、いくらイスラエルを苦しめる敵国に対してであったとしても罪を悔い改めたら赦すだろうと。それは、4章2節でヨナ自身が告白しています。
「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへのがれようとしたのです。私は、あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直されることを知っていたからです。」
 これが、このときのヨナの気持ちでした。自分たちを苦しめるアッシリア帝国の町、その人々を憐れみ、その救いの手助けなんて、とてもとても無理。それがヨナの気持ちです。嫌いな国の人が救われるためなんて、絶対にやりたくない。そういう意味では、怠けていて御顔を避けているのではなく、ヨナなりの理由があるのは、ある意味、イスラエル預言者としては、その気持ちはわかるなと思います。決して、信仰を捨てたわけではない。しかし、その任務は勘弁してほしいということです。
 それでヨナはタルシシュ行きの船に乗り込みます。ヨッパというのは地中海の東側にある港町です。そこから船に乗ってというのが面白いです。それは、今でいうならば飛行機に乗って、早く、一気に目的地に向かうということです。でも、このときのヨナは目的地に一気に行くというよりも、神様の前から姿を消したいほど、まったく別方向に行きたい。ここから立ち去りたい。そういう思いだったのです。そのことを聖書は「主の御顔を避けて」という表現を繰り返すのです。10節でも「人々は、彼が主の御顔を避けてのがれようとしていることを知っていた」と書いてあります。
 神様が行けと言われたニネベは今でいうとイラクのあたりですが、タルシシュというのはスペインのあたりで、当時の西の地の果てという場所です。ヨナのいるイスラエルを中心に見るならば、ニネベは東側、タルシシュは西側。右か左かという選択肢の中で、ヨナはどうしても東側には行きたくなかった。だったらイスラエルにいたままでも良いはずですが、思い切り西側へ行こうとするところが、まさに「主の御顔を避け」ることなのです。主を信じてはいるが、そのみことばには従いたくなかった。
 ですから、今日繰り返されている「主の御顔を避ける」とは、神様への信仰をすっかり失ってという意味よりも、主を信じている中で起きていることとして捉えなければなりません。自分が今信仰を持ち続け、礼拝もささげ、献金もしている。そんな信仰生活をきちんとやっていますという中に、主の御顔を避けている現実が存在しているということです。 

 今、私たちはここで礼拝をしている。それは正しい。しかし、本当にきちんと主の御顔に向き、そのことばを聴き、従順に従っているだろうか。その問いを、ここで突き付けられているのです。
 
2.主が大風を
 ところが船に乗って主の御顔を避けたと思いきや、乗った船が嵐に遭います。しかも、乗っている船長はじめ、乗組員たちもいのちの危険を感じるほどの激しい暴風が襲ってきて、船は難破しそうになったのです。船の積み荷を投げ捨てなけれなならないほどの大惨事です。
 しかし、ヨナはどうしていたか。
「しかし、ヨナは船底に降りて行って横になり、ぐっすり寝込んでいた。」
 ヨナにとっては、主に反発したまま、そのような大暴風の事態すら無視して、ふてくされて寝ることも、主への反抗でした。この大嵐も4節をよく見ると「主は大風を海にふきつけられた。それで」と書いてあります。この嵐も主からヨナへのアプローチだったのです。
 でも、自然災害ならば、それは偶然起きたことだと言う事が出来るでしょう。そこで、次にこういうことが起こりました。船員たちが、くじを引こうと言い出すのです。それは、だれのせいでこうなったかという、とんでもない意味をもつくじです。このような決め方は当時では当たり前でした。特に、5節に、彼らは「自分の神々に祈った」とあるように、真の神様は信じていなかったけど、彼らなりに神という存在を認めていた。ですから現代のような個人主義ヒューマニズム中心とは全く精神社会が違っていたので、このくじという方法も神の御心を知るという意味で、この嵐の中でも真剣に行われたのです。
 それで、そのくじを引くと、何とヨナに当たります。これは、さすがに偶然ではない。主が何かを語ろうとしているのだ。その何かはヨナはわかっていました。しかし、のうのうとこう言います。9節。
「私はヘブル人です。私は海と陸を造られた天の神、主を恐れています。」
 そうなのに、自分がどうしてこの船に乗ったのか、ここでそのいきさつを説明したのでしょう。そこでヨナが主の預言者で、主のみことばに逆らってここにいるとを聞かされた人々は語気を強めて叫びます。
「何でそんなことをしたのか」
 このように神様は、状況、自然界だけでなく、未信者の人たち等、様々なことを通しても語ることがあることを知らなければなりません。彼らは未信者かも知れませんが、同時に求道者でもあるのです。まだ真の神様を知らないだけで、彼らなりに何か目に見えない存在を恐れて生きているのです。神様は、そのような人をも用いて、御心を行うことができるのです。
 このようなことは、私たちにもないでしょうか。神様のみことばを聴けなくなっているとき、今でいうならば、聖書を読まずに、いや読んだとしても、かたちだけで聖書のみことばに聴こうとしないとき。神様は、状況や様々な出来事を用いて、神に従うことを求めておられることがあります。
 私が26歳で献身へのみことばが与えられている中、電話工事の仕事を続けていたとき、私は何とかお金をためて神学校に入るための資金にしようと思っていました。ところが途中で少し儲かってきて、マンションを買い、そういう暮らしに慣れてきたときに、献身という神様からの召しというのは、伝道者、牧師になるという意味ではなく、このような収入のまま教会を支えることなのかもしれないと考えるようになっていき、最初の神様の召しの声が遠ざかっていったのです。というよりも、私自身がみことばに聴こうとせず、自分勝手な判断で進んでいた。
 そのとき、どういうことが起きたのか。それは、これまでそのようなマンションを購入したり、教会を支えるなどという思いを保証してきた収入がいきなりガタ落ちになり、マンションの支払いや税金も払えなくなるほどの窮地に立たされました。そこに家庭の崩壊があり、まさに絶体絶命のような状態でした。
 神様は、みことばに聴こうとせず自分かってに歩もうとするヨナに、嵐や異邦人の言葉をもって語り、その行こうとする方向を改めさせようとしました。私も、そのとき、自分では信仰を失っていないし、毎週礼拝をささげ献金し、見た目はそこそこクリスチャンらしい生活をしていると思っていました。しかし、霊的な目は死んでいたのです。私の目は主の方を見ていなかったのです。私が見ていたのは、その時の高い収入であり、そこに依存した贅沢な暮らしだったのです。主が私を日々支え、守っていてくださっているというのは表向きだけで、本当は目に見える金に依存していたクリスチャンだったのです。特に主の伝道者になるように召されているのに、そのみことばを疎かにしていたのです。そのような、みことばが聞けなくなっているクリスチャンに、主の預言者に神様はどうやって、そのお心を伝えるのか。どうやって正しい道に導かれるのか。それは、この世界のあらゆることを用いて教えてくださるのです。
 そして、最終的にやはり最初に聴いていたみことばの通り生きるように、主によって叩き直されるのです。私も、その嵐の中で、もう一度26歳の時に聴いた同じみことばによって立たされました。
 
 
結び
 主はヨナに対してもそうでした。みことばに従わないので、主は様々な出来事によって語り続け、結局、最初の2節のみことばは変わらず、ヨナに向けられていました。
 今日は「主の御顔を避けて」という言葉に注目しましたが、実はこれは元の言葉では2節の「彼らの悪がわたしの前に上ってきたからだ」「わたしの前」と同じ言葉が使われています。つまり、主の顔の前に悪を行っていたのは、ニネベの人たちばかりでなく、ヨナ、あなたもそうなのだということを神様は、ここを通して語っておられるのです。
 確かにニネベの人たちの罪は罪として酷い。しかし、主の預言者でありながらみことばに従わないあなたはどうなのだ。これが、嵐を通して経験した預言者への主の問いです。
 現在、新型コロナウィルス感染症はまだ続いています。この出来事の評価はまだできないと思います。大体、これまでのペストやチフス、インフルエンザも渦中にいる時ではなく、収まってから10年、20年の間に検証されていくものだからです。
 しかし、今、立ち止まって言えることがあります。それは、今日、みことばにあったように、今の私たちキリスト教会、クリスチャンが本当に主の預言者として自覚し、神のみことばを疑わずに従順に聞いて、行おうとしているかということです。コロナばかりでなく、主は嵐のような様々な出来事をとおして語られることがある。それをだれかのせいではなく、まず主の預言者である自分はどうか。考えていきたいと思うのです。きちんと聖書のみことばこそ主のいのちのことばとして日々聴いているか。特に、ヨナの不従順によって船長をはじめ、水夫たちも被害に遭ったことは他人事ではありません。預言者の不従順で、まだ主を知らない人たちをも巻き込んでいることもあるのです。
 
 私たちは、この混沌とした世界の中で、主の預言者としての役割があります。それは一にも二にも主のみことばに忠実であることです。それで今の新約の時代は聖書が完成していますから、その聖書によって私たちは主のみことばを聴き、その聖書のみことばをそのまま、時が良くても悪くても喜んで語るのです。
 今週も主のみことば、聖書に聞きつつ、従順にみことばを宣べ伝えていく者でありたいと思います。
 
祈り